【過去編】02.或る雨の日(上)
上下二話です。
「こほっ」
小さい咳に、カレンは慌てて自分のショールを外して隣に座る少女の肩にかけた。
「おねえさま、大丈夫?」
「大丈夫よ、カレン、ありがとう」
馬車で隣り合わせに座る少女は、エミーリア・クォルツハイム。カレンの九歳上で、今年十六歳になる姉であった。
ウェーブがかかったライトベージュの髪に、新緑のような黄色がかった薄い緑の瞳。カレンと似た顔立ちだが、妹をさらに儚くした清廉な雰囲気の少女であった。
菫色と桃色のグラデーションがかかったドレスは、準成人の彼女の少女と大人の女性の狭間の雰囲気をうまく表現していた。
ショールを羽織って少し乱れた姉の髪を小さな手で整えながら、カレンは眉をしかめる。
「だからおねえさまは家で寝ててほしかったのに……風邪、まだ治ってないんでしょ?」
「治ったわよ。調子が良かったからカレンと一緒に行こうと思ったのよ?」
ふんわりと笑う姉に、カレンはぷうっと頬を膨らませる。
王族、高位貴族の子供たちの顔合わせに出席し、ゲームの記憶を思い出してから一年。
相変わらず子供同士の交流会は定期的に開かれていたが、七歳となったカレンはその半分以上を欠席していた。
理由は「病弱なため」。
残念ながら、身体は健康で誤魔化しようがない。そこでカレンは、家族以外への極度の人見知りと対人恐怖症など精神的な症状を演じ、そしてそういった症状を関係者に口止めさせるよう仕向けた上で世間から隠れるように生きようとしていた。
だが病気を演じるのに、カレンに良心の呵責が無かったかといえばそうではない。
心配し、自分に心を砕く家族の姿を見て、完全に引き籠ることができずにいた。
今日もそうである。
カレンが人見知りで外に出れないと思っている姉が、本当に身体が弱いにも関わらず、風邪を押して妹に付き添うと申し出てくれたのである。一生懸命な彼女に、姉大好きなカレンがその気持ちを無下にできるはずがなかった。
馬車の窓の外には、どんよりと灰色がかった街。さらに暗く染まる空からは雨が落ちていた。
雨の、こんな肌寒い日に、身体の弱い姉が付いて来てくれた。カレンは嬉しさと申し訳なさに同時に襲われる。
貴族として社交を避けるのは後々のためにならない、三回に一回でいいから交流会に出た方がいい。家族はそう考え、カレンが子供同士の交流の場に出れるよう案を揉んでいた。
攻略キャラとの接点を持ちたくないと思っているだけのカレンがそれを拒み切れる訳がない。
本当に、クォルツハイムの家族は優しいのだ。
自分の記憶を隠し、計画のためと欺いていることが申し訳なくなってくる。
カレンの眉がハの字になっているのを見て、向かいに座っていた少年が笑い声を上げた。
「カレンはどーせ、姉さんが行くって言わなきゃまたサボったんだろ」
「さ、サボらないもん。クレにいさまのばかっ」
精神年齢アラフォーのカレンだが、動揺で語彙が少なくなってしまった。
からからと屈託ない笑顔でからかうのは、姉のエミーリアと同じ色を纏った少年、クレイヴ・クォルツハイム。カレンの五歳上の次兄は、十二歳になったばかりでわんぱく盛りだった。
「お前は寂しがり屋だからなー」
「ちがうってば!」
「ほらほら、クレイヴもカレンも、馬車の中で暴れないのよ」
エミーリアの声はそれほど大きくないが、姉を困らせてはいけないという共通の意識が兄妹を大人しくさせた。
腰を浮かせていたクレイヴは椅子に座りなおすと、くせのあるライトベージュの前髪を直しながらカレンを見た。
「今日思ったんだけどさ、カレン、もしかして第一王子に近づかないようにしてないか?」
「!」
「あら、そうなの?カレン」
カレンは肩を縮めこませた。まだ十二歳の兄に気付かれてしまうとは、どうやら自分はうまく立ち回れていないらしい。
そんな様子に気づかず、姉はやさしい笑みで問いかける。
交流会は現在十歳の第一王子――のちの王太子――のプラスマイナス五歳の年齢を基準として子供が集められていた。姉のエミーリアはもちろん、長兄のエルヴィンも対象外であるが、エミーリアは付き添いとして特別に城まで同行し、別室で待機していたのである。
「……王子さまに近づかないようにしてるんじゃないわ。たまたまよ」
「そっか?ならいいけど。もしいじめられてたりするんならオレに言えよ」
「言ったらどうなるの?」
「ぶんなぐってやる!」
「さすがにそれは……」
いくら子供でも、その場で近衛騎士に捕縛されて終わりじゃないか。カレンは顔をしかめたが、クレイヴは何ともないと言った顔をした。
「オレはカレンの兄だから当然だ。エル兄さんもそうするだろ、きっと」
エルヴィンならやりそうだ……。十七歳の長兄の顔を思い出していると、カレンの頭にクレイヴの手が乗った。
「辛いなら言えよな。父様も母様もオレも、みんな味方だからさ、守ってやる!」
「クレにいさま」
「そうよ、カレン。あなたが健やかなのがいちばんなのだから」
「おねえさま」
隣から膝の手に重ねられた温もりに、カレンは改めて家族の温かさを感じる。
「味方だから」「守るから」「健やかに」それはカレンがいつも家族から与えられていた言葉。
温かい言葉と手がどれだけカレンを幸せにしたか。
今はゲームという問題が横たわっているが、それが決着したら、家族のために自分も幸せになろう。そして家族を幸せにしよう。
カレンは姉と兄に微笑み返し、心から思った。
カレンがそうして家族愛をしみじみ感じていたところ、ガタン、と音をたて、突然馬車が止まった。
進行方向を正面にして座っていたカレンとエミーリアがその勢いで椅子から落ちる。
エミーリアはうまくクレイヴの懐に飛び込み事なきを得たが、カレンはその衝撃で向かいの壁に額を打ち付けた。
これは地味に痛い。
「どうした?」
エミーリアを受け止めたクレイヴが、馬車の窓を覗き、御者に問いかけた。
御者はカレンが生まれる前からクォルツハイム侯爵家に仕えているベテランである。こんな風に急に止まるとは、事故でもあったのかと訝しむ。
「坊ちゃま駄目です!顔を出さないで……ぐあぁっ!」
切羽詰まった御者の声は、悲鳴で終わった。クレイヴの背の向こうでどさりと音がしたきり、声が聞こえなくなる。
そして続くのは「馬車に近づけるな!」という護衛兵の声。
クレイヴは慌てて窓を閉めた。ガラス窓だけでなく内側の板窓もしっかりと閉じる。
襲撃だ。
三人は顔を青ざめさせた。
馬車の周囲にはクォルツハイム家の護衛兵が三人、騎乗して付き添っている。
危険に晒されやすい侯爵家としては少ないと言われたが、皆腕の立つ兵ばかりであった。
「大丈夫だ、きっとすぐ終わる」
緊張した顔のまま、クレイヴが姉と妹を力づけるように言った。
そして手は腰の剣に添えられれていた。
五歳から剣を学んでいたクレイヴが、十歳のとき祝いに両親から贈られた剣だ。クレイヴの身長に合わせて作られたものであるため、大人の持つ長剣よりは短いが扱いやすかった。
何かあれば自分が姉と妹を守る。
口をきゅっと結び決意をしたクレイヴは、膝立ちのまま剣の柄を握り、馬車のドアを見つめた。
外からは、馬の嘶き、濡れた地面を走る音、そして剣を交わす音が叫び声に混ざって聞こえてくる。
どちらが優勢か、クレイヴには分からなかった。
カレンを抱きしめるエミーリアの腕が小さく震えている。
「おねえさま……」
「大丈夫よ、カレン、怖くないわ」
そういうエミーリアの顔は青を通り越して白くなっており、そちらの方が大丈夫かと聞きたい程であった。
姉の冷えた身体に熱を移すように抱きしめ返し、カレンは考えを巡らせた。
足音からして、おそらく相手は三人よりは多く、また護衛兵の声からこちらが劣勢であるということも判断がつく。
間もなくこの馬車に襲撃者の手が及ぶのではと思ったが、カレンに対処する手段がなかった。
ラルフを従者とし、王宮での顔合わせをきっかけに本格的に剣術を学んで一年と少し。
まだ実戦経験もないこの子供の身体で、複数の襲撃者と戦い、三人で逃げることができるとはとても思えなかった。
望みがあるとすれば、今この場所がクォルツハイムの屋敷からそう遠い場所では無いということ。
護衛がいるため、今日は連絡用の影を一人着けていただけだったが、決め事の通り動いていればラルフを呼びに行ってくれているはずである。
従者のラルフを留守役にさせてしまったのは痛いが、公式の場に赴くのに従者を連れていけなかったため仕方がない。
しばらくすると、外が静かになった。
いや、争う声が無くなっただけだ。雨の路面を踏む複数の足音が徐々に大きくなり、馬車を取り囲むのが分かった。
馬車の扉を閉めて立て籠もれば、時間稼ぎができるかもしれない。そう思ってカレンが扉を押さえようと近づくが、エミーリアによって奥に押しやられてしまった。
足音は馬車の扉の前で立ち止まると、少しの間を置いて扉が大きく開かれた。
暗かった馬車内に薄らとした光が入り込む。雨音が、急に大きく耳に響いた。
そこにいたのは、雨具を身に着け、血塗られた剣を手にした見慣れぬ男たち。
「出ろ、ガキども!」
「っ、このおおおっ!」
一度収まった喧騒が、再び大きくなる。
馬車に身体を入れてきた男は、声を上げて体当たりをしたクレイヴによって馬車の外に押し出された。
子供であっても高い位置からの全力体当たりにはなかなか重量があったようで、後ろにいたもう一人男を巻き込み、倒れ込んでいく。
カレンは、剣を抜いて男たちに立ち向かう次兄の背を見たが、視界はすぐに姉によって遮られた。
「クレイヴ!」
エミーリアは飛び出していった弟の名を呼ぶが、その場から動かず、外を見せまいとカレンの顔を胸に抱えていた。
カレンはその腕を離そうともがく。
自分だけ安全圏に居るなんてできなかった。例え子供の身だとしても、馬車に入り込んでくる男たちから姉を庇うことくらいできるかもしれない。
「おねえさま、離して」
「駄目よ、ここでじっとして」
「おい、出やがれ!」
「きゃあっ」
悲鳴と共に、カレンから姉の温もりが離れた。
妹に手を伸ばしたままの形で、姉の身体が馬車の外へ吸い込まれていく。
「おねえさま!」
来ては駄目、とエミーリアの声が聞こえた気がするが雨音ではっきりとカレンの耳には届かず、カレンは姉を追って馬車の外へと飛び出した。
地面に着地したところ、間を置かずに横から濡れた塊がぶつかってきて、カレンは尻餅をついた。
「クレにいさま……!」
受け止められた形で自分の腕の中に納まっているのは、先程飛び出していった次兄。
カレンはとっさに動いた右腕でその背を抱きしめ揺すったが、反応はない。
これはなんだろう。兄の身体から液体が流れ落ち、自分の腹を温めていく。液体は流れ出しているのに、自分の肩に絡まるクレイヴの腕はどんどん重たくなるように感じられた。
――死。
その文字が頭に浮かび、カレンは目を見開いたまま動けなくなった。
閉じることのできない眼に、雨が容赦なく入り込んでくる。
無意識に地面に着いたカレンの手がぴくりと動く。そこには柔らかいものと、固い感触。カレンの左手に添えられるように、兄の右手と刀が触れていた。
「ちょろちょろと動きやがって。やっと仕留めたぜ」
「手加減するなよ、さっさと皆殺しにしろ」
一瞬でカレンの血が沸騰した。
そこからは断片的にしか覚えていない。
カレンがクレイヴの剣を手にし、目の前の男の喉笛を突き刺したこと。
何人かを倒したカレンの隙をついて、襲い掛かってきた男がいたこと。
そして、エミーリアがその間に割り込み、カレンの視界を覆ったこと。
その記憶を最後に、カレンの意識は暗闇に落ちた――




