025.鬼となりましょう
「おっ、お兄様!?」
扉の開く音に驚き、跳ねるように身体を戻したカレンが、扉に立つ人物の姿を見て再度飛び跳ねた。
カレンより薄い亜麻色の髪に、翡翠の双眸、地味な文官服を身に着けた青年――カレンのシスコン兄、エルヴィンその人であった。
エルヴィンは、即座に部屋の中を見回し、居るのがカレンとテオドールだけだということを把握すると、顔色を変える。
「カレン!大丈夫?この性悪に何かされてないかい!?」
「誰が性悪だ!」
額に血管を浮かべ、テオドールが立ち上がったが、エルヴィンはそれに一瞥もくれずにカレンに抱きついた。
「おっ、お兄様、くるし……」
「どこも触られてない?減ってない?あっ、おでこが赤い。これはどうしたんだい?」
まさか野生動物の決闘よろしく、額をぶつけて睨みあってたなど言えない。
「無視するな!何ノックもせずにボクの部屋に入ってくるのさ!それに今仕事中じゃないの!?」
「私を誰だと思っているんだい?カレンが君の部屋に入ったと聞いてすぐに早退を申請したんだ。議長と少しモメたから時間がかかったけど大丈夫さ!」
「それ拒否されてるだけだろ!仕事しろ!」
テオドールは白磁の頬を桃色に染め、ふわふわの金髪を揺らしながら怒鳴り散らした。こんなに怒り狂っているのに可愛いのはずるい。
ちなみに今更だが、天使が黒天使になるのはカレンの前だけではなく、兄のエルヴィンの前でもである。
「はっ、そんなんで未来の議長なんて大丈夫なの?エルヴィン・クォルツハイム議長補佐。嫌になったのなら、いつでもボクが替わってあげるよ」
不敵な笑みを浮かべるテオドールに対して、エルヴィンは胸を張る。
「心配することないよ、テオドール君。いくら議長の息子とは言え、君に議長は務まらない。大人しく王太子の腰巾着でもやっていたまえ」
「偉そうに……」
苦々しく呟くと、エルヴィンは意外そうな顔をした。
「おや、十歳近く年下の相手に偉そうにして文句言われるなんて思わなかった。まあ、議長になりたいなら頑張ってみればいい。別に私はこだわらないし」
「何だよそれ。貴族のトップである議長の席を誇りとも何とも思ってないってこと?」
「まあ名誉ではあるだろうね。ただちょっと面倒かな。私は今のままでも十分なんだけど」
「ふざけないでよ」
テオドールの紅玉の瞳の色が濃くなった。
カレンと違い、兄のエルヴィンがテオドールに嫌われている理由ははっきりしている。
父であるカルフォーネ公爵のポジション、貴族院議長の次の候補にエルヴィンが立っていることが我慢ならないのだ。
テオドールも優秀ではあるが、彼があと五年早く生まれていたら、と人々は言う。しかしそれを言っても仕方ないことは本人が一番よく分かっていた。
「まあ私のことを何と言ってもいいけれど、カレンの事は苛めてはいけないよ」
「はっ、こんな女、どうしようと――」
「カレンを苛めたら……潰すよ?」
どす黒い笑顔でエルヴィンが宣言すると、テオドールの顔が青ざめた。
レイラに、カレンに、エルヴィン……今日一日で、テオドールは三人からやり込められている。彼にとって今日は厄日だろう。
お兄様に逆らうなんて、無謀もいいところだわ。
ようやく冷静になったカレンは、すっかり冷めてしまった紅茶を悠々と飲んだ。なお、エルヴィンはいまだにカレンに絶賛抱きつき中であるが、隙間から器用に手を出してカップを口に運ぶ様子は、彼女がこの体勢にしっかりと慣れていることを示している。
テオドールには悪いが、兄のお蔭でカレンの溜飲はすっかり下がったのであった。
テオドールの執務室を出ると、エルヴィンが一緒に帰ろうと言い出した。
カレンはやや眉を寄せる。
「一緒に帰れるのは嬉しいけど……お兄様、本当に仕事はいいの?」
「大丈夫。私が居なくても議会の仕事くらい回るようにできてるんだよ」
「本当に?」
「ああ!」
議会開催の時期に、議長補佐の手が空くなど信じられない話だが、あまりにも兄が自信満々だったため一緒に帰るべく玄関へと向かう。馬車を付けるよう連絡はしてあるので、今から向かえばちょうど玄関に準備されているだろう。
「そう言えばお兄様」
「なんだい」
はたと何かを思い出した様子のカレンが、歩きながら兄に一歩近寄り、小さな声で話しかける。
そのひそひそ話の状態が気に入ったのか、エルヴィンが嬉しそうに屈みこんできた。
「以前から話をしていた、新商品なんだけど……」
「ああ、確か新しい食品、だったか?」
クォルツハイム商会の新商品について、カレンは少し前から悩んでいた。
新しい食材を開拓して、もうひと段階、生活に入り込める商品開発ができないかと考えていたのである。
カレンが目を付けていたのは飲料のジャンルであった。
この国で主に飲まれているのは、酒類以外では、紅茶、そして果汁しかない。
特に果汁については、流通事情により、皮が厚く比較的傷みにくい柑橘系が主に利用されており、林檎やベリー系は産地か、自家栽培でもしていなければ手に入るものではなかった。
紅茶については、クォルツハイムブランドの商品は十分浸透している。なので、果汁分野に何か新しい果物を発掘して参入したいと思っていた。
異なる酸味、清涼感、そしてできれば高級感を味わえ、さらに保存がききやすい果物を……
「そう。それでちょっと面白い食材が見つかりそうなの。動いてもいいかしら」
わくわくと目を輝かせる妹に、兄はくすりと笑った。
「いいよ、好きにしなさい。フォローはするから」
「あら?私が狙っているものが分かったの?」
「いや、分からないよ。でもそんな段階で許可を取るということは、私の立場が必要になるかもしれないからだろう?」
察しの良いエルヴィンに、今度はカレンが笑った。
「さすがお兄様。よく分かってるわね」
「カレンの兄だからね」
兄が頭を撫でる手を恥ずかしげに肩をすくめて受け、カレンは礼を言った。
兄妹は、こうして微笑ましい雰囲気を振り巻きながら王宮内を歩いた。
しかし、あとはひとつ角を曲がれば玄関、という場所でそれは起きた。
「あっ議長補佐、お待ちくださいっ!おおい、クォルツハイム議長補佐がいたぞーっ!」
「議長補佐!こんなところに!」
文官らしき複数人の男性が、エルヴィンを見て全力で駆けてきたのである。
「えっ、何?」
「むむっ。カレン、逃げるよ!」
「えええ!?」
エルヴィンは、さっとカレンを横抱きにすると、事務方とは思えない軽やかさで走り始めた。
カレンは片腕を兄の首に回し、残りの腕をめくれそうになるスカートを押さえる。状況は全く分からないが、兄が逃げると言うなら特に反対するつもりもなかった。というか、抱き上げられては一緒に逃げるしかない。
しかし気になるのは後ろから追い掛けてくる文官たちが……
「お兄様、ふ、増えてるわよ!」
「なかなか手ごわいな……!カレンと帰る機会を逃してなるものか。何としても逃げ切る!」
エルヴィンは不敵に笑うとさらに速度を上げた。
運動が得意な人ではなかったはずだが、カレンを持ち上げてこの走り、もう妹への愛情が生み出した力としか思えない。
あちこちから合流し、増える文官を尻目に、エルヴィンとカレンは、玄関ホールを素通りし、王宮の奥へと駆けていく。
「議長補佐ぁ!まだ仕事がございます!帰るのはお待ちください頼みますからー!」
「議長命令です!お戻りくださいお願いしますー!」
途中から聞こえてくる声が懇願になってきた。そしてようやくカレンは状況を理解する。
普段運動などしない文官たちが必死でカレンたちを追いかけてきていた。エルヴィンも同じ文官なのにスピードが落ちないため、逃げるうちに、彼らはどんどんふらふらになっている。
何だか気の毒になってきた。
と、振り返るカレンに気づいたのか、文官たちの呼びかけの方向性が変わった。
「妹様、カレン様!どうか議長補佐をお止めください――!」
「このままでは、我々は過労死してしまいます!」
「今日こそは、妻の元に帰りたいのですお願いしますー!」
この文官のセリフは効果てきめんだった。
「お兄様、ストップ」
カレンの短い言葉に、エルヴィンは条件反射で対応し、革靴の裏が煙を上げる程急激に足を止めた。
「急に止まれなんて、どうしたんだい?」
よいしょ、と兄から降りるカレンを支えながら不思議そうに尋ねるエルヴィン。
文官たちの言葉が聞こえていなかった兄の顔は、純粋な疑問に満ちている。妹が自分の味方をしてくれているのは当然と思っている様子であった。
しかし愛する妹は、ドレスを整え、姿勢よくエルヴィンに向き直った後、兄の胸を打ち抜くほど可愛らしい笑顔で告げた。
「お兄様、私――部下を大切にしない人は嫌いよ」
「……!!」
エルヴィンが岩のように固まった瞬間、文官たちがエルヴィンに文字通り束になって襲い掛かってきた。そして不良上司をあれよあれよという間に絨毯のようなものです巻きにし、そのまま複数人で抱え上げる。
汗だくの文官たちは、カレンにとてもよい笑顔を向けた。
「ご協力、感謝いたします!」
「これで今夜は帰ることができます!」
「今度一緒にお茶をしましょう!」
最後、別の内容が混ざっていたが、カレンはスルーし、微笑んで答えた。
「兄をよろしくお願いいたします」
その花が開いたような微笑みが、文官たちの心を射抜いたことをカレンは知らない。
そして、妙なテンションで「ハイっ!」と答えて去っていく男たちを手を振って見送った。
「さてと……」
騒ぎが一段落して辺りを見回してみると、見覚えのない場所にいた。どうやら、普段来ることがない王宮の奥に入り込んでしまったようである。
王宮自体はそう複雑な構造でもないため、適当に歩けば知っている場所へ出るはずだと考え、カレンは来た道を戻り始めた。
天井の高い回廊をひとり、歩く音が響く。
ときどき見慣れぬ近衛騎士とすれ違ったが、特に咎められることもなく歩を進めることができた。
ひとつ角を曲がり、視界に入る範囲に人が居なくなった瞬間。
後ろから伸びてきた手がカレンの口を押さえ、そのまま、ひとつの扉へと引き寄せた。
広い回廊で、カレンを吸い込んでいった扉の閉まる音が、重く響いた。




