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 頭がぐちゃぐちゃだ。僕は何をすべきで、何を疑問としていて、今何をしているのかもわからなくなった。

 なんだか途轍もなくショックな出来事があった気がする。思い出すべきではないと理性が警告している。それでも僕は反芻してしまう。

「ふふ、ふふふ」

 現実を受け止めることで、現実に戻ってきた。そこには不気味に笑う僕と、唖然とする一原凛がいて、目の前には彼女の家があった。

「大丈夫……?」

 僕はこくこくと頷いた。声を出せば全部崩れてしまいそうだ。

「よくわかんないけど、ナカシマさんと気まずくなった、の、かな……?」

 ゆっくりと彼女を見た。目が合った。

「い、いや、えと、やっぱよくわかんない! スパゲティ美味しくなかった? なんか食べ出す前とか顔色悪かったし、苦手だったのかな? ごめんね、あたしが行きたがったから」

「お前、やさしいな……。好きだよ、お前みたいな奴」

「うえっ!?」

 一原は飛び上がって後ずさって家の塀にぶち当たった。

「顔色とか、よく見てくれてたんだな」

「えっ、え、顔はその、なんとなく、うん……見ちゃう」

「ありがとう」

「ふぇ……」

 自分の家の門前で、真っ赤になって俯いた。

 ——せめて、見えるものだけ。

 感じられない世界のことは、僕にはどうしようもない。コロコロと馬鹿みたいに表情を変えるこの女だけ、笑わせられたら、なぁ、わかりやすいんじゃないか。僕の成したことの形が。

「早く帰ってやれよ。親が待ってるだろ」

「うん……」

 まだ陽は西の空に高い。繁華街を散策するという予定は無言のうちに流れて、微妙な空気のまま解散となったのだ。一原が機転を効かせたのか、家より少し前で二人とも降ろすように言って、どうにか気まずさから解放されてここまで歩いてきた。

 一原は「じゃあね」と言った。僕はやはり声を出すのが怖く、言い慣れている言葉ほど落ち込みが顕れそうで怖く、軽く手を挙げてその代わりとした。道に向き直って、手を降ろした。そのとき、僕の心も重力に負けそうになる。

「コモリ!」

 背中に受けた声に、足が止まった。

 玄関前で、一原は身を乗り出していた。どうした。何をそんなに慌てることがある? 僕は、普通に帰るだけだぞ……。

「うち上がっていかない?」

 笑いかけられた。少し無理した笑顔だった。

「帰ってもすることないでしょ。なんか、なんでもいいからさぁ……、えーと、競争の話でもしようよ」

 お菓子あるよ? と言って、一原はポケットから鍵を出した。開錠してドアを開ける。一歩中に入って手招きした。「あれ、お母さんいないのかな。お母さーん。ただいまー。コモリ来て来て、寒いでしょ。中あったかいから」

 誘われるままに門を通り、玄関に足を踏み入れた。外観と変わらない、新しくはないがそれなりに人が住んだ歴史を感じる家だった。

 玄関を上がってから、両親が出かけていることに一原は気づいた。

「あの二人仲よすぎなんだよ。あはは。居てもなにかとうるさいし、丁度いいよね」

 彼女がお茶を注ぎに行ったリビングを、扉の隙間から見る。大きめのテーブルに椅子が四つ。そういった物が、なにか温かい空気を纏っている。〝家族〟の気配だ。

 二階に上り、『りん』と札の掛かった部屋に入る。綺麗に小物の整頓された、どこか楽しげな、幼い雰囲気の空間があった。パステルカラーの壁紙に、ベッド。学習机の上には写真がいくつかある。八重丸紗江と写っているものが殆ど。箪笥の上には六歳ぐらいの一原の写真があった。

「あーっ! これは駄目」

 慌ててフレームを逆向きにした。

「何故」

「なんか嫌なの。友達に見られるのは」

「……」

 しかし写真なんて、久しぶりに見た。こういう、下手したらゴミにしかならない小物もだ。色々と一原に合わせてあるんだな。感心する。

 空調がつけられた。床のお盆に菓子を広げて、向かい合わせに座る。内股座りの制服の少女。外見通りの中身なら、男子と同じ部屋で二人きりなことにもっと意識が向くんだろう。だが彼女の表情はせいぜい、なんか恥ずかしいな、程度だ。菓子をつまむ度、そこに笑顔が混ざる。

「部屋、片付けられててよかったな」

「あはは。ほんとだよね。あたしさっき、心の中でお母さんありがとうって言っちゃった」

 クッキーを齧った。「こういう甘い菓子もいいな」

「こっちのチョコっぽいやつもいいよ」

「食べてみよう」

 二人で一通り菓子をつまみ合う。甘い匂いと、いわゆる女子の部屋の空気が、変に調和していた。

「友達って、こうなのか」

 何気なく訊くと、「え?」と訊き返された。

「八重丸を家に呼んだときとか、いつもこんな感じか?」

「……うん。こんな感じ。学校のお話したりとか、あと勉強したりとか」

「勉強……教えようか」

「い、いいよ。もうすぐしなくなるかもしれないんでしょ。無駄じゃん」

 そうでなくても無駄なんだがな。読み書き計算をする場面がこれからの人生でない。

「そう言うなよ。僕は他にできることがないんだ」

 思いと逆のことを言っている。

「なんか、へんなの。コモリ」

 一原は国語の教科書を出した。菓子を横にどけて、床に開く。

「わからないところ、自信のないところは」

「うーん」

「理解が半端で、心地悪いところだよ」

「それなら、このへん」

 大昔の小説の抜粋だ。

「なんでこの女の人、こんなとんでもない行動に出ちゃうのかなって」

 宮廷に仕える女主人公が、密かに他国と繋がって、国家を滅ぼす選択をする場面だ。僕が内容を確認していると、

「あ、でもそうじゃなきゃ面白くないよね。お話なんだし」

「……ああ」

「それに本当はもっと長いんだよね。全部読まないとわかんなかったり。あと主人公は大人だし、大人の考えがやっぱりあるのかも」

「……」

 これ、答えは全部書いてあるよ、一原。

「人を好きになったことはあるか」

 教科書に目を落としながら、訊いた。

「え…………あ、え?」

「人は恋をすると、見境がなくなるんだ。些細なことが重要に見えて突っ走ったり、常識を切り捨てたり。価値観が、なんていうか、九十度ぐらい傾くのかな」

 一原は視線を動揺させ、挙句は窓の方を向いて言った。

「……わかんないや」

「はっきりとは書かれていないけど、隣の国の外交官との間にそれらしい描写がある。他にテーマらしきものもないし、間違いないよ。恋の暴走を描いてる」

「でも……でもさ」

 教科書を手元に寄せた。

「国を売っても、好きな人と一緒になれるわけじゃないよ」

 だから暴走なんだよ。

「認めてもらえればそれでよかったんだ。彼女に起こせる中で、最も大きなことをしたに過ぎない。見てもらえれば……」

 それで満足だったんだ。きっと。

「んん……わかんない」

「まぁこういうのは読み手次第だからな。作者の意図と別の解釈がされる場合もあるし。これに関してはそんな誤差はないと思うけど」

 うーん、と一原は考え込んだ。僕はお盆のお茶を頂いた。菓子を盛った中から、一口サイズのチョコレートも頂く。

「わかんないなぁ」

 何がだよ、と思ったが、口には出さない。どうやら二人きりのときは若干遠慮してしまう僕がいる。彼女の言葉の続きを待った。

「なんで、何も言わなかったんだろ。好きならそう言えばよかったのに」

 なんでって、成就されないから想いは狂い出したんだろ。隣国との関係は悪化の一方だったし。

「言葉にしないと、何も始まらないと思う」

 ぶつぶつと、独り言のように声は続く。

「もしかしたら相手も主人公が好きかもしれないし。そこで両思いだってわかれば、そのときは凄く幸せになれるよ。もし一方的な気持ちでも、それなら主人公は間違ったことしなかったと思うし」

「……」

「ハッピーエンドになれるんじゃないかなぁ…………あっ」

 反応がないことを気にしたのか、慌てて取り繕う言葉を並べ始める一原。ごめん、変なこと言っちゃった。お話に文句つけても仕方ないよね。

「うん。悲しい終わり方も、これはこれでなかなか……」

「いや」

 僕の声に、一原は無理した笑顔のままぴたりと固まる。変な奴だ、本当に。異様にしっかりした意見を述べやがって。

「お前の言う通り、この主人公は頭が病気だよ。作者もひょっとしたら、似たものを患っていたかもな」

「え……。あたし病気とは」

「理解できなくて当然だ。非合理的で利己的な異常思考。歩み寄らなくていい。こんな奴には」

 膝を立てて立ち上がった。「ありがとう。用事を思い出したから帰るよ」一原も慌てて立ち上がって「あ、うん。こちらこそありがとう」とか、わけのわからないことを言った。二人で階段を下りたところで、玄関のドアが開いた。一原の両親が帰宅した。僕は挨拶をして、帰る旨を伝える。

「籠くん、もう少し後だけど、夕飯を食べていったらどうかと思ったんだが」

「いつも凛がお世話になってるから」

「いえ、今日は遠慮します」

 一緒に食べたい相手がいる。

 すみません。深く頭を下げて、入れ違いに玄関で靴を履く。

「一原、じゃあな。また明日」

「うん。また明日ね」

 一原の表情に戸惑いが消えていた。僕が今どんな顔をしているのか、なんとなくわかった。


 考えるのが恐ろしいことでも、それを放棄するのは最も愚かだ。現実に生きる者として、どんな事実であれ受け入れなくてはいけない。昼間のナカシマたちのやりとりから、岸に疑惑が生まれた。それは僕が元々持っていたイメージと同一だ。外面上はいい顔で通し、裏で容赦無く切り捨てる。当時僕は彼の仲間内だったから、実害ない部分で彼のその性質を知ることになったのだが、外面を向けられる立場な今は、逆にあの会談の場で完全な好印象を植え付けられている。騙されたのだとすれば完敗だ。一から十まで信じ切ってしまっていた。

 疑念を払拭する必要がある。冷静になって考えてみれば、あのタイミングでのナカシマの言葉は信用できない。何より元宮との精神干渉を行っていた。僕を除外した密談。東京の学校で何度も見た光景だ。その明らかな不審を、話の内容の過激さで誤魔化した。彼女のわかりすぎる意図が、今ならわかる。しかもそれは、僕の好意を僅かにでも知っていなければ思いつきさえしないことだ。

「籠くん。居るんですよね」

 鉄扉の開く音。少しの間の後、靴を脱いで彼女は廊下に上がってくる。窓から差す夕焼けの中で、リビングの僕と向かい合う。

「居るじゃないですか」

「……いつも僕が玄関まで出向くのは、不公平だよ。だって仕事だろ、お前は。僕はプライベート」

「ふむ」

 一理ある、というふうにナカシマは頷いた。

「そのような空間に上がるのは失礼と思っていましたが、籠くんがやりやすいのなら。——それでは、今日は如何でしたか」

 テーブルの横に立ったまま、お決まりの質問がされた。僕は、テーブルクロスに伸びた橙の光に触れた。温かさに手の甲が焼かれた。

「食事を作ろうと思ったけど、柄じゃないし、上手くもないし、諦めた」

「……? 今ですか?」

「さっき。お前と食べる夕飯を作ろうとした」

 宙に向けかけた視線が僕に向く。黒の瞳に一瞬、人間的な何かが見えた。

「私は、何を出されても頂きましたよ。せっかく作っていただいたなら」

「それも仕事か?」

「あなたとは仕事以上の信頼がありますよ」

 感情の篭らない口調で言う。

 テーブルに伸びた夕陽は、いつの間にか窓際まで引いていた。僕の手には冷たさがあった。それから数秒で部屋内は暗転した。影になったナカシマの、大きな瞳だけが残った。

「僕の気持ち、知っているんだろ」

「あなたが言ったことしか私は知りませんよ。新しく思ったことは伝えてください」

「新しくない。もうここ三年、ずっと抱えてる」

「……溜めすぎは良くないですよ。言ってください」

 のらりくらりの態度にかちんときたのもあった。だが、何より僕は言葉が不得意だった。衝動が一歩を踏み出させていた。彼女をすぐ後ろの壁に押し付け、少し背伸びをする形で、唇を重ねた。

 いや、押し付けるような感じだった。貪るようだったかもしれない。とにかく不格好だった。

 ぐらぐらと体を離した。彼女は微動だにしなかった。

「最初に会ったときとは違う。背だって追いついた」

 まずい。語尾が震えた。

「僕を、対等に扱え。適当に躱してやり過ごそうとするな。誰かと、一緒になって、騙そうとするな」

 言うほどに弱さが、情けなさがこみ上げてくる。彼女は表情を変えない。

「好きなんだよ、お前が」

「……」

「隠してること、全部話せ」

「何もありませんよ」

「嘘をつけ。わかるんだよ。岸はどういうつもりなんだ」

 ナカシマは壁に背をつけたまま、窓の方を見た。……僕から目を逸らした。

「私の個人的なことなら、話しますよ」

「違う。岸のことを——」

「所長から誘われるのは、主に土曜でした。たまに水曜もありましたね。週末を独占していたのは私だけです。実は今も、東京に帰る度に……。彼は言ってくれたことはありませんが、多分一番気に入られているのが私です」

「……どうだっていいんだよ、そんなこと」

「早いときは、車の中で始めますね」

「だから……」

「彼、強いというか、激しいんですよ。もう五十手前なのに。私がやめてって言っても、強引に続けるんです」

「……」

 その後も話は続いた。ナカシマは少し嬉しそうに、どこか遠くを見ながら岸とのことを語った。

 部屋が暗くなる頃にはもう、僕もわかっていた。ナカシマと岸には仕事以上の繋がりがあって、それを彼女は本心から欲している。

 途中から、僕の視線は彼女の足元に落ちていた。スカートの下の細い脚。やがて、反応がないことに愛想をつかせたように、その脚は僕の目の前から消えた。静かに歩いて、ドアから出ていく音がした。

 彼女が話をやめたあとの数秒の沈黙だけが、ずっと耳に残っていた。


 翌日の夕方、僕は小太り中年男の愚痴を玄関先で聞くことになる。

「ざけんなっつー話だよ。確かに転属希望してたけどよ、イントラ担当じゃねーっつーんだよ。家に帰れねーじゃねーか。たまに帰れても、子供が寝てる時間帯だっつーの。明らかにこれは嫌がらせだろ? 岸の野郎、今度顔合わせたら滅茶苦茶言ってやる。あの若作りのジジイ……、女たらし……。——で、今日はどうだった。籠竜」

 僕は呆然と、彼を見つめていた。

「ナカシマは……」

「中島! だいたいがあいつのせいだよ。いきなり東京に戻りたがったとかで、それを岸がすんなり受け入れるもんだから」

「……」

「まぁあいつはあいつで能力あるから、どこだって問題ないだろうけど。若いし。問題は俺だよ。他に独身の奴が大勢いるだろ? それを、イントラと面識があるからって理由だけでこれか! 個人的な悪意があるだろ。あの野郎、男職員への、特に俺への対応が露骨に悪いんだよ」

 僕が俯いたままでいると、彼は「あ……」と気づいたように補足をしてきた。

「いや、別にお前のせいとかは思ってねーよ。岸と中島が全部悪い。んでもさっさと済まして帰りたいからよ、今日あったことの報告頼むわ。せめて直でなくても子供の顔見てーんだ」

 僕は頷いて、ぽつぽつと話し出した。今日は得に何もなかったが、三浦が上機嫌で(婚活パーティが好感触だったのか、会談がうまくいった為か。一原が訊いてみたところ、両方と答えが返ってきた)、あとは放課後、八重丸の家で競争の練習をしたこと。

「羨ましい奴。女の子二人と放課後かよ。今を大切にしろよ、今を」

 元宮は帰っていった。僕は崩壊していく心の内を隠そうとしなかったが、案外気取られないものらしい。変な顔はされなかった。

 今足元には降り積もった破片が、部屋に戻ることの邪魔をしている。僕の中には見事に何も残っていなかった。岸との交渉も、イントラの可能性も、忘れ去られる過去のように遠くへ消えていった。

 計画の見送りを告げられたのは次の日のことだった。

 半分は予想していたし、半分はどうでもよかった。僕は薄いリアクションで対応した。

「まぁこっちの色々な事情があってな。詳しく話すことはできねーけど、まぁ、なんつーか」

「いいです。なんとなく察しました」

 玄関先で元宮は面食らった顔をした。

「急になんだよ。大人しくなって」

「無理な話には違いなかったですし。僕は弱い立場を利用して押し切ろうとしたみたいなものだから」

「いや、あのな……」

 そこで区切って、僕を見つめ直して言う。

「まず気持ち悪いからその態度をやめろ」

 じゃあどうすればいいんだよ、なんて考えは湧かなかった。

「報告も終わったんだし、帰らなくていいんですか。お子さんと話すんでしょう」

「……まだ寝る時間じゃねーし。実際接する時間だけなら東京にいたときより増えてんだ。あとは家での作業だから」

「息子さん?」

「娘だ」

 なんだかこれまではどうでもよかったことに関心が向く。いかに自分がずっと恋煩いだったかがよくわかる。

「エクストラ?…………に決まってますよね。失礼しました」

「なんだ。別に悪いことじゃねーよ。イントラだって」

 そんなわけあるか。

「ただ精神干渉がなければ、こんな仕事放り出して直に会いに行ってるだけだ」

 はは。乾いた笑いが出た。「綺麗な考えですね」

 元宮は眉を寄せた。「おい。元の口調に戻せ」

「気に入らなかったんじゃないんですか? 舐めた態度が」

「……」

 拳が強く握られた。

「殴ってわからせますか。いいですよ。ただ別人種間で躾とか対話が意味をなすのかわかりませんけど。僕から言わせたらあなたの方が舐めた考えしてますし」

「……」

「イントラが悪いことじゃない? 僕や一原を見ておいてよくそんなこと言えますね。歪なんですよ。誰とも繋がれないのに、変なところだけ特化していて。見世物になるために生まれてきたようなもんでしょう。だからあんたたちも半端に関わらずにさぁ、すぐさま殺してくれればよかったんだ。そうすれば何も知らずに済んだんだよ。誰も愛さずに済んだんだ」

 もう限界だった。元宮を突き飛ばしてドアを閉めた。声が漏れないように手をやって、ドアを背にしゃがみ込んだ。

 死ね。死ねばいいんだ。僕かこの世界のどちらかが。

 相入れないもの双方が存在し続けても仕方ないんだよ。どちらかが消えろ。いや、お前が消えろ。

 そのときは笑ってやるよ。誰もいなくなった大地で一人、この世の不完全さを笑ってやる。

「……」

 何を思ったところで現実は変わらない。腕に伏せた頭の中では、僕の情けない声が反響するだけだった。


 インターホンが鳴った。意識も体も何もかもが重たく、全てを放棄するだけの心境が整っていた僕はそれを当然の如く聞き流した。

 しかし電子音は連続した。押した際に『ピン』、離すと『ポーン』が鳴る、前時代の最もポピュラーな型をわざわざ拵えたそのインターホンは、二音の感覚を微妙に変えながら何度も鳴った。

 ピン、ポーン。

 ピン…………ポーン。ピンポーン。

 ピポーン。

 ピポピポピポピポピポピポピポピポピポピポ——、

「うるさいな!」

 布団から飛び起きた。早朝の空気が寝巻きを透かして容赦無く肌に突き刺さるのを堪えながら廊下を行き、乱暴に玄関を開けた。

「あ……」

 一原がいた。しまった、という顔をされた。

「あの、今七時過ぎ……」

「だからどうした」

 不機嫌に返すと、しどろもどろになってしきりに「ごめん」を繰り返した。

 踊り場から吹き込む風に、僕は震え上がった。一原の腕を掴んで玄関に引き込んで、そのまま部屋内まで引っ張った。一原は慌てて靴を脱いだ。

 リビングの椅子に座らせて、僕は冷蔵庫を開ける。何もない。食材を切らしていた上、買い物にも行かなかった。仕方なく、ヨーグルト、棚の中からシリアルの箱を出す。

「あっ」と一原が反応した。

 黙って食べ始める。部屋の温度差か、頬を綺麗に赤くした女は、俯いてちらちらと僕を伺っている。

 ……苛々してきた。

 スプーンを置いて、椅子を立った。腕を掴んで一原を立たせて、布団の部屋に引っ張った。

 カーテンからの薄い光が、幼い唇に少しの色をつけていた。マフラーをとったばかりの首筋は白く、その下の鎖骨が見えかかっていた。隠れた肌の色。初日に見たものを想起させるには容易かった。

「ど、どしたの……?」

 何も意識していないその発言が、全てを打ち消した。

「……ガキ」

 どん、と突き飛ばして、僕はテーブルに戻った。一原は布団の上でしばし呆然として、ふと気づくと恥ずかしがり始めた。

 僕は黙々と食べるのを再開して、一原は性懲りも無くまた寄ってきて声をかけてくる。

「ヨーグルト派だねっ」

 上擦っている。

「牛乳よりお腹いたくならないし、お腹いっぱいになるし」

「牛乳だと餌を食ってる気になる」

「……そうそう! 親戚の家で猫にあげてる餌と似てるんだよ! あたしもおんなじこと思ってた〜!」

 食べ終えた皿を流しに浸けて、僕は身支度を始めた。顔を洗って歯を磨いて、寝巻きを放ってリビングに戻ってくる。一原が固まった。

「なんだよ。父親の裸ぐらい見るだろ」

「う、うん。でも同級生のは初めて」

「プール授業は?」

「まだない」

 なら金輪際ないだろうな。体育の授業もなくなるかもしれない。イントラたちも、彼女も、自分を活かすことのないまま一生を終える。当然ながらそのことに何の感情も湧かない。僕らはそもそも必要とされていなかった。それだけのことだ。

 制服に着替えて部屋を出た。列んで階段を下り、マンションを出ると一原は僕の横にきた。普通の通学時間帯とあり、通りには同校の生徒が多い。

「イントラクラス、なくなるかもな」

 聞こえないくらいで呟いたのに、「なんで!?」と大声で反応された。

「国が僕らをどう思ってるかよくわかった。割く金がないんだよ。研究とか諸々含めて、一人にかかる予算はエクストラ三人分。それも返ってこないんだから実質もっとだ。その金食い虫は年々増加している」

 無茶な話だろうな。そこに更に金をかけてアスリートを養成するなんて。メリットはなくもなかったが、向こうがこちらを厄介に思っているなら伝わらない。これ以上一円もかけたくないはずだ。

「この前の、ダメだったってこと……?」

 僕は黙って歩く。

「あたしのせいかな……。もしかして」

 誤解を解くのも面倒だったが、無視して先を歩いていると悲しそうな謝罪の声が聞こえてきたので、そこだけは違うと教えた。

「でも、大丈夫だよきっと」

 商店街を抜ける。一原は根拠のない言葉を僕にかける。

「ナカシマさんがなんとかしてくれるって」

「……」

「それか、あの、あんましカッコ良くない人」

 どちらも僕が遠ざけた。

「あたしもさぁ、さえまると昔ケンカしちゃったときとか、次の日不安でしょうがなかったけど、会ってみたらなんでもなかったよ。案外、世の中そういうことばかりだって」

 大通りを通って校門前。大勢の生徒に混じって門を抜ける。喋っているのは一原だけだ。

「だいたい、そんなことになって先生が黙ってないよ。だから絶対大丈夫——」

「クラスがなくなるわ」

 隣に現れた影にぎょっとした。女教師三浦だった。

 顔はやつれ、髪はだらしなく下がり、幽霊さながらの姿容。

「政府ってこんなに容赦なかったかしら。例の競技の件は保留のまま、勉学の不要だけが受け入れられたわ……。今朝方連絡があって、学習施設に代わる新しい政策がされるって……。ふふふ、言い方はまっとうだけれど、それ即ち」

 切り捨てだ。あの男が得意としていたやり方。研究協力をしていた企業が、機関の方針転換で不要になった際に見た。僕が東京を追いやられた時とも似通う。容赦ない。だが的確で、反感を得ない為のフォローも万全に行う、機関トップの誇る手腕。

「ふふ……まあ、仕方ないわね……。仕方ないわ」

 独り言のように言って、ゆらゆらと三浦は僕らの前を歩いていった。確か公募で選ばれた教師だ。教員免許はあるが、実務経験がないとかで、今から通常クラスを教えるにしても大きく出遅れる。つまり彼女も適職を失ったことになる。

「先生……」

 泣きそうな顔でいる一原に、僕は言った。

「一原、いい想定なんてするな」

 崩れるだけだ。

「最悪のときに動ける自分になれ」

「……」

「これからきっと、僕たちには、もっと悪いことが起こる。一人でも……助けがなくても、強く生きられるようにしろ」

 こいつがどうなっても構わないという本心は変わらない。

 これは礼だった。友達だかなんだか知らないが、懲りずに僕を見てくれた彼女に最低限の礼節を尽くしただけ。

 施設へと歩を進めた。少し遅れて元気のない足音がついてきた。


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