028.三日目の交換条件
「テオドール君の執務室の片づけは順調かい?」
エルヴィンの問いに、ディナーのメインディッシュである魚料理を口に運ぼうとしてたカレンの手が一瞬止まった。
「……荷物が、増えたわ」
そして、フォークの先の白身魚をぱくりと口に入れた。
若干、その眉間には皺が寄っている。
カレンが、レイラの弟、公爵子息テオドール・カルフォーネの王宮の執務室に通って本日で二日目。
一日目で机回り、二日目で壁一面の本棚、三日目で本棚の残りと他の収納を片付ける計画を立て、順調に進んでいた。
いたのだが。
夕方頃、近衛騎士が文字通りなだれ込むように入ってきたと思うと、テオドールの執務室に山のように書類の束を置いて去って行ったのである。
カレンが愕然としたのも仕方がない。
テオドールと喧嘩しながらも順調に片付いていた荷物が、開始前より増えたのだから。
食堂のテーブルの上座に一人座るエルヴィンは、ラルフに注がれたワインを飲みながら、全て把握している様子で頷いた。
「聞いているよ。王太子殿下の執務室に、何者かが侵入した形跡があったと。それで、テオドール君のところに書類を移動したらしいね」
「ええ、テオドール様の部屋だけではなくて、他にも分散させたようだけれど……」
テオドールに届けられた荷物のほとんどが重要書類だというのは、一目瞭然であった。
テオドールから「触れるな」と言われたが、床に放置しておくわけにもいかなかった。とりあえず今日は一度片付けた棚を空け、その中にぎゅうぎゅう詰めにして鍵を閉めたが、もっとしっかりと収納場所を確保せねばならない。
ちなみに、侵入者があったということで、王太子執務室は一時封鎖され、保管されていた書類は他――警備がさらに厳重な王の執務室、そして大臣たちの部屋――へと移されたと言う。
移動された荷物の全体の量は分からない。しかし、テオドールは王太子の側近であるため、恐らく、他よりも移動された書類の量は多いのではないだろうか。
何にしても、カレンの仕事は格段に増えた。
とてもではないが、残り一日で終わらない状態になってしまっている。
「それで、そんな状態であと一日で片付くのかい?」
「もちろん終わらないわ」
カレンが苛ついた声で答えるとほぼ同時に、ラルフがカレンのグラスに水を注いだ。
相変わらず、優秀な給仕をする執事である。
カレンはその水を一気に飲み干した。
「けれど、それも一人でやるなら、って前提よ。ということで助っ人を連れていくことにしたの」
「助っ人?」
「ええ」
カレンは横に立つラルフに視線を向けた。
主人の視線を受け、ラルフは無表情に頭を下げる。
片眼鏡のチェーンが肩から流れ、しゃらりと音を立てた。
「ハンナと共に、お嬢様に同行して王宮へ行くこととなりました。不本意ながら」
「ちょっと。最後の一言は余計よ」
ラルフに向けた目を少し吊り上げて注意したが、本人は表情を変えない。
対照的に、エルヴィンは納得した顔をした。
「なるほどね、ラルフたちならカレンとも連携を取りやすいから助っ人としてはうってつけだ。ラルフ、カレンを頼むよ」
「明日一日、屋敷を留守にしますこと、お許しください」
次期当主のエルヴィンの言葉に了承の返事をすることなく、婉曲に答えたラルフ。それに気づいてカレンはため息をついた。
「ちゃんと報酬は出すでしょう。いい加減機嫌を直してよ」
「私は暇ではありませんので」
表向き、表情は変わらないが、言葉に不本意さを隠そうともしない。ラルフは淡々と給仕を続け、デザートの皿を二人の前に置いていく。
「へえ、報酬を約束したんだ、太っ腹だね。それで、一体何を?」
「ハンナには、食事の大盛り権利を三日分ね」
「へ、へえ……」
「ラルフは未定よ」
「未定?」
首を傾げる兄に、カレンは肩を竦めた。
デザートはクォルツハイム家敷地内の果実園で取れた果実を使ったタルトである。なかなかいい出来だと満足しながらカレンはタルトを口に運んでいった。
「ラルフの欲しいものが分からないのよ。本人も考えるっていうし……だから後日決めようという話になってるの」
大食い侍女のハンナの場合は、大盛り権の手札を切ったとたんに快諾してもらえた。しかし、慇懃無礼執事ラルフに関してはどんぴしゃな条件が思いつかなかったため、こちらから提案ができなかった。
ということで、カレンが提案したのは「対価として、ひとつ要望を聞く」だった。
要望を受け付ける期限も特に設定していない。
それこそ太っ腹な申し出ようであるが、今回の労働量と要求の価値が見合うかどうかは、カレンが判断をすることでバランスを取った。
カレンが不当を嫌う性格であることはラルフも理解しているので、この辺りは暗黙の了解で信用取引となっていた。
実は、こういったやりとりは、彼女たちの中で特に珍しいことではない。
これは、執事として甲斐甲斐しく世話をしているように見えて、実は報酬以上の仕事はしないと割り切っているラルフと、それが当然と思っているカレンのちょうどよい関係とも言えた。
「いつも思うけど、ドライな関係だね」
「そんなものじゃないの?無条件に貴女に付いてきます、と言われるよりはよっぽど分かり易いと思うけど……」
「カレンのそういうところ、本当に今どきの女の子じゃないなあ」
兄の苦笑に、カレンは再び肩を竦めた。
カレンとしては前世を含め、トータル約五十年の人生だ。
記憶が薄れてきているとはいえ、経験から身についた価値観は完全に消えることはない。しかしまあ、今どきのご令嬢の基準でみたら大きく外れていても仕方がないだろう。
ただ、兄が言うほどドライでいるつもりもない。
カレンとしては、ラルフもハンナも、そしてともに暮らしている使用人たちも愛すべき家族だ。
しかし、実際に血が繋がる家族である兄と、彼らは違う。
ラルフ達とは、契約と報酬で繋がっている主従関係である。単純にそれを忘れないようにしているだけであった。
どんなに親しくしても、家族のように過ごしても、これは変えようがない。
曖昧な線引きは失くすに越したことがなく、いい関係を続けたいからこそ、今回のような要求と提案を行っているに過ぎなかった。
が、それをエルヴィンに伝えても、きっと呆れられるだけだろうと思ったので、カレンは敢えてそれを説明しなかった。
気付けば、ラルフは食堂から居なくなっていた。
「まあラルフの要望と言っても、今までの例からだと、休日か手当か、どちらかだと思うけれどね」
カレンはこの話を軽い調子で打ち切った。
皿のデザートはすっかり平らげられている。
「ところでお兄様、食事も終わったので先に失礼してもいいかしら。ちょっと片付けたいことがあるの」
妹の申し出に、エルヴィンは軽くグラスを上げて答えた。
ありがとう、と答えてカレンは席を立つ。
「カレン」
「なあに?」
扉を出ていくカレンに、エルヴィンは小さな笑顔で見送りの言葉をかけた。
「忙しくするのが好きなのは分かっているけれど、ほどほどにね。カレンが怪我をするようなことになったら、兄様は心臓が止まってしまうから」
「お兄様ったら」
エルヴィンの愛しい妹は、朗らかな笑顔を兄に向けた。
「本当に心配性ね。私はそこまでお転婆じゃないわよ。大丈夫」
「うん、分かっているよ。ただ、王宮も安全な場所じゃないからね」
「ええ、心配ありがとう。気を付けるわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
ぱたりと食堂の大きな扉を閉め、くるりと踵を返すと、カレンはランプの灯る廊下を自室とは別の方向に歩き始めた。
途中、灯りの影から、片眼鏡の執事が音もなく歩み寄り、主人の後ろに付く。そして黒く長い得物を無言で差し出した。
それを受け取りながら、カレンはラルフに問う。
「場所と人数は?」
「全十八人。屋敷に近い北と東からの侵入者が五人ずつ、南から八人です」
「どんな侵入者?」
「服装からですと、ヤクザかと。また、護衛兵は第二副長他一名を南に、隊長以下八名を北と東に向かわせています」
「ご苦労様。ふうん、そうなのね」
カレンは思った程ではないな、と感想を抱く。
珍しく早い時間、それもいつもより多い人数の侵入者の気配を察したので動くことにしたが、意外に少なく感じた。
ついでに言うと、気配を消すこともせずお粗末である。こういった、組織だった襲撃の専門集団ではないと判断した。
「もしかして北と東が、侵入のタイミング早そう?」
「左様でございます。そのため陽動と判断しました」
「それでいいわ。じゃあ私は南に向かうわね。あと、念のため『影』を四方に配置しておいて。探索だけで緊急時以外は手出し無用。お兄様がいらっしゃるから、静かにね」
「承知しました」
兄は議会開催による連日の勤務ですっかり疲れている。今日だって、二週間ぶりに共に食事をすることができたのだ。
襲撃者程度で、兄の休養の時間を減らしてはならない。
元々、屋敷の警備対応はラルフに一任されている。片づけを済ませ、明日朝にでも報告すれば問題ないのだ。
カレンが『影』の動きについて手早く指示すると、ラルフが暗闇に向かって目配せをする。
それと共に、いくつかの気配が方々に散った。
カレンが独自に持つ、『影』と呼ぶ集団。
過去にラルフが所属し、すでに解散している組織の人間を元に構成されている集団である。
剣技、暗殺、探索、情報収集など、元々それぞれの分野で抜きん出ていた人材から、さらにラルフが厳選した人間を集めているので、少人数ながらも精鋭揃いであった。
そして護衛兵には、隊長、二名の副長以外に二名『影』が含まれている。カレンが向かうと告げた南に配置される警備兵は、全て影であった。
「夜間の警備ってどうしても十名前後の構成になるのよねえ。これ、少ないなって思ってたのよ。襲撃者の人数がちょっと多いと人手が足りなくなるの、不安だわ。もう少し警備増やせないかしら」
暗闇の庭園を紺色のドレスを翻して駆けながら、カレンは緊張感など全くない声で隣の執事に尋ねる。
「お嬢様の成人を機に、襲撃が増えることを予想して増員しています。急に増やすと統率がとりづらいですので、その観点からも、今すぐの増員は避けるべきかと」
「どれくらい先なら可能?」
「半年でしょうか」
「それなら上等。手配して頂戴。加えて警備兵の中の『影』を一名引き上げて、他の仕事に回しましょう」
「どちらへ」
「お兄様の護衛。増員ね」
「承知しました」
裏側の人員計画を走りながら決定していると、ほどなく目的地が見えてくる。
カレンは止まることなく腰の刀を抜いた。
同時にラルフも二本の三日月刀を抜く。
「じゃあ、明日も早いし、ちゃちゃっと片付けちゃいましょうか」
二日間、片付けしかしていなかったので身体も鈍っているから丁度良いーー
兄が思っているよりも、ずっとお転婆な令嬢は、楽しそうな色を声に含ませた。




