026.襲撃者
気配に、気づかなかった。
手袋の手に口を押えられ、右腕を後ろに取られた状態で、カレンは扉に引きずり込まれながら瞠目する。
しかし、抵抗できなかった訳ではない。
カレンは扉が閉まった瞬間、室内に他に人が居ないのを気配だけで確認し、そこで初めて仕掛けた。
騒ぎで人が集まらないよう、敢えて密室での反撃を狙ったのである。この場合、他に気配が感じ取れない人間が居たとしたら、それは全て反撃対象だ。
カレンは逃げるのでなく流れに乗り、後ろに引かれる勢いのまま地面を後ろに蹴って、背から相手の懐に飛び込んだ。同時に、空いた肘を相手の鳩尾に鋭く打ち込む。
ちっ、手ごたえが軽い!
相手も同じタイミングで後ろに引いたようだ。気配を感じさせないだけあって、デキる。
しかし、今の攻撃が虚をついたのか、口と右腕を塞いでいた相手の手は緩んだ。すかさず右腕を反して相手の右袖を引き、背負い投げの要領で相手を地面に打ち付け――ようとしたが、背後から足を払われ身体が傾く。
傾きに逆らわず、むしろ積極的に身体を倒したカレンはそのまま地面に手を付き、着いた瞬間に身体と脚を勢いよく跳ね上げた。
「ふッ!」
呼気とともに相手の顎に真下から突き上げた蹴りは、黄色いハイヒールの残像を残して空を切る。
地面に近い位置で、眼前に残ったスカートの隙間から背後を確認すると、相手の足が数歩自分から距離を取ったのが見えた。
相手の後ろには長椅子。これ以上後ろに下がることはできない。
即座に身体を捻り、足が地面に着いたと同時に相手に迫る。そして、相手の死角となる位置から隠しナイフを繰り出し、突いた。
タイミングは、完璧。
だが、ナイフを持つ手は相手の顔に触れる寸前、カレンが相手の顔を認識したことでぴたりと止められる。
カレンの小指の爪ほどの隙間を空けた、ギリギリのタイミングであった。
カレンの目の前に、ふわりと鮮やかな金髪が舞った。
「――何やってるんですか、殿下」
カレンが思わず半目になってしまったのも仕方ないだろう。
そこには、カレンのナイフを受けようと構えるーー大変いい笑顔をした王太子ルドルフがいた。
「相変わらずよい腕だな。気を抜けば危なかった」
カレンがゆっくりとナイフを離し姿勢を戻すと、ルドルフも力を抜き、構えをといた。
「……何していらっしゃるんですか、こんなところで」
「ほう、スカートのひだの重なりを利用して隠していたのか。確かにそれ一本なら軽いし、ドレスの形も崩れない上、取り出しやすい。賢いな」
文句を言いつつナイフを仕舞うカレンを観察し、顎に手を当てながら、ふむふむと感心そうに頷くルドルフ。
「まあ、投擲用の軽いナイフですし問題ない……って違う!一体何をしてくれるんですか貴方はっ」
「なかなか面白い余興だったろう?」
「面白いはずがないでしょう……!おふざけはやめてください!」
この部屋は無人だが、外にいつ人が通るか分からない。騒ぎを聞きつけて人が集まったらどうするつもりだったのか。怒鳴るのを抑えて怒鳴る、という器用な芸当をしてみせたカレンであったが、ルドルフは至って気にしていない様子で軽く肩をすくめた。
「何を言っている。約束を破ったのはお前だろう」
「……約束?」
「茶会の後で、会おうと言った」
カレンは目を宙に向け、お茶会中の出来事を思い出す。
お茶会……お茶会……何かあったかしら……
数時間前の出来事を順に辿っていって、ふと思い立った。そういえばお茶会を途中退出する際、ルドルフが口パクで「あとで」とカレンにサインをしていたっけ……
――あれか!
だが。
「約束なんてしていません」
カレンが悪いという扱いに即座に遺憾の意を示した。バカを言って欲しくない。一方的に言われたことが約束なら、その辺に約束の山ができている。
「だが拒否しなかっただろう」
「返事をできる状況ではなかったでしょう……!」
あのお茶会の席には、レイラもシェリルも、そして王妃もいた。あの場のカレンは、とっさに目を逸らして無視することが精いっぱいだったのだ。
苛立ったが、このままではいつまでたっても話が平行線になる気がした。
カレンは、もういいです、と一息つく。
「で、殿下は私が帰ろうとしたのを知って、ここに引っ張り込んだと」
「そうだな。文官たちが、あれだけお前の名を呼んで走っていれば居場所はすぐに分かる」
「ああ……」
となると、この状況は間接的に兄のせいということになるのだろう。
仕事を部下に押し付けて帰ろうとしたエルヴィンは、翌日から一週間、カレンに口をきいてもらえなくなるのだが、これはまた別の話である。
「ところで」
と、ルドルフの低い声が聞こえた瞬間、カレンの視界が反転した。
何気なく右手首を取ったルドルフが、カレンの身体を軽く捻り投げたのである。
背中に長椅子のクッションが近づくのを感じながら、カレンは反射的に空いていた左拳を繰り出した。常人の反応を越えた速度で出されたそれは、背中が着地すると同時にルドルフの腕にぎりぎり止められる。
「顔を狙うんじゃない」
そう言いながらも、長椅子に横たわるカレンの大腿の上に折り曲げた片脚を乗せ、しっかり固定していた。
両腕を取られ長椅子に縫い付けられてしまい、舌打ちするカレンにルドルフが笑う。
「お前は、一旦警戒を解くと僅かに隙が出る」
くすりと余裕に笑う青の双眸がカレンの上にあった。
隙だらけと言うが、カレンは警戒を解いた覚えはない。
この部屋に引きずり込まれたときもそうだが、この王太子の気配の消し方や不意の突き方が上手すぎるのだ。
普段はあんなに目立つ王子オーラを出しておきながら、こんなに完璧に気配を消せるなんて。
短時間に二度も下手を取られ、カレンの目に悔しさ混じりの怒りが浮かんだ。
「この体勢でその眼をするか。面白いな」
可笑しそうに口を歪ませているのが、また気に食わない。
「そう怒るな。お前が悪いんだ」
「次は何でしょうか」
「それだ」
「は?」
「敬語。それに名を呼べと言った」
マリグに続き、本日二回目の要求だ。
何なんだこの主従は。そんなに女にタメ口をきかれるのが好きなのか。
苛立ちも手伝って、面倒だと思う気持ちがピークに達した。
「分かったわルドルフ。はいこれでいいでしょ用件をどうぞ」
棒読みもいいところのカレンの口調に、ルドルフが形のいい眉をひそめた。
「機嫌が悪いな」
「誰のせいだ」
「私か」
「たまには察しがいいわね」
組み敷かれた状態のまま、全く色気のない会話が繰り広げられる。当然カレンの目つきは据わったままであった。
「まあいい。話とは、人さらいの一件についてだ」
「何か分かったの?」
意外にも真面目な話だったため、カレンは背を僅かに浮かせた。が、ルドルフは体勢を変えず話を続ける。
顔が近づいてしまうと気づき、カレンはすぐに背を戻した。同時にもう一度ルドルフを睨む。
「とりあえず、離してくれない?」
「断る。お前はすぐに逃げる」
誰のせいだ、と思ったが、ここで言い争うよりさっさと話を終わらせた方が効率的だと思いつき、警戒を解かないようにして話の続きを促した。
彼はこれ以上何もしてこないだろうと確信めいた判断の元、身体の力を軽く抜く。
「抵抗しないのか。つまらんな」
ルドルフが鼻を鳴らしたが、聞かない振りをした。
ルドルフはカレンが抵抗しない様子を見て、身体を少し起こした。顔の距離は十分離れたが、拘束を解く気はないらしく、両腕と脚から体重が退くことはない。
「まあいいだろう。一味の使っていた屋敷は、ドイブラー子爵の持ち物だった」
「それは把握しているわ。あなたに四歳児を押し付けようとしている、あのドイブラー家ね」
「……私も、子供を妃にするつもりはないぞ」
ドイブラー子爵は、これまでカレンに何度も刺客を送り付けてきたしつこい貴族で、王家の血筋を引く家の、末端中の末端であるにも関わらず、血筋を笠に着た言動を繰り返し煙たがられている存在であった。
そして、王太子妃候補として、自分の四歳になる娘を挙げようと躍起になっている人物である。
だが、あの屋敷が子爵の所有物であることくらい、カレンにも調べがついていた。
「じゃあ、もう主犯は子爵で確定?」
「その前に、本人は否認している」
「否認?」
「ああ、空いている屋敷を勝手に使われただけで、自分は関与していないと」
「……動機が金稼ぎだって言われれば一発で納得しちゃうくらい、あんなに欲望ぎらぎらの怪しさ満点の人物なのに?」
「事実だ。実際、周辺を洗ったが全く証拠が出てこない。尋問すると発言はあやしいんだが、ここまで何も出ないのでは罪にも問えん」
「でっち上げちゃったら?」
「それも考えたが、本家が出しゃばってきてな」
ドイブラー子爵家は分家であるが、本家であるドイブラー伯爵家が無理な拘束に抗議をしてきたのだという。
「先に、伯爵家に手を回しておくべきだったわね」
ドイブラー伯爵は、貴族院の中でも比較的上位の立場にあり、発言力は強かった。家系なのか、子爵家ほどではないがうるさい家であるため、今回の口出しも予想できなかったことはなかろうとカレンは思う。
「そう言うな。ドイブラー子爵から証拠が出ないなんて思わなかったんだ」
詰めの甘さを指摘され、珍しくそれを認めたルドルフに、寝転んだまま、カレンは器用に肩をすくめた。
亜麻色の髪の一部が、その動きでさらりと長椅子の下に流れる。
「それで、ドイブラー子爵は釈放されたってわけね」
「ああ。動きは追っているが……難しいだろうな」
「ふうん。で?こんな実のない話だけで私をこの部屋に引っ張り込んだの?」
「そんな訳ないだろう。――夜会で私たちを襲った襲撃者、覚えているか?」
「もちろんよ」
ヒロインと初めて出会い、ゲームの初回イベントとなったあの夜会は、もう二カ月も前のことだ。
頷くと、ルドルフは少し苦い顔になった。
「捕えた襲撃者二名が、先日殺された」




