032.訪問者の企み
王太子妃の最有力候補はカレン・クォルツハイム。
テオドールの発言に驚き、思わず声を出してしまい、カレンは慌てて俯いて誤魔化した。
大きな声ではなかったので、子爵が「空耳か?」と呟く程度のことで済んだようだ。
何を言っているのよ、テオドール……!
カレンは心の中で毒づいた。
彼はおそらく、カレンとルドルフの賭けのことは知らない。(知っていれば、存分に嫌味を言ってくる)
ということは、これはカレンへの嫌がらせの可能性が高い。とても高い。
ちらりと見れば、テオドールの表情には黒天使が表れていた。
穏やかに微笑んでいるように見えるが、口角の上がり具合が微妙に嫌味さを醸し出している。
嫌がらせで間違いなかった!
まったく、この黒天使は本当にいい性格をしている。まさか、子爵から情報を引き出すためにガセネタを提供するとは。
これでカレンはドイブラー子爵にさらに狙われることになってしまった。
しかし、現段階で他に有力な候補がいない中、彼の嘘があながち間違いでもないのが憎らしいところだった。
「それで、グラムについてご存知の事とは?」
まだ声の主を探してきょろきょろと辺りを見回しているドイブラー子爵に、テオドロールが続きを促した。
「あ、ああ申し訳ない。それがですな、グラム皇国の目的は実はまだ分からんのですよ」
「分からない?」
「い、いや、今はまだ、ですぞ!これから情報が出てくるはずです、きっと」
勿体つけてこれとは、どうやら子爵の情報もここまでらしい。
自分の名前は出され損だったか、とカレンは思ったが、ドイブラー子爵は慌ててフォローをした。
「しかし、侵攻しようとしている場所は分かります!デシル地方ですぞ」
がたたっ。
カレンは持っていた書類箱を落とした。
カルフォーネ公爵家の紋章が彫られた立派な鍵付き箱である。慌てて拾って傷がないかを確認した。
どうやら傷めたりせずに済んだようだ。
テオドールが「何をやっているんだ」とばかりにこちらを見たので、使用人風に頭を下げておく。
「デシル地方、ですって……?」
再度書類の整理をするフリをしながらカレンは呟いた。
デシル地方は、カレンが社交シーズン後に視察に行こうと予定をしていたミリリタの温泉地方である。
唯一、三国が接する場所から馬車で約二日の距離にある、有名な観光地であった。
ルヘクト王国からは、自国の東、ミリリタとの国境となる山脈を越えてすぐに位置している。
カレンはこの視察を大変楽しみにしていた。
名目は、商会の公衆浴場向け新商品やサービス導入のための視察。そして真の目的は、癒しの温泉旅行だった。
……もし子爵の言葉が事実だったら。
「視察は中止でございますね」
小さいが、はっきりと告げるラルフの声。
ラルフとハンナは、書類の山を片付けているうちにカレンの正面に移動してきていた。
カレンは小さくても声が届くよう、ラルフに顔を近づけ、できるだけ力いっぱい反抗する。
「嫌よ。行くから!」
「そう申されましても。まだ二カ月あるとはいえ、軍が侵攻してはその期間で視察が可能な状態になるとは思えません」
「三人でなら行けるでしょ?私と貴方と、ハンナで」
「デシル地方には入れても、まともに温泉視察などできるはずないでしょう。頭が悪い提案をなさらないでください。情報が事実であったときは、すぐに諦めるよう進言いたします」
彼の言葉がキツイのは、問答をする気がないときだ。
しかしカレンはメゲなかった。
「いいえ、諦めないわ。まだよ。まだこの情報が真実かどうか分からない……!希望は捨てない!」
ぐっ、とカレンは拳を握った。
そこに、ノックの音が響いた。
テオドールの「どうぞ」という返事が終わるかどうかの間で扉は開いた。
扉の隙間から流れる銀髪と、青の騎士服が覗く。開き切るのを待たず、ドアノブを握る人物は一気に用件を室内へ流し込んだ。
「テオ、グラムがデシルに侵……あ」
扉を開けたのは、もう一人の王太子側近である近衛騎士マリグ。紫の双眸を大きくした彼の表情は「しまった、人が居た」とはっきり語っていた。
そして最後まで言わなくとも、彼のおかげで、カレンの温泉旅行への希望はここでひっそりと断たれたのである。
……部屋の奥で肩を落とす彼女の小さな背は、扉の前に居るマリグの視界にすら入っていなかったが。
「……失礼しました。まさかドイブラー子爵がいらっしゃるとは」
こほんとわざとらしく咳をして、マリグが姿勢を正す。
いつも落ち着いている彼にしては、珍しく慌てた様子だが、国境の防衛に関わる事であれば仕方ないだろう。
「大丈夫ですよ、マリグさん。ちょうどドイブラー子爵とその話をしていたところです」
「ちょうど?」
テオドールの言葉に、マリグの目がやや鋭くなる。
「ええ、子爵が独自の情報源をお持ちのようで、わざわざ侵攻の情報を伝えに来てくださったのです」
「……それは興味深いですね。我々より早く得られた情報、詳しく聞かせていただけますか」
二人の視線を受け、ドイブラー子爵の目が泳いだ。
子爵の弟も、焦りだして腰が浮く。
王太子の側近よりも早く他国軍の情報を持っていた相手に、不審な目が向けられない訳がない。しかも彼らは、グラム皇国への人身売買の容疑者である。
先程までの余裕はどこへいったのか、ドイブラー子爵の分厚い顔にはみるみる汗が浮かんできていた。
「グ、グラムの情報など、グラム人に聞けばいいのです。グラム人など、その辺りにおりますしな!」
焦りからか、子爵は早口でまくしたてる。
そこに、ちょうど本物の王宮メイドがお茶のワゴンを押してやって来た。
マリグがメイドに向かって頷いたので、おそらく彼が手配したのだろう。
予定より人数が多かったせいか、メイドが少し戸惑った顔をしたが、目で数え、余計に準備していたらしいカップ数で間に合うと分かると平常の表情でお茶の準備をし始める。
「ほれ、ソレもグラムの血を引いておるでしょう!」
子爵が、紅茶を淹れるメイドを指さした。
黒ではあるが、やや青みがかった髪色をしていたメイドは、突然自分の話になり驚いた顔をした。
平民出身なのであろう。貴族から突然指をさされ、優しい顔立ちが怯えに染まる。
「ほれ、アレも!」
次に指をさされたのは、琥珀の目を持つラルフだった。
しかし当人は表情を変えない。
カレンも彼の出身は分かりきっているので、ここに何も反応はしなかった。
しかし、使用人の振りをしているとはいえ、自分の執事をアレ呼ばわりされていい気はしない。背中越しに子爵を睨み、自分への刺客の返礼に上乗せしてどこかで報復してやろうと決めた。
それと同時に、カレンはつい先日この執務室でレイラから聞いた言葉を思い出した。
『隠しキャラは、グラム皇国の皇子なのよ』
『年の頃は、王太子殿下と同じくらい』
『確か、幼い頃に殺されかけてこの国に逃げてきて……グラム皇国では死亡扱いになっていたはずよ』
『そして、この国、ルヘクト王国の貴族として生きているはず』
昨夜カレンを襲撃したヨハネスの金の瞳や、ラルフの、金を濃くした色合いである琥珀の瞳はグラム皇国人の際立った特徴である。
青髪である分、ヨハネスの方が特徴を色濃く出していると言えるだろう。
正直、ヨハネスが隠しキャラではないか……とカレンは思っていた。
ゲーム期間であるこのタイミングで、彼のような特殊なタイプが近づいてきたことがそもそも怪しい。
それに、隠しキャラの外見が青髪で、瞳は金色であったというレイラの記憶とも一致していた。
彼の素性を確認したくてカレンは昨夜、彼を傷つけずに捕獲しようと思ったのだが、思わぬ手を使われ解放する羽目になってしまった。
彼の言う通りなら、近いうちにまた接点があるかもしれないが、正直、面倒事は無いに越したことはない。
さっさと捕まえ、情報を吐かせるなどして、その後の不安の根を断ち切るべく動いておきたいと思っていた。
「子爵。周囲の者を無暗に疑ったり、不安にさせるような言動は慎むべきです」
カレンの思考とは別に、マリグは今だ子爵を詰問中であった。
紳士な対応が常である騎士が、ドイブラー子爵の発言をいつになく厳しい口調で咎める。
「もうひとつ言えば、青髪、金の目を持っていても、産まれたときからルヘクト王国民である者もいることはご存じのはずです。今のは偏った発言であることはお忘れなく」
それを聞いて、紅茶を淹れていた王宮メイドがほっとしたような顔をした。
マリグとしては、メイドだけを庇ったつもりはなかった。
近衛騎士の隊長である彼は、隊にグラム皇国人の特徴を持つ者も抱えている。
彼らはマリグの大切な部下であり身内であった。
そんな彼らを自国情報を売るスパイのような扱いにされたのが許せなかったのだ。
子爵は、銀髪の騎士の怒りに触れ、微かに青ざめる。
普段は紳士であるマリグではあるが、騎士本来の闘気を少しでも見せれば、ただ欲を脂肪に混ぜて身に着けただけのドイブラー子爵が敵うはずがなかった。
隣の弟も、兄の焦りをそのまま映したように額に汗をかいている。
「あああ兄上、そろそろお暇しないと」
「そっ、そうだな弟よ。私も何かと忙しいからな」
弟の言葉を受け、太い腹を弾ませて立ち上がった子爵は、それまでの鷹揚な動きが嘘かのようにせかせかと扉へ進む。
「それではこれで失礼しまずぞ!」
そう言い残し、あっという間に扉の向こうに消えていった。
執務室内に、ややほっとした空気が流れる。
明らかに安心したように息をついたのは、王宮メイドであった。
「お茶はこちらで淹れますから、下がっていいですよ」
子爵たちは結局、お茶も飲まずに去って行った。
マリグが穏やかに伝えると、メイドは一瞬戸惑ったような表情をした。しかし「構いませんよ」と騎士に重ねて言われたことで、感謝したように頭を下げ、部屋から去って行く。
相変わらず気配りができる騎士だと、カレンは感心してその様子を眺めた。
扉が閉まると、テオドールが初めて執務机から立った。
「マリグさん、子爵を帰してもよかったのですか?」
「今は泳がして大丈夫でしょう。殿下からの指示で、子爵には諜報の人間が付いていますし」
「そうですか」
「それよりテオ、グラム皇国の進軍について情報を……」
マリグは、そこで初めて執務机の横のメイド服の少女に気づき、驚きで目を丸くする。
「カレン嬢……ですか?その恰好……」
うっ、忘れてた!
今の自分が金髪カツラのメイド服であることを失念していた。
慌てて頭を手で覆うが、そんなもので隠れるわけもない。
執務机のテオドールが横でぶはっと息を吐く。
「そうか、マリグさんは初めて見るんですよねあの恰好……!はは!」
子爵と話していた時の余裕ある態度をすっかり消し、笑い転げるテオドール。
カレンの額に青筋が浮かんだ。
それを見てマリグは慌ててフォローを入れる。
「い、いやお似合いですよ。さすが何を着ても……って、なぜ立ち上がるのですかカレン嬢!?」
ゆらりと立ったカレンの不穏な空気に、危険を感じて思わず剣に手をかけるマリグ。
マリグは本気で褒めたつもりであったが、完全に逆効果だった。
「お嬢様、早く片付けませんとお時間が」
と、そこで珍しくラルフが止めに入った。
ドイブラー子爵の乱入で手が止まり、時間を無駄にしたのは確かである。執事は、少しでも早く作業を終えるよう主人に働きかけた。
「……そうね。片づけ優先よね。こんなところで遊んでいる場合じゃないわ」
カレンが力を抜くと、マリグの顔に安堵が浮かんだ。
マリグは感謝をするような視線を、ラルフに送った。そして隣にいるハンナにも気づく。
ラルフが、上位者への礼儀として立ち上がり、腰を折った。
ハンナも慌てて立ち、ぺこりとお辞儀をする。そしてラルフの背にちょこちょこと隠れた。
その様子はまるで小動物である。
ラルフと違い、あまり人前に出る仕事をしないハンナはこういった貴族が揃う場に慣れていない。
ナイフの投擲なら他に類を見ない使い手であるというのに、こと侍女の仕事となると天然のドジがさく裂する彼女は、クォルツハイム家使用人の全員一致の意見により、客前に出ない仕事をすることになっていた。
そんなハンナと、そしてここでも無表情のラルフを見て、マリグがふっ、と笑った。
使用人たちを見るその表情が優しく見えて、カレンには不思議に思った。
マリグが、時計を見て思い出したように言った。
「もう昼食の時間ですね。カレン嬢はどこで食事を?」
「いつもはここでいただいていますが、今日はこの二人もいるので、使用人の食堂へでもと」
「そんなことさせられません。良ければお二人も連れて、俺たちが使う食堂にどうですか」
近衛騎士たちが使う食堂と言えば、王宮に勤める文官たちも利用する場所だ。
さすがに使用人の恰好をした自分が行くことはできない。
「大丈夫ですよ。ときどきあることですから」
マリグはそう言うが、兄や、先日会った兄の部下たちも利用する可能性もあるため、遠慮したかった。
やはり無理です、と断ろうと口を開きかけたとき、ばん、と扉が開いて、朱のドレスが飛び込んできた。
「カレンっ」
それは、豊かな金髪を結い上げ、ドレスと同じ薄い朱の双眸を持った女性であった。
カレンの親友、レイラである。
「姉さん!?」
テオドールが驚いて執務机から立ち上がった。
レイラは「急にどうしたの?」と駆け寄る弟には一瞥もくれず、執務室内をぐるりと見渡す。
そして背の高いマリグの向こうに居る、小柄な少女を見止めた。
「カレン!」
そして、弟をスルーして、カレンに抱き着く。
「レ、レイラ、どうしたの!?」
急な親友の登場に、身体を受け止めながら何事かと問いかけた。
彼女があまりにも必死なので、もしかして、何かゲーム展開に変化があって、レイラの悪役令嬢ポジションが復活でもしたのかという悪い考えが頭をよぎる。
カレンの小さな背をぎゅっと抱きしめたレイラは、顔を上げると、潤んだ目で親友を見た。
色気のある垂れ目の瞳は、世の男性たちを一瞬で落とすだろう。
レイラは、息をすうっと吸うと、感情を爆発させるように吐き出した。
「可愛いっ!!」
「――はっ?」
カレンの目が点になる。
「やっぱり、変装にこの服を指定して正解だったわ!カレンなら絶対似合うと思ったの!!!」
「……ええと?」
「お父様にお願いしてよかった!侍女服よりよっぽどこちらの方が可愛いわよね!!金髪カツラもぴったりね!私グッジョブ!!」
「レイラレイラ」
「フリフリのメイド服、小柄なカレンに似合うから、絶対見たかったの!今日が最後だからもう必死で……!!いやあん、可愛い!萌えって気持ち、久々に感じたわっ」
「あの」
「カレン、一緒に食事しましょう?庭園の隅でいいわよね?食事持ってきたの!明るい場所でその姿を愛でさせてっ」
レイラのキャラが変わっている。
後ろで、姉大好きテオドールさえ途方に暮れていた。
……とりあえず、カレンがこの恰好になった経緯と原因はようやく判明した。
あと、聞いたことなかったけど、レイラの前世はたぶん腐女子だ。そんな気がする。
とりあえず、カレンはレイラの肩をぐっと押した。
レイラの細い身体は簡単に外れ、離されたレイラは少し驚いた表情をする。
そして、興奮でピンクに染まっていた顔が、カレンの顔を見てさっと青ざめた。
カレンは何もしていない。ただ親友に笑顔を見せただけである。
「レイラ――あとで、ちゃんと話しましょうね?」
「は、はい」
マリグは、そんな彼女たちからそっと目を逸らすしかなかった。




