4 リカバリ
一週間が経った。この山と川と寂れた商店街と学校があるだけの町の生活にも慣れ、僕の朝食は卵焼き目玉焼きスクランブルエッグにそれからシリアルの牛乳かけと多彩になり、そして部屋の棚の上には救急箱が置かれた。これはナカシマが持ってきてくれたものだ。
「救急箱は目に付く場所に置くんですよ。籠くんだけでなく、たまたま居合わせた人でもすぐに見つけられるように。そうですね…………この棚の上なんてどうでしょう」
薀蓄ついでに置き場所も決めていった。
つまり彼女がこの部屋に、僅か数分だが上がったということだ。
無駄に広いリビング。物置と化している和室。入居以来一度も足を踏み入れていない子供部屋……。どうだ、ナカシマ。部屋なら沢山あるぞ。はっきりいって持て余している。だからどうしたって? いや、どうもしないよ。どうもしないけど、なんか、広すぎると思わないか? 一人だと。……いや、いいんだ。なんでもない。ところで、お前普通に僕の部屋に上がるんだな。あのドアのところを境界にして、まるで地方と東京の、あるいは国民と国の、なによりイントラとエクストラの線引きをしてるんだと思ってたよ。そんな壁、元からなかったってことか? じゃあ……じゃあだ。ぼ、僕とお前はどこまで近づけるんだ? 例えば僕の生活を知ることがお前の仕事だが、逆にお前のプライベートなことを僕が知るのは許されるのか? 僕の興味がそこに向いているのなら、お前としては無視するわけにはいかないよな。じゃあ、訊いていいか? いいよな?…………大丈夫だ、変なことは訊かないから。ええと、あの、
「趣味、は」
……。
目の前の空間は、僕の質問に答えるはずもなく、ただ向こうの景色を透過して、
しかし僕の脳には鮮明に焼き付いている。
彼女が昨日、そこにいた。
一つ結びの黒髪。化粧っ気のない顔。そう高くもない背。あたたかく、どこか素っ気なく、でも何より僕を優先してくれる女性のイメージが、まだそこに残っている。棚の前で、向き合って、どうでもいい話と笑顔をくれた。同じフローリングの上にいた。僕がなんとなく歩み寄れば、彼女との距離もなんとなく近づいただろう。なんとなく体に触れたとしても、ぜんぜんおかしなことじゃない。同じ空間にいるのだから。仕切るものなどないのだから。ふとした拍子に彼女との何もかもが通じ合って、気づけば裸で抱き合っていても変じゃない。
十二時間前の〝そこ〟を凝視しながら、今日の夜はもっと砕けた話をしてみようと思った。家族構成とかから訊いてみよう。思えば向こうは僕の全てを知っている。僕が何も知らないなんて不公平だ。よし、その切り口でいこう。
制服に着替える。洗面所で髪を整えて、ネクタイを真っ直ぐに直した。七時ジャストだ。今日も一原凛と登校することになるだろう。色々と気分がいいが、それについて彼女にあれこれ話すわけにもいかない。あいつは明らかに僕に気があるからな。本命の女のことを惚気られて、いい気は当然しないだろう。こういう時に同性の友人というものがいれば楽しいのかもしれない……と、身近な二人の男子のことを思い浮かべて苦笑いになるが、反応がなくても一方的に話してみるのもいいかな。とにかく楽しい気分というのは外に発信したくなるものだ。
玄関でふと、考えがひらめいた。勿論ナカシマのことだ。
「下の名前を知らない……」
知る必要なんてないのだろう。だから今まで知らされてこなかった。距離を感じて、僕から訊くこともなかった。
だが、僕と彼女を隔てるものは何もないのだとわかった。何気なく訊いてみよう。事務的な繋がり以上に、人としての信頼を打ち明けよう。
「そうすれば、名前を訊いても不自然じゃない」
靴を半端に穿いて、つま先で床を蹴りながらドアを開ける。
「信頼の証だ。君のことを知りたい。そうだな……」ここで一瞬考える素振りをしよう。「下の名前はなんていうんだ? あ、別にそれで呼ぶわけじゃないぞ。ナカシマなんて姓、ありふれてるだろ。その中から君っていう人間を識別する記号としてだな……」
「あさきです」
あさきか。ふぅん。というか今のは没だな。どうも彼女を特別視する姿勢が透けてるっていうか、下手すると好意が悟られかねない。
「中島亜咲、二十歳です。そういえば教えていませんでしたね。失礼しました」
顔を上げた。スーツの女がいた。まだ子供っぽい大きな目が、少し細められた。
「籠くん、その靴の履き方はよくないですよ。一人のときはいつもそうなんですか?」
「え…………。なんで。朝だぞ……」
言うと同時、忘れていた何かを思い出しかけた。
そうだ、今日はそもそも日曜日。学校はないが、制服に着替えて七時に家を出なくてはならない。何故なら——、
「岸所長との会談ですよ。まさか忘れていたんですか?」
ナカシマはそう言うと、宙に目を走らせて記録を始めた。「重要な予定事の健忘が見られた。まさか痴呆か」慌てたためか実声で呟きながら。しかも個人の憶測まで不用意につけ加えて。
「いや、忘れてなんかない。ただ色々あったから」
「色々? あったことは全部伝えてください」
お、お前のことだ。言えるわけない。上手く誤魔化して、部屋を出てからドアを施錠した。隣にいるナカシマを意識する。今も境界を越えて、彼女と同じ側に立っている。それは目的のためだ。僕が清瀧高で、イントラの為の活動を開始したから。あの日、下校中に一原凛に襲われなければ、こうなることもなかった。いや、僕の洞察力と頭脳なら遅かれ早かれ似たようなことは起こしていただろうが、こうも早い展開ではなかったはずだ。改めてあいつの馬鹿力と暴走に感謝をしよう。色々あったが、今は掛け替えのない友人……、
「あれ、十円ハゲですね」
ナカシマの声。そういえばこれまで正面からの応対ばかりだったから、後頭部のそれに気づかれることはなかった。
仕方ないとわかっていても、やはり好意を寄せる相手に見られるのは抵抗がある。不恰好な勲章だ。それが付けられた経緯を上手く省いて一原との騒動を説明していたこともあり、想定される追及にも僕は身構えた。
「ストレスかな」
かけられたのは意外な言葉だった。
「思ってみれば、広い部屋に一人暮らし。同級生との関係は良好でも、話が合うわけではないし。急な環境の変化が精神に負担をかけてるんでしょうか」
「……」
「どうなんですか、籠くん。そういうことは言ってくれないと困ります」
諸々の流れに感謝しつつ、僕は言った。
「……そうだよ。学校にいけば馬鹿どもの相手。家では娯楽の一つもない。体を動かすのは不得意だし、ストレスは溜まる一方だ」
「それは、どうすれば改善されますか」
きた。きた。真面目一筋の顔で訊いてくるナカシマに、僕は高速で頭を回転させ導き出した答えをぶつける。
「外に、遊びにいきたいな。勿論、今日のことが終わってからだ。休日の街を歩いてまわりたい」
「人の多いところは危険ですよ。以前のように絡まれる可能性だって」
「お前がついてくればいい」
ナカシマは一瞬の間のあと、
「わかりました」
と言った。
本当は、一緒に夕食を食べたいなどの案もあった。しかしそれは幾分か直接的すぎた。ストレスの理由が単に人恋しいだけだなんて、僕らしくないし。
「会談が終わるのがお昼前。ではそれからですね。ちょうど他の予定も入っていなかったところです」
宙に目をやるナカシマを見ながら、僕は一原のことを考えていた。
あいつにつけられた十円ハゲが、幸運をもたらした。一原凛……おまえは恋の女神だよ。いじめてすまない。胸を触って悪かった。今度会ったときは精一杯やさしくしよう。ありがとう!
階段を下り、ナカシマと並んでマンションを出た。道路の脇には車が停まっていた。妄想で埋め尽くされていた頭から、これからの予定を引っ張り出す。会談の場所は駅前の高級ホテルだ。とはいえ所詮田舎町なのでたかがしれているのだが、機関のトップである岸という男はその辺りをあまり気にしない。久しぶりに僕に会うことを楽しみにしている、とのことだ。そういう上っ面な部分も含めて信用の置けない相手ではあるが、彼の論理的な性格だけは認めている。利益となるものには間違いなく食いつく。僕をあっさり切り捨てたのと同じように。
そういえば、今度会ったとき、と言ったが、一原凛も今日は同行するんだった。イントラ走者代表としてだ。本当なら麻田が適格なのだろうが、誘いの言葉を無視された時点で来ないと悟った。だがそれでも問題ない。三浦の協力で一原の奇跡の走りを映像記録することに成功した。精神内映像だ。それは干渉波ネットワークを通じて、すでにナカシマに渡っている。勝算は十分にある。諸々の面で要求を通すのに難しい部分はあるかもしれないが、あの圧倒的な速さを無視できるわけがない。
中年の研究員が運転する車で、まず一原家前に向かう。目と鼻の先だが、研究員もナカシマもそれが当然のように、僅か十数秒の車移動をこなした。何か意味があるのだろう。連中は声に出さずとも意思疎通ができる。今二人の目が動いた。何らかのやりとりがされたのだ。僕は……疎外を改めて実感した。研究員が若い男でないだけマシか。まぁ目の前の小太りの中年でも、嫌な想像が拭えるわけじゃないが。
停車し、降りてから二人が言う。
「これ、意味あったのか。目と鼻の先じゃないか」
「まったくです」
「あの目の会話は何だったんだよ!」
思わず声を荒らげてしまった。ん、と目をやって、ナカシマが返す。
「〝元宮さん久しぶりですね。娘さんお元気ですか〟」
「〝ああ、三歳になった。映像見るか?〟」
「〝わっ、かわいい。元宮さんの子供と思えないくらいかわいいですね〟」
「〝だろ? 遺伝子って謎だよな。どこも俺に似てないんだよ〟」
「〝ほんと。目とか鼻と全然違う〜〟」
「駄目すぎだろ! 現実に集中しろよ! しかもあんたそれ別の男の子供だよ、多分!」
「駄目とか……。一応、私も元宮さんも干渉波情報処理のエリートですよ。伊達に政府勤めじゃありません」
「もっと駄目だろ!」
「別の男の子供なんて、そんなこと、あるわけないだろう。はは……、ははは……。は……」
「本気で狼狽えてるぞ、この人!」
そんなふうに騒いでいると、家から一原が出てきた。両親の見送り付きだ。
「凄いぞ、凛。イントラ代表だ」
「頑張ってね。国の人に失礼のないようにね」
「わかった、わかったから中入っててよ!」
無理にドアを閉めようとする一原に、両親はしつこくも居留まろうとする。こんな子ですけど、よろしくお願いします。ご迷惑かけます。籠くん、お願いね。などと言ううちに完全にドアは閉められた。
いつも通り制服だが、若干いつもより寝癖が少ないショートの女子高生が駆けてくる。近くでよく見ると、唇がやたらつやつやしていた。なんか睫毛も反り返ってる気がする。頬紅も微かに塗ってる。おめかしというか何というか……七五三だな。
「おはよう。なに話してたの? ていうか国の偉い人? はじめましてよろしくおねがいします」
「元宮だ。よろしく」
「中島です」
三人、ぺこりと頭を下げる。
「……あ、これさぁ、あたしはいつも通りでいいって言ったんだけど、親がね。変じゃないかなぁ。唇とか変な感じするし。ていうか、コモリ昨日眠れた? あたしなんだか緊張して寝れそうになかったけど、いつの間にか寝てた。お母さんに起こされる前に起きちゃったよ。えっとね、六時ぐらいかな。……あ、それでなに話してたの?」
「…………相手に喋らせる気ないだろ」
四人で車に乗り込み、清瀧校とは逆方面に走る。住宅街を抜け、広い通りに出た。
「ねーねー、さっきなんの話……」
真横で一原がうるさい。顔をしかめつつ前に目をやると、右方向から来る他の乗用車がフロントガラス目前を横切った。かと思えば、国道から出てきたトラックの正面を、今度は僕たちの車が通り抜ける。
無秩序。そんな言葉を思い浮かべるのも、僕がイントラだからだろう。
「事故るなよ……。さっきの調子だと怪しくなってきた」
運転席の元宮は振り返って僕を見た。
「あれは軽い冗談だよ。いや、実際ああいうドジがあっても、運転だけは誤らないから」
ははは、と笑って、元宮は付け加えた。「うちのカミさんだって、本当に他所の男と何かしてたらわかっちまう。疑念すら生まれない世界ってのも考えもんだよ。あんな風にマジで慌ててみたくもなる」
「〝事故〟という言葉も、そういう用途では死語です、籠くん。大抵はユーモラスな意味合いで使います。頭が事故、とか」
僕は黙り込んだ。一原は窓から、縦横無尽に巡る車の流れを見ている。
「コモリ、車が怖いの?」
彼女の眼前の窓を、トレーラーの巨大なタイヤが震わせた。
「あたし、これ好きだけどな。人の見えない繋がりがわかる気がする」
そんなの、否応にもわかる。干渉波がなければ、こんな交通は成り立たない。
エクストラは全人類が一つの生命体だ。たまに異端な思想が現れても、すぐに修復される。完全なる統制、自然との共存も成し遂げた、人の理想形。
「……めでたいことだよ」
エクストラに創られた文化は、僕を憂鬱にさせる。どうしても差異を意識させるからだ。奴らとの。……彼女との。
その彼女は、こともなげな顔をして、「女性の神聖性は失われましたけどね。生理日や排泄のことが周知されるんですから。まぁその上で男女は惹かれ合いますが」と、僕からしたら際どいことを呟いている。
「……」
……なんだっていい。僕は僕として、この世界での精一杯を尽くすしかない。
「籠くん、どうしました? 興味のある話でしたか」
ナカシマは、見てくれているんだ。
中分けの髪に端正な顔立ち、高身長の、見た目には二十代、いって三十前半のダブルスーツの男。国際研究機関、人類総合科学研究所の責任者である岸一平は、僕の記憶が正しければ今年四十五になるはずだ。
ホテルエントランスを二階に上がって、通された小会議室が会談会場になっていた。岸は数年前と変わらない顔で、立って僕たちを迎えた。
「久しぶりだ。大きくなったね」
握手を求めてきた。
「変わっていなくて驚きました。お久しぶりです」
握り返した。
「君に老けたと言われるのが怖くて、エステにいってきた」
「本気でわからない冗談はやめてほしいですね」
手を離す。次に岸の目は一原に向いた。
「一原凛さん。はじめまして。研究機関所長の岸です」
「ど、どうも、よろしく、おねがいしますっ」
ホテルの高級なエントランスに入ってからずっと緊張していた一原は、上品なハンサム中年を前にして完全にテンパった。
「力が強いそうだね。…………いや、失礼。女の子にこんなことを」
「とんでもないです……」
差し出された右手を、一原は両手で握った。
「しかし強さは女性の魅力だと僕は思う。ね、中島」
「そうですね」
「美しさ、しなやかさ、逞しさ。素敵な女性というのは…………、うん、君は今日は七五三みたいだけど」
あんたも思ったか。
早速、ということで席につき、話し合いが始まった。岸の隣に元宮と別の研究員。僕の側には一原とナカシマが座った。
「あれ、先生は?」
「三浦さんは別用ができて来れないと連絡がありました」
「僕で事足りるとは事前に言っておいた」
というか学校側に関わる段階はまだ先だ。いない方が岸としてはわかりやすいだろう。
「——が、国管轄施設の人間がこの場を欠席か。あの女もやるな」
「そういえば昨日婚活パーティがどうこう言ってた」
「納得」
僕は向かいに座る岸を見て言った。
「まず見ていただきたいのは、その婚活教員が記録した映像です」
岸は素直な驚きを示した。エクストラが脳内に記録した映像は、前時代の映像媒体と違って細工ができない。干渉波間では嘘がつけない為だ。ナカシマから彼に渡ったイメージは、三浦晴子教員が見た偽りのない記憶としてまず認証を受ける。例えば騙すなんてことは万に一つもないらしいが、イメージに悪意があった場合はこの時点でわかる。僕と一原には見えも感じられもしない処理を終え、彼の目が情報を捉えたと思った瞬間、その表情は一変したのだ。
「凄いな、これ……。人類の世界記録じゃないか。エクストラ以前の人類の……」
「次、同クラス女子、麻田杏奈と、男子、恵那影の測定時記録です」
ナカシマが言って、じっと視線を固定する。岸は頷いた。
「うん、これは知っている。測定の報告は見ていたから。凄いね、イントラクラスは」
そこで僕は学習教科との相性の悪さ、非効率さを簡潔に説明した。
「希望としては二つです。エクストラも参加した競技の場を作る。イントラルールに合わせて走るというのはフェアとは言えませんが、稀に干渉波制御が不得意なエクストラもいると聞きました。物質干渉はセンスも要るらしいですからね。となれば単純走力のみでの競技は、彼らにとって有利な選択になります。でも、もしそれすらも難しいのならば、競技はイントラだけで行う。今、干渉波異常は世界に千人います。全員に参加権と、相応の訓練を受ける権利を与え、このエクストラ社会の新たな文化とします」
「エクストラは参加しないのにか」
「映像を配信させます。人類史上最速なら、充分鑑賞に耐えうると思いますよ」
ふむ、と唸って、岸は俯いた。僕は続ける。
「それとも、機関としては研究が先ですか」
「いや、君の二の舞にはしないよ」
その言葉は意外だった。
だが同時に、イントラへの期待の薄れが如実に表れてもいた。目を大きくして「凄い」とは言いながらも、今は当然となった自分たちの力の方が遥かに多くのことができる。人類の歴史だって、彼らは事実上塗り替えたのだ。今更旧歴史の新記録が出ても、それこそ古代の埴輪が掘られたような感心しか集められない。
僕のことで、もう底は見えたのだろう。麻田と恵の記録も、知っていながら関与しなかった。イントラにどんな能力があるにせよ、それが干渉波に関するものでない限り実用的価値はない。そう判断されている。
「正直を言うと、会うのが怖かった。老けたとかではなくね。……君は、僕を憎んでいるだろう」
「……」
「研究と称して祭り上げ、世間の晒し者にし、結果としてご両親と引き離してしまった」
一原が躊躇いがちに僕を見ていた。
「憎んでいませんし、その話を今されるのも困りますね」
「すまない」
頭を下げられた。世界最先端、最重要研究機関のトップが、頭頂部を向けている。僕は何も言わず、ただそれが終わるのを待った。
「お答えを、聞かせていただきたいです」
しばらくして顔を上げた岸に、僕は言った。
頷かせればいい。同情でも、呵責でも、この際利用してやる。
このタイミングでの催促に、岸が首を横に振れるわけがなかった。快い返答がされた。
「研究という枠を越えた動きになるから、多方面への関わりが出てくる。すぐに話は進まないとは思うが、待っていてくれるか」
「ええ。ありがとうございます」
その後、細部の打ち合わせをして解散となった。
「昼食も一緒にできたらよかったんだが、スケジュール管理が下手でね。すまない。君たちだけでも食べていったらいい」
一階の中華が絶品らしいよ、と岸は言って、研究員を連れて慌ただしく去っていった。
会議室の前で一原は、顔を赤くしてそれを見送った。
「かっこいいよね……」
オヤジ好きか? お前の親より年上だぞ、あいつは。
「ちなみに所長は独身ですよ。暇はないですが収入は多いはずです」
「玉の輿かぁ……」
「立場上当然ですが、イントラエクストラ関係なく女性には優しいです。私も彼は、異性として素敵な方だと思いますね」
「だよね、だよね」
おい、あいつが四十五のオッサンだってちゃんと教えてやれよ。
「で、どうする。昼飯は食って帰るのか」
エントランスへの階段を下りながら、先を行く元宮が振り返った。
「席はとってありますよ。籠くんたちの希望に任せます」
すると一原が慌てて僕をつついてきた。
「中華って、海老はいってる?」小声で訊いてくる。
「入ってるだろ。いくつかは」
「苦手……」
僕は研究員二人に言った。「他の店でいいか」
「あっ、いいよいいよ。除けて食べるから」
一原が遠慮をしてきたが、構わず外の店で食べるということで通した。
「籠くん優しいですね。岸所長に対抗されたんですか」
こいつはこういうことを言うからな……。
「コモリは最初から優しいよ」
「? 最初は喧嘩をされていたんじゃなかったんですか?」
「あ、えー……そういうこともあったけど、そのときから本当は優しかったの」
「ふむふむ。では一原さんは籠くんが好きなんですか?」
客の増え始めたエントランスを出て、玄関前ロータリーへ。快晴の空に似合わない強い風が吹いた。
「え……」
整っていた一原の髪が一気に巻き上げられた。
色々察したらしい元宮が割って入った。
「悪いね。こいつ仕事熱心すぎて遠慮がないんだよ」
「仕事は仕事ですし。遠慮なんて持ったら駄目と教えてくれたのは元宮さんですよ」
「……あのな、臨機応変にいけよ」
揉め出したナカシマと元宮の間で、一原はもじもじと俯いてしまった。
「……好き、っていえば好きだけど……」
小声でぶつぶつ言うが、お前、当事者の僕に聞こえてるぞ。
しかし優しい奴が好き、ね。単純だ。あんな上っ面全開の岸に対しても好感を抱くなんて。
……でもまぁ、あの男のことは、今日は僕も正直悪くないと思った。四、五年前の印象と違いすぎた。彼の言葉の通り、僕へのことを省みた結果なのか。
憎んでなんかはいない。全ては時代と運命のせいであって、個人に対してのそういう感情は何もない。
それでも、ずっと彼に抱いていた何かを、少しは緩めてもいいと思えた。
「この辺の地理は全く知らないんだけど、いい店あるのか」
ロータリーすぐ側の優先駐車スペースで車に乗り込み、元宮は言った。「君らは?」
「どこでもいい」
「あたしも。海老が出なければ」
高い座席に、行きもそうだったが、慣れないというように一原は尻を浮かしては深く腰掛けたり浅く腰掛けたりをしている。ああ、高級車か。僕はむしろ普通の車に乗ったことがないから、何がそんなに落ち着かないのかわからないな。
「中島は?」
「そうですね。ちょうどいいですし、駅前繁華街に行きますか」
……何。
「籠くんのストレス解消に、散策も兼ねて」
ちょっと待て。それは、僕とナカシマ二人きりで……。
「なにコモリ、ストレスためてたの?」
「ええ。彼の後頭部にですね——」
「ああああ! 今回の件のことで最近は考えすぎてたからなあ! 街を歩き回って遊びまくってスカッとしたいんだよ僕は! 人数も多いし丁度いいな! ストレス解消にはみんなで騒ぐのが一番だ!」
わはははは、ちくしょう。ナカシマの阿呆。二人きりがいいって、何故わからない。僕がエクストラなら好意も思惑も全部伝わるのか? それもそれで嫌だが。とにかくちくしょう。
エンジンが始動し、車は動き出す。車道に出て、そして、目と鼻の先のコインパーキングに入った。一原が「あれ?」と、素直な反応を示した。休日、田舎町だが最も賑わう駅前で、更に昼前とあり、駐車は三台待ちだった。
「……」運転席からの沈黙。
本日二度目、これで確定した。
「あんた、段取り下手だろ」
ぐっ、と元宮は呻く。
「計画性がない。ホテルも繁華街も同じ駅前なんだから車停めたままでよかったろ」
「この辺の地理はわからないんだよ」
「計画性がないのは本当ですよね。元宮さんオメデタ婚ですし」
「中島……! い、いいだろよ! 今幸せなんだから!」
「そんな不細工でよく結婚できたな。まあ、何というか色々と、確認できてから発進しろよ」
「おい! こいつ性格おかしいぞ! 殴っていいか!」
「それは私が全力で阻止します。彼の担当として」
「くそっ」元宮は俯いて、「天才イントラだって? ただの捻くれたガキじゃねえか」とぶつぶつ呟いている。
目の前でつかえた三台の車両。まるで動く気配はない。これは結構待つな。
「でも、ホテルの利用は終わりましたからね」ナカシマが言った。「それなら駐車場を一旦出るのが筋というものです。元宮さんは間違ってませんよ。顔が間違っているのは擁護できませんが」
「いや……お前はお前でもっと融通を効かせろって。機関の公務なんだから問題ないだろ。そして顔が間違ってるってなんだ。俺はそろそろ泣くぞ」
今度はナカシマが突っ込まれている。なんだよこれ。笑えてきた。
「大したことないな。エクストラって」
言い合いに発展しかかっていた二人は、きょとんとして、揃って僕に顔を向けた。
「ん、天才さんには敵いませんよ」
「まぁ、ムカつくけどそうだわな。欠陥があるのが人間だし」
元宮はギアを中立にすると、背もたれに思い切り体重をかけた。僕の前で、ぎしっと音が鳴った。
「お前は、偉いと思うよ。籠竜だっけ? ずっと干渉波研究の方にいたからよく知らなくて悪いけど、まあ噂だけは聞いてる」
率直な言葉でいいか、と彼は断ってきた。
「自分の能力の不足を必死で埋めようとする姿勢、それを持てる奴は今なかなかいない。俺らみたいな一応エリートって言われる中にもだ。干渉波制御は先天的なセンスや性格が殆ど優劣を決めちまうから。その点はだから、尊敬するよ。実際、エクストラって言っても欠陥だらけだ。そのある種生物の本質みたいなもんに抗ってるのは凄い」
「あたしもコモリってすごいと思う」一原が小さく言った。
「さっきイントラの特化した能力みたいな話も出たけどよ、俺はお前のそれだけは違うと思う。なんつーか、意地だよ」
「見苦しいって言いたげだな」
言葉端に感情は出る。どんなに取り繕っても、それでしか相手を感じられないイントラは言葉に敏感だ。「わかるんだよ」
「それもあるかな。別に説教じゃないぜ。ただ、他人を傷つけることも多いだろ」
一原がそわそわして、顔を逸らした。
「そこの違いだよ。エクストラは嫌でも心に触れるから、遠慮が生まれて必死さが失われていくわけ。例外はいるけどね、若い奴には特に」
ナカシマは無反応だ。
「だから段取りが抜けてたり、むしろそこに美徳を感じたり、仕方ないっちゃ仕方ないんだわ。まぁ許せよ」
「……僕が、必死ね」
「必死じゃなきゃできないこともあるし、悪いとは言ってねーぞ」
じゃあ何だ、その口調は。
「ただ、エクストラはそうじゃないってこと。守るべき関係が見えてる、悪く言えば縛られてる俺らには、それはできない。自己を貫いて、失うことがわかっているから」
こいつ、何を言おうとしている……。
「僕が、何を失うって?」
「さぁ。求める以外の全部じゃないか。……お、前が空いたぞ」
元宮は車を一台分前に進めた。その後立て続きに三台の空きが出て、結局十分と待たず駐車ができることとなった。
「元宮さんは結婚前は激しかったんですよ。家庭ができて丸くなったというか、仕事も減らしていますし。そこからの経験則でしょうね。つまり説教です」
「なんだ説教か」
「説教っていやだよね」
「ちげーよ! 俺らとお前らイントラの認識の違いを教えてやっただけだ」
「それを説教っていうんだよ」
同じく右側から車を降りて、僕と元宮は目を合わせた。
「ケッ。説教ならもっと色々あるけどな。まず言葉遣いとか。俺は三十だぞ」
顔を思いっきり背けて歩き出した。僕はそれを後ろから嘲る素振りをしようとして、
——やめた。彼の背を凝視した。
さっきのは、説教でも忠告でもなかった。彼は一言も言わなかったが、何か、別の意図があった。
エクストラとイントラの違い……? 暗に僕に何かを仄めかしていた……?
考えてもわからないままに、徒歩でパーキングを出る流れについていく。直接訊けば済む話と思うが、あえて言わなかったことだ。答えるわけがない。
或いは……気のせいか。エクストラなんて別人種も同然だ。理解できることの方が少ない。無駄なことに思考を割くのは馬鹿らしい。気にしなかったことにするか。
繁華街の上に張り巡らされた歩道橋を歩く。下は交通が激しい。歩道橋上に畳まれた屋台がいくつかある。夜から営業のラーメン屋だな。この辺では屋台が有名で歴史もある。
と、肩に一原がぶつかってきた。
「あの二人って……」
小声だ。
「何だ」
「なんか、楽しいよね。他の人と違って。……三浦先生ともまた違ってさぁ、イントラをわかってるっていうか」
「その研究が連中の仕事だからな」
「なんか、当然みたく話してくれる」
だろうな。彼女の親とか三浦は、ある種〝親だから〟〝教師だから〟という理由がある。理解がなくても、無条件に歩み寄れるのだろう。
研究員は違う。本人の心情と無関係に、複数のイントラと接し、膨大なデータに触れる。同情も嫌悪も通り抜けたあとの、フラットな認識を得た職業人だ。
「あたし、好きだよ。二人とも」
「……」
連れてきて正解だったかな。思えば、親のいない僕が僕でいられるのはナカシマのお陰と言ってもいい。ただの、未熟な恋だとしても、人生の比重の大部分が彼女に置かれているのは事実だ。イントラの理解者がイントラに好影響を与えるなら、保護の徹底によってその機会を失くした第一世代は真に不幸ということになる。
計画を推し進めることでそれは打破できる。恵も、麻田も、他の奴らも、注目を浴びて、機関との関係が築かれる。
僕は前に進めばいい。全てがいい方向に向かうはずだ。
「わっ」
一原の背中を押してやった。
「好きなら話してこい」
一原はナカシマの背中に突っ込んで、二人してつんのめった。
行列を見つけた。
この田舎町でそのようなものに出くわすとは思っていなかった僕は、一原と一緒に通りを回り込んで、慌てて店名を確認してしまった。
『東京本格パスタの店、ガーベッジ』
ド田舎……。
「すごいすごい、東京のお店だ!」
一原がぴょんぴょん跳ねる。クソ田舎者……。
「行ったことねーな、こんな店」
「私は何度か。まぁまぁ美味しいですよ」
あとの二人が歩いてきたことで、なんとなく列の最後尾につくかたちになる。
「大分待つだろ、これ。他の店じゃ……」
僕は言おうとしたが、隣で目を爛々とさせる一原の存在に気づいてやめた。
ガーベッジか。ここ、デリバリーもやってるんだよな。本当にそこそこ美味しいんだ。だから一時期ハマって馬鹿のように食っていた。十二歳ごろだから、ナカシマと会う前だ。研究所の僕専用施設に持ってこさせて、狂ったように毎日。三人前を一人で平らげたこともあったな。その後盛大に吐いて、以来パスタ自体見るのも嫌になったんだ。
くそ。この田舎者のせいで悪夢再来だ。今の時点でわかる。胃が絶対受け付けない。だがこの無邪気な笑顔を失わさせるのも心が痛い。一原の好感は絶対に維持する必要があるし。男になるべき時か、籠竜……。
「待つにしても三十分程度ですね。回転が早い」
ナカシマが言った直後、一度に五人の客が店から出てきた。恐らく干渉波で測ったんだろう。店内の客の食べるペースなどを、精神干渉で。それも相当の作業だと思うが、彼女は情報処理のエリートだ。熟れているんだろう。
「…………ぅ」
「籠くん、どうしました?」
「……い、いや」
パスタの情報でいっぱいになった彼女の精神内を想像して吐き気がした。
そうこうしているうちに、僕たちの後ろに並ぶ人間が出てきた。また客が店を出て、空いた列を詰めるために元宮が前に出る。ナカシマも出る。一原も笑顔で出る。わはは、誰も何も言わないが、もうここで食うことに決定したんだろうな。僕は汗だくの笑顔で足を前に出した。
その時だった。店内で罵声が聞こえた。
続いて物音がした。椅子か何かが倒れた音だ。店内に伸びる人の列は、ざわめき立った。
何かのトラブルかと思うよりも、違和感が先立った。エクストラは滅多に声を発しない。事実、実声で話す僕たち四人は列で浮いていたし、瞬間的に上がったざわめきも空気に溶けるように消えていった。罵声が飛ばされる事態というのが既に、エクストラ社会では異常なことだ。
店のドアが勢いよく開いた。取っ組み合う男二人が出てきた。また短い悲鳴が上がって、列の先頭はバラけた。
「てめえ聞き返したよな、俺の注文を! 声に出した注文は聞けねえってのかよ!」
「なんなんですか、離してください!」
見れば一人は店員だ。男に襟首を掴まれて、店の壁に叩きつけられた。
声……。実声ってことか? まさかこいつ——
「お前ら喋るなよ」
「私たちの後ろに隠れてください」
元宮とナカシマが前を遮った。
「〝自然派思想〟か。……反人類思想とも言う。思考を共有するエクストラ社会でのイレギュラーだ」
「なにそれ、コモリ……」
「干渉波による進化を不自然なものだとする考え方だよ。殆どは行動を起こす前に周囲に感知され処置される。数万人に一人がこじらせる風邪っていうのは——」
「私の喩えですね」
「っていうかお前ら喋るなって言ったろ! イントラを神格化してる連中だ。見つかったらどーなるか……」
……。
しまった、という顔で店側に振り向く元宮。血走った男の目が、僕と合う。
「イントラ……? まさか、天才少年、籠竜くん?」
「……そうだけど」
場が静まる。
男はゆらりとこちらに歩み寄った。
「会ぁいたかったよ。会いたかったけど、オレ、家から出れなくてさぁ……。思想がバレたら、捕まって、記憶が消されちゃうんだよ。でも金も尽きて、腹減ってさぁ、どうしようもなくなって飯食いに来たら、なんだよ、天才少年がいるじゃん。応援してたんだよ、ずっとさぁ」
不健康そうな髭面を幸福そうに歪めて、近づいてくる。店前の行列は一斉に散った。
「この町に来たって聞いて、会いたかったんだよぉ。へへへ。イントラの希望の星……。握手してくれ」
手を差し出された。一原が僕の背中をぎゅっと掴んだ。
これは、ファン、ってことでいいのか。
三歳の頃から精神ネット上のニュースに引っ張り出され、顔の造形が良かったことも手伝って、常に黄色い声援を浴びながら育ってきた。僕はモテた。熱狂的なファンには年上が多かったが、同年代や年下もいた。今思えば、干渉波異常に対する奇異や同情も手伝っての人気だったのかもしれないが、だとしても悪い気はしなかった。無条件の肯定を受けることを、実際嫌だと思う人間はいないのだ。
但し、それは女に限る。
東京にいた当時から稀にいた。なぜか僕に熱い視線を向ける、少し違った男たち。はっきり言って、不気味だった。なんというか、本能的に男からの好意は吐き気がした。
というわけで、この現状は考えるまでもない。
「絶対に嫌——」
「オラ店員!! 籠くんの注文も、もしや受けねえってんじゃねえだろな!!」
男は急に向き直って怒声を飛ばした。
と同時に、〝何か〟も飛ばしていた。店員が店のドアに叩きつけられたのだ。
僕は身を竦ませた。干渉波だ。店員との意志の差か。相殺されることなく、彼を吹き飛ばした。僕がはっきりと握手を断っていたら、その敵意がこちらに向いていたのか? 背中に細い指の感触。一原は震えている。
光を見たのは、そのときだった。
男の周囲を、それは一瞬で渡った。
目を見開いて宙を仰ぎ、手足を痙攣させ、彼は仰向けに倒れた。
僕の目は、光の発生源、元宮に釘付けになっていた。
「中島、警察呼んで」
「はい」
「まぁ、今更逮捕も糞もねーけど一応。俺らも公人だしな」
ぴゅうと口笛を吹いて、小太りのスーツの男は振り返る。僕と顔を合わせると、驚いた仕草をした。「何だよ、睨んで」
「リカバリか、今の」
面倒そうに頭を掻いて、返答がされた。
「おうよ。言っとくけど、記憶なんて消してねーぞ。誤った思想に陥らない為の思考プロセスを叩き込んだだけ」
当たり前のように言うが、それがどれだけ高度なことなのかは、干渉波制御を知識で学んだだけの僕でもわかる。まず一般人にはできない。何よりあの光だ。あそこまではっきりと可視化される干渉波を、いまだかつて見たことがない。
警察はすぐに到着し、男を連行していった。騒動が収まるにつれ店の行列も元通りとなったので、流れに逆らうわけにもいかず、僕たちは入店した。
「わかったろ。欠陥だらけなんだよ、エクストラも」
出された水を飲み干して、元宮が言った。
「くっそ。本当なら警察の仕事が先でリカバリは後なんだよ。書類書かなきゃいけないじゃねーか」
「こういうこと、頻繁にあるのか」
僕は訊いた。ナカシマに聞いていた話と微妙に違う。イレギュラー思想はもっと穏便に対処されるはずだ。だいいちああして揉め事を起こすまで放置されることが有り得ない。
「家に籠ってたって言ってたろ。干渉波が外に届かないくらい広い敷地の家か……。まぁ多分周辺の地面掘り起こしてリンクを壊してるな。そこまで無茶な奴はなかなかいないけど、ま、その辺は警察の仕事だよ。食おうぜ」
流石はデリバリーもする店とあり、テーブルにはもうそれぞれの注文が並んでいた。元宮はイカスミパスタだ。
「岸所長に連絡いきますかね、さっきの件」
ナカシマは、たらこスパゲティ。たらこの粒をよく絡ませて口に入れた。おいしい、と言いつつも表情は変えない。
「その前に俺が処理する」
「賢明ですね」
スープスパを食べていた一原が顔を上げた。
「所長って恐いの?」
さっきの奴より? と、元気のない顔には書かれていた。こいつは親があれだからな。男の怒声には慣れていなかったんだろう。
「ぐちぐちうるさいかな。恐いってより、面倒臭い」
「私には優しいですよ」
「女だからな」
僕は会話を聞きながら、皿に目を落とした。カルボナーラをフォークに巻きつけ、口に入れる。食べてみれば結構いけるもんだ。数年のうちに拒否反応も治まったらしい。
だが代わりに、東京にいた当時の記憶が蘇ってきた。岸一平は僕の様子をよく見にきていた。彼は馴れ馴れしく、僕は素っ気ない反応で。そういえば、怒られたことも、ぐちぐち言われたことも一度もない。
ただ、一言で切り捨てられただけだ。
「俺の転属の話、かなり前から言ってるのに聞き入れねえんだよ。ナアナアの、伸ばし伸ばしにされて」
「元宮さんが優秀だからだと思います」
「だよね。おじさんさっき凄かったよ」
「いや、だからってよ、…………まぁ、本質的にあいつが善人なのは認めるけど」
「素敵なお話をしましょうか」
と言ってナカシマはフォークを置いた。
「岸所長、ああいう人だから女性にはよく言い寄られるらしいんです。でも全て断っているとか。その理由がですね」
「知ってるよ。職員が家族みたいなもんだから、だろ。俺は奴からすれば弟だとよ」
「私は妻です」
「それ女には誰にでも言ってる」
「で、研究対象のイントラは子供だって」
……。
——君、食べ過ぎで吐いたんだって? 馬鹿だなあ。
——ストレスからの過食だよ……。段々学習は高度になっていくし、結果を出さなきゃいけない。
——でも君は、結果を出すんだろう?
——……。
——僕に似ているから、よくわかる。君は立ち止まれない人間だ。
——……。
——僕も今、君とは別のことで頑張っているよ。状況は色々違うけれど、一度の人生、お互いベストを尽くそう、籠くん。
「コモリが笑ってる……」
気づけば、カルボナーラを半分ほど平らげていた。
「美味いな」
「うん。おいしいよねー。東京ってこんなお店がいっぱいあるの?」
「どうだろな。ここより美味い店はあるかな」
前を見れば、元宮とナカシマが岸の悪口で盛り上がっている。
いつから、居心地の悪い気持ちを抱えてきたんだろう。きっと、立ち止まってしまってからだ。彼に認められていた自分が、どこかに溶けていなくなっていた。
簡単なことだった。そして必然だった。僕は天才で、少し休んだなら、また動きださねばならない宿命だから。何より、彼と似ているのだから。
また期待がかけられた。また頑張らなきゃいけない。明日からの慌ただしさを想像してうんざりしながらも、僕は笑っていた。
「そういえば岸所長」
「ん」
「直前まで会談に乗り気じゃなかったのに、急にどうしたんでしょうね」
元宮がフォークを置いた。
小声で「おい……」と言った。
両者の目がピタリと合う。一瞬のうちにナカシマの表情が変化した。疑問の色は払拭され、何事もなかったようにまたパスタに手をつけ始める。
……今、何だって。
「乗り気じゃなかった?」
一原が訊いていた。
「ん。まぁ、あの人にはよくあることだよ。気まぐれなんだ」
「ふーん」
元宮、何だその声のトーンは。
一原は誤魔化せても、僕にはバレバレなんだよ。何を隠してる。
睨みつける僕の視線から、元宮は目を逸らした。ナカシマに目を向けるも、こちらは不自然に顔ごと逸らした。
「なんだよ」
机を揺らして、僕は立ち上がった。
「あいつは、気まぐれで対応を変えるような奴じゃない。どういうことだ。昨日までは、僕の案をはねる気でいたのか」
店内の視線が集まる。ただでさえ実声会話で目立っていた上、この空気では当然だ。だが流すわけにもいかない。
「目を逸らすな、答えろよ」
やがてナカシマが口を開いた。
「籠くんの認識に誤りがあったんでしょう。所長は物凄く気分屋ですよ。もっともそれは内にしか漏らしませんが」
続けて元宮が何かを言いかけたが、ナカシマが視線で制した。
「いい加減な人ですよ。私はよく知ってます。所長は言い寄られても断る人ですけど、それは外に対してのみですから」
そして僕に微笑を向けた。
「東京の頃はよく、夜に誘われていたんですよ。研究員の女性はほとんどみんなじゃないかな。それが不真面目だっていう意見もあったけれど、私は別に。断りませんでしたね。仕事ですから」
「は……?」
「上手でしたよ」
空気が凍りついた。
「ね、ねぇ……。なんの話? 大人の話?」
一原が訊いてきたが、僕は全く反応ができないまま、ナカシマが食べるたらこスパの最後の一口を見つめていた。外の風で乱れたらしい髪が一筋、皿に落ちかかり、それを右手でかきあげながら、フォークに絡めたパスタを口に運ぶ。(油で)艶めいた唇が、綺麗に巻かれたパスタを上品に咥えた。そのとき控えめな白い歯と、小さな舌が見えた気がした。
「んまい」
ご馳走さまでした。と言ってフォークを皿に置いた。
それから、誰も一言も声を発さなかった。
元宮は微妙そうな顔で店内奥のトイレの方を見ている。
一原は僕とナカシマを交互に見て、一人そわそわしている。
僕は機械のように、カルボナーラをフォークに巻いては食べる動作を繰り返していた。