2 動機
清瀧高校イントラクラスに編入して三日目、平淡な授業内容に変化があった。と言うと大袈裟な言い方になる。単に体育の時間割がやってきたというだけだ。
平屋建ての、トイレと職員室と教室しかないイントラ学習施設を出て、一般生徒と共用のグラウンドへ。施設はまさに隔離かというぐらい敷地の外れにある為、移動も結構な手間となる。運動着に着替えた僕を含む六名は、裏庭、校門横、中庭と続く移動距離をぞろぞろと歩いた。
列先頭を行く一原が振り返って、冷たい視線をよこした。昨日は登校がかち合ってしまったが、今朝は彼女が元の時間に家を出ることで無用な衝突は避けている。
その一原と並んで先頭を歩くのは、眼鏡の女子、八重丸紗絵。彼女には昨日も今日も数回話しかけられた。おっかなびっくりの態度で、初日に起きたことについては触れず、世間話でもなく、提出物や移動教室に関しての事務的な内容だった。
他三人とは未だ接触がない。というか、こいつらがまともに口が聞けるのかすら謎だ。名前もわからん。まぁ知る必要なんてないが。
「今日は冬季の体力測定です。籠くんも来たばかりだし、丁度いいわね」
グラウンドに着くなり、担任教師の三浦は僕たちに五十メートル走の準備をさせた。トラックならし、ライン引き。
「一応、国のデータ取りでしょう。専門の人間も付かないんですか」
「? 最初からこれよ。測定結果はちゃんと提出してるし」
測定機の調整をやりながら、三浦は言った。「あなたたちはそういうこと気にしないの」
僕が東京にいた頃は十人は付いてたぞ。それも運動に見込みなしとわかってから減ったが。
「でも、これ何気に疲れますよ」とんぼという地面ならし用の器具だ。僕は向こうからがらがらと引いてきて、三浦の前で止まっていた。横を小太りの男子がマイペースにならして進んでいく。
「そのすけべの言うとおりです、先生」
ライン引きで白線を引き終わった一原が通りかかる。
「疲れるので全部国の人にやらせるべきです。汗かきます」
「僕が言ってるのは微妙にそういうことじゃない。計測に問題が出ると言ってる」
特に一原、お前だ。
僕は彼女の馬鹿力を知っている。振り回されて、鉄板に押し付けられた。逃げようとした時もすぐに追いつかれた。脚だって速い。
注目されていないのか? この測定のずさんさはそういうことなのだろうか。感覚だが、あれは常人の身体能力じゃなかった。
……いや、僕がひ弱すぎただけか? まさか、そんなはずはない……。
「授業の準備を生徒がするのは通常クラスも同じなのよ。ただあなたたちは人数が少ないから負担が多いだけで。でも学校というのは自主性を育てるところだから、してもらわないとね」
不満げに「はあ〜い」と言って一原は反対側にラインを引きに行った。往復した小太りが横をまた通過したので、僕も作業を再開した。
用具をまとめて片付ける男子に先駆けて、女子陣が測定準備に入る。スタートラインで脚を曲げ伸ばす一原を、トラック外から僕は注視した。
気づけば隣に、他の男子二人が立っていた。いつも窓の外の空を眺めているひょろい奴は、しかし今は女子を見つめている。
「おい」
話かけるが、無言。顔も向けない。
「イントラ中のイントラだな。実声にも応えないとか」
「……」
微塵も反応がない。もうどうでもいいので、勝手に話すことにする。
「お前、僕とキャラ被ってるよな」
同じだけ細い。身長も一緒ぐらいじゃないか。髪型も似てる。
「色素は薄いな。病弱か? なんでいつも空見てるんだ」
「……」
反応が得られないので、小太りの方に狙いを変えた。
「こいつ名前なんていうんだ。お前も。教えろよ。自己紹介してくれ」
「……」
スタートラインの方を見て、動かない。
なんでこいつら、授業だけは真面目に受けてるんだ。
「位置について」三浦の掛け声がした。僕は急いで目を戻す。
掲げた測定機からピストル音が鳴った。クラウチングスタートの姿勢から走り出した一原は、他二人を一気に突き離した。
速い!
と思ったのは錯覚だった。
スタートダッシュで力尽きたショートの女子は、一度に二人に追い抜かれる。高校生離れした走力を見せたのは茶髪の頬杖女だった。八重丸紗絵も堅実な走りで健闘するが、それをどんどん突き離してトラックを駆ける。立ったところを見て初めてわかったのだが、かなりの高身長だ。ピッチに恵まれているし、それ以上にフォームが出来ている。
高校生女子としては上等なタイムが出た。陸上個人走でエクストラとイントラのハンデはない。伸ばせば何か道があるんじゃないか。次いでゴールした八重丸、これは持久型だ。彼女も訓練次第で才能が開花するかもしれない。
見れば三浦も、驚きと興奮混じりの顔で頷いていた。「やっぱり、この子たちはこういう部分を活かすべきよね。また上に進言しようかしら」
一度は跳ねられたってことか。確かに、僕の高IQから見たら平凡の内に入るんだろうが。だとしても軽く見られすぎだ。恐らくデータ収集が先行され、実際の教育は後の世代にまわされるんだろう。第一世代の不幸の一つだ。
遅れに遅れて、鈍足一原がゴールした。
「やる気あんのか、あいつ……」
スタート位置に移動の際、すれ違う一原を思いきり睨みつけた。ふらふら、へらへらしやがって。そのくせ結構汗かいてやがる。全力だったのか? まさかあれで?
「位置について」
一旦思考をやめた。運動関係は好きじゃないし諦めている僕だが、無愛想なガリとデブに負けるのは癪だ。測定ということもあり全力を出す必要がある。眼鏡女がトラック外で声援を寄越してくれてるし、格好つけるわけじゃないが、本気でやるのが誠意というもんだろう。
スタートが切られた。僕は先頭に躍り出た。調子がいい。やはり運動も理論が重要なところがあるからな、僕だってそこそこ——、
風を切る音がした。
細い背中が遥か先にあった。
驚いて目を見開いていると、横をずいずいと丸いシルエットが追い抜いていった。ちょっと待て。
小太りは後半スピードを上げ、まさに俊足の典型な細身とデッドヒートを繰り広げた。その様子に愕然としながら、僕は残りの距離を消化しきった。
「お疲れさま」
女子二人が駆け寄ってきた。荒く息をする僕に、八重丸は控えめに笑って言う。
「なんか、籠くんと凛ちゃん似てた」
「はあ!?」
途端にびくついた八重丸の後ろで、「こんなくねくねと一緒なわけない」と一原が言った。
その後の測定は、上位陣の得意不得意でのばらつきはあるものの、五十メートル走と似たような結果になった。砲丸投げもやったが、一原が投げた砲丸はすぐ目の前に落ちた。握力測定にも注目した。彼女は女並みの数値しか出せなかった。それと毎回いい勝負をしていたのが僕だが、今はそんなことはどうでもいい。
「一原、着替える前に少し付き合え」
女子がまず制服に着替える為に締め切られた教室に、僕は入っていった。一緒に廊下で待っている予定だった男子二人も、話を聞く為だろうか、後ろからついてきた。
いち早く脱ぎ始めていた一原は、慌てて体操服を着直す。
「なに……」
「十秒で済む」
机をずらして、彼女の前に合わせた。中腰になって右肘をつく。「腕相撲だ。やり方がわからないなんて言うなよ」
一原は黙って、同じ姿勢をとった。肘をつき、手が触れる瞬間、躊躇が見えた。
手を握り合う。体温の違いを僅かに感じた。睨みつける彼女の身体から、あまり不快じゃない汗の匂いが漂ってきた。
「変態」
「……」
酷い嫌われようだな。初日の件がなかったら、これも笑顔で乗ってくれたのだろうか。そう考えると、少しもったいないことをしたように思える。幼くはあるが、一原は女として外見は優秀だ。
……変な未練を断ち切って、僕は前を睨み返した。
「本気だせよ。八重丸、合図を頼む」
「は、はいっ」
彼女の掛け声で勝負は開始された。握った手に力が込められる。だが、これはまさか……まさかと思ったが、
互角。
「ぐぅぅぅ……!」渾身の力で僕を打ち倒そうとしているらしい一原。対して僕も、余裕がない。気を抜けば一気に押し切られる。
「二人とも頑張って!」八重丸が叫ぶ。
物凄い接戦に見えるが、僕にはわかる。これは底辺の戦いだ。
「一昨日の、実力を、出してみろよ……」
「なにそれ……。よくわかんないし……!」
また罵倒するべきか?
「世の中に価値のないイントラ……。お前の居場所は、どんどんなくなっていくぞ。親だって」
「〜〜〜!」
力が入った。だがこんなもんじゃない。
「僕の親は、エクストラの妹か弟を生んで、今はもう連絡なんてない。お前の家も……」
「違うもん!」
ぐっと押されかかるが、全然、あの時の異常ぶりには足りない。なんでだ。……というか、ここで不測の事態だ。挑発で引き出された力は僅かだが、それにより僕がリアルに負けかかっている。時間がない。
「胸か……!」左手を伸ばした。
「やっ、やだ、やめて! さえまる、先生呼んできてえ!」涙目になって叫ぶ一原。
「異常種イントラは実質治外法権だ。特にイントラ内でのトラブルは実例サンプルとして重宝され、罪に問われることはない」
「最低! 触ったら殺してやる!」
「殺してみろよ……!」勝負をぐっと巻き返した。その勢いで身を乗り出す。
伸ばした左手が、体操服の先端に触れる。
刹那、電撃が走ったような動きで勝負は決した。がすどぉん! という異様な音がした。
鈍い痺れが甲を襲った。事態を理解するより先に、赤面した一原の平手打ちが僕を吹っ飛ばした。
「本気で死んで!!」
ぐらつく視界の中で、言った直後にぶるりと震える彼女を見た。唖然とする八重丸。意識が途絶える直前に目にしたのは、いつの間にか着替えて着席する茶髪女の姿だった。
現在、僕と隣の一原の机は三十センチ離れている。初日はくっついていた。泣かせたことで十センチ離れた。それから彼女が僕に嫌悪を抱く度に十センチずつ離れている計算だ。教壇からの視点だと、一原が列から飛び出しているように見える。板書から振り返った三浦は、何かを言いたそうにして飲み込んだ。一原の言い分を聞いた為だろう。今や僕は教師公認のセクハラ野郎だ。
しかしその甲斐あって、土壇場で発揮される一原凛の力を確認することができた。非常にムラがあるが、集中に伴い実力が出るタイプだ。学習に関しても、興味のある分野だけやたらに覚えがいい。
上手く活かせれば……と考えた。ひょっとしたら今の社会でも、イントラだとしても、彼女を有用とする場面がどこかにあるんじゃないか。その為には多少の変革が必要だろうが、例えば三浦のような人間を上手く味方につければ。
時間はかかるかもしれない。だが、一原の人生は変わるはずだ。どんなに恵まれた家庭環境であっても、そこで自分が荷物になるか否かによる差は無視できない。彼女の信じる「楽しさ」は存続しない。いずれ崩壊する。
何をこんな親身になっているんだとも思うが、これは元天才イントラの意地だ。権利拡大の意識は、堕ちたと共に膨れ上がった。僕の生きる目的は最早これ以外ないと確信する。
さて……。では何から進めるべきか。ひとまず対象との険悪な関係をどうにかするかな。
「一原」
突っ伏して寝ようともせず、こちらに警戒を常に放っていた彼女。動物の挙動で振り向く。
「諸々、すまなかった」体を彼女に向けて、頭を下げた。「僕は、実質国から見放されてここにきた。苛立っていたんだ」
きょとんとした瞳が向けられる。
「色々、優しく話しかけてくれたのにすまない。あんな風にしか返せなくて。僕は欠陥人間だ」
「え、そんな、そんなことないよ」
「身体に何度か触れてしまったのも、そのストレスと性欲が結びついた結果なんだと今は思う。一原……、悪いが、君は少し異性の魅力が強すぎた」
「あ、あえ、えーと……」しどろもどろになった。
素直だな。顔を赤くしてやがる。お前が納得しやすいであろう理由をとってつけてやったが、ここまで効果的だと本気で笑えるな。告白でもして完全に手玉に取ってからの方が動かしやすいか?
すすーっと机がくっつけられた。三度の軋轢はゼロとなった。彼女は僕に同じく体を向けて、「あたしも殴ってごめんなさい!」と頭を下げた。
瞬間、教室は拍手で包まれた。教壇の三浦が率先して、八重丸が涙ぐんで一際大きな音で叩く。無表情の三人も、振り返って拍手を送っていた。
水泳、というのは今は時期じゃないが、考えてみる。あとは個人戦の球技とかか。どちらもやはり駄目だ。干渉波の副次作用が影響するためフェアにはならない。陸上徒競走以外に、イントラとエクストラが対等に戦えるものはなかった。
「走るのは好きか?」
昼食時、一原に訊いてみた。八重丸を含めて三人で机をくっつけて、あとの三人は通常の向きで食事をしているが、その全員が家の弁当持参。僕のみ行きがけに買ったパンという状態だ。そのあたりはあまり気にせず、話を進める。
「き……うーん、好きくないかな」
一瞬、嫌い、と言いかけた。和解によって彼女は言葉を選ぶようになった。こっちは目的の為に仲良くするだけなのに、健気で泣けるな。
「率直に言うと、お前は速くなると思うんだ。やる気さえ出せば」
「私もそう思う」八重丸が乗った。
「で、でぇーもぉー」照れたように一原は語尾を伸ばした。「コモリくんだって遅いし、わかるでしょ! 練習したって麻田さんとかメグミみたくはなれないんだよ」
麻田さん、メグミ……誰を指しているのかはすぐにわかった。一瞬どちらも女かと思ったが。
「あたしと似てるし、わかるでしょ……」
その不本意な指摘を、お前も否定していたのにな。一転好意の材料にしやがった。縋るような目で僕を見てくる。いよいよ別の意味で不安が増してきたぞ。僕は実際お前のようなわけわからん女はごめんだからな。
「似てはいないよ。僕は追い込まれても力は出せない」
少しさみしそうな表情が返された。
「とにかく、先生に相談してみようと思うんだ。もっと体育の、徒競走に重点を置くべき……」
「あげる」卵焼きが弁当の蓋に乗って寄越された。
「あ、私もあげる」八重丸がそこにウインナーを乗せた。カラフルなつまようじも一本刺した。
お礼……、言うべきだ。
「どうも」食べるべきだ。僕はどちらも口に入れた。
一原からブロッコリーが追加された。
「もういいよ、ありがとう」
「うん……なんか」
彼女は俯く。
「伝わってきたよ。あたしに何か、得意なことをさせたいんだなぁって。そしたら無能なイントラじゃなくなるから……。色々考えてくれたんだよね」
「……え、いや」
伝わる、とか、エクストラじゃあるまいし……。
だが、奥に魂胆こそあれ、その想いは間違いじゃなかった。僕の目的は、同じイントラである彼女と無関係にはならない。そういう意味では、確かに同属の、仲間なのだ。
「がんばってみようかな……」
ぽつりと口にした。その言葉は僕に、単に計算が成功した以上の何かを与えていた。
放課になったと同時に、すらりと長い体躯が教室扉に向いた。他に見向きもせず廊下に出ようとするそれを、僕は呼び止めた。
「麻田」
茶髪の女が振り向く。直前に麻田かメグミかで迷ったが、諸々の推理の結果は彼女がそれであると示していた。反応が返されたことが確証となった。一原に一言訊けば済んだ話だが、変に自分の勘を信じたため余計なスリルを味わうことになってしまった。
「今から用事あるか」
「……」
彼女は僕を見下ろしたまま微動だにしない。だが、視線が相手に向くというだけ他の二人よりはマシだ。少なくとも話は通じている。
「一原の走りを見てもらいたいんだ。理論は僕や八重丸でも押さえられるんだが、実際に速い人間の助力があった方がいい」
「……」
じっと見つめたままの視線。自信がなくなってきた。言語を理解できるのか? こいつは。いや、できているはずだが。
彼女の身体が突然に動いた。目の前の僕はお構いなしに、長い脚での前進を再開した。体側面と衝突し、僕はよろけた。
「わっ、コモリ!」「籠くん!」
二人の女子が駆け寄ってきた。「麻田さんは我が道をゆくだからさあ、周りが避けないとだめなんだよ」と一原に支えられる。
「くそ」
教師への進言、また、夜にマンションにやってくる国の研究員に提案するのと平行して、放課後は一原の力を探ろうと考えた。グラウンドが空いていればそこで。通常クラスが使用中ならば裏庭等で。基本に加え先天的なセンスも持っているであろう麻田がいれば心強いと思ったが、そうは上手くいかないらしい。他二人の無言イントラもいつの間にか教室から消えている。本当に、統率がほぼ不可能だな。
にしても……。
「怪我しなかった? 肋骨折れたりとか」
どうでもいいが、一原が馴れ馴れしい。胸に背中にと、ぺたぺた触っては異常がないかを確かめている。……もう少し上を触ってみろ。お前にやられた十円ハゲがあるから。
「コモリ、どこか痛かったら言ってね。傷シール貼ってあげる」
にこりと笑んだ。お前は彼女かよ。呼び方もいつの間にか変わってるし。あのな、言っていいか。ぶっちゃけ、そっちの眼鏡の方が好みなんだよ! 妙に顔はいいけどなお前は、性格というか存在が支離滅裂すぎるんだ。
「なんかラブラブだね〜」なんて八重丸の声が聞こえる。苦笑いするしかないこの状況を作ったのは誰だ! 僕だ! 仕方ないだろ畜生! 意識したのか一原が距離をとりやがった。あーこれはまずい。以降どこかが触れたりする度に顔を赤らめられるんだろうな。
三人運動着に着替え、荷物の類は教室に置いたままグラウンドに向かった。
「一回着た服……。変な気分になるね。あせくさくないかな」
「ははは……」完全に乙女になった一原に目をやらないようにして歩いていると、グラウンドに大勢の生徒がいるのが見えた。使用中か。駄目だな。裏庭に向かうように二人を促した。
学校敷地内中心に位置する中庭と違い、裏庭はイントラクラス所有というイメージが比較的強い場所らしい。好き好んで施設方面に足を運ぶ生徒もいないようで、昼休みなどは気兼ねなく使える。ただ放課後となると通りかかったり寄り付く者もいるということで、練習ができるのは通常クラス放課時刻までの一時間弱だ。
まず、僕と一原が並んで一本走ってみることになった。測定時のタイムは僕が僅かに速いぐらいだったが、普通に逆転が起こり得る僅差だ。まして状況で力にバラつきが出る一原のこと、一度出た結果は意味をなさない。
約五十メートル目算した芝生の中を駆ける。悪い方に予想した通りだった。僕がゴールして三秒差で、一原はへらへらと八重丸の前を通過した。
敵対心が残っていればまだ違っただろうか。考えてみれば彼女が必死になれる理由が今は微塵もない。
「一原、何か欲しいものはあるか」
「ええ?……水かな」
イントラ施設内の自販機で水を三本買った。
走って裏庭に戻った。何をやってるんだ僕は。
次に、フォームのいい八重丸が走って、それを手本とすることになった。八重丸本人の提案だが、正直無意味だと思った。一原の能力はある意味基礎を無視することで成り立っている。反復練習は効果をなすかもしれないが、学習は逆に混乱を与えかねない。まあ今は強く言える立場じゃないし、好きにさせるしかないか。
八重丸が五十メートルを走った。フォームというより胸の揺れしか見えず、僕に混乱を招いたが、まぁ……無意味ではなかった。
「腕の振りでね、身体を前に持っていくの」
説明を始める彼女だが、腕より先に乳が弾んでいる。本人がまったくそれを意識していないことが事態を大きくしていた。「脚もできるだけ高く上げる。すると——」豊かな膨らみが元気に踊る。
「もういい。……服を着ろ」
流石に脱線しすぎる。時間もないし。八重丸は下がらせて、あとは一原一人で走らせることにした。
フォームの差を見ながら、一本、二本。徐々に顔にやる気が宿り始める。汗だくになりながら五本目。
イントラの女は最底辺の職にも就けない。淫売にだって誇りを持った者はいるだろう。それにすらなれない。飼われるだけの生活なら、数年はいい。無為な生に気づいてからが地獄だ。
僕たちは努力できる。理不尽に生まれたことに抗える。戦うだけでいい、一原。強くなりさえすれば。
「もう無理ーーー! あたしばっか汗びっしょり! 帰ろう。帰ってお風呂入る!」
「うん。もう時間だし、籠くんいいよね。また明日にしよう?」
「…………」
「うあっ。コモリがなんか熱い視線で見てくる。や、やっぱ変態なのかな」
「ラブラブだねぇ」
帰り道のアーケードは、時間帯が少し違うだけで全く別の空気があった。目に見えないものを感じられない僕らだが、見えた景色から何らかを推察することはできる。下校する一般生徒が増え始めていた。それも他校の者だ。時間割が違うためか。清瀧校の下校とはギリギリで被らないように校門を出たのだが、あまり意味はなかったな。
エクストラを避けて行動するという意識が、何だかんだで僕の中にはあった。練習のあいだ下校時刻を気にしてそわそわしていた八重丸も同じだろう。
「登校のときはいいんだけどね」
眼鏡の奥の瞳が不安げに揺れる。
「みんな急いでるから。それに人の流れも一定だし」
店前でたむろし、干渉波で繰り広げられるのは雑な会話だ。制服の違う集団のニヤつき具合でわかる。イントラクラスが認知されている清瀧生徒の方が僕たちには良質かもしれない。下校をもっと遅らせるのが得策だったか。
そんなことを微塵も気にしていない様子の一原は、ふらふらとハンバーガーショップに向かって行く。他校生が大勢いる店内へ。
「お腹すいちゃった。ダブル焼肉バーガーのセットをください」
こいつ……食うな。丁度いいか。清瀧生に紛れて下校するのがいいと考えが纏まったところだ。時間つぶしになる。
実声での注文に店員は多少戸惑ったようだが、向こうも一応人間だ。耳と口はある。会計を終わらせ、商品を渡したあとの「ありがとうございました」の言い慣れなさが面白かった。他校生を気にして入店していなければ味わえなかったことだ。
「何でもやってみるものかな」
メロンソーダ片手に僕は席についた。周囲の生徒の視線は気になるが、結局はそれだけのことだ。
「凛ちゃんすごいね。なんか……強いよ」
「あんまし気にしたことない。エクストラとか」
焼肉バーガーを大口で食べた。たれが顔の下半分に盛大に付着した。
「じろじろ見られるけど、それって半分はあたしが可愛いからじゃないかな」
「……まぁ口拭けよ」
一原の両手が塞がっていた為、仕方なく僕が紙ナプキンで口周りを拭いてやった。
「可愛いっていうけどな」初日のような論調にならないよう意識して言った。「結局は中身なんだよ。人と人は会ったそのときで終わりじゃない。関係が続いていくんだ。だから、何ていうかお前は……」
「うん」
また口周りにたれをつけた。ああもう。こいつは矢鱈に可愛い可愛い言われて育ったんだろうな。世界から愛されてると思い込んでる。
「……。まぁ、そのままでいい」
世界を呪った僕とは対極だ。夢見る少女に現実を見せるのは憚られた。
なんだか、友好的にしようという姿勢が僕を根本から甘くしている気がする。
「コモリ、メロンソーダおいしい?」
「まぁまぁ」
「凛ちゃんのは何?」
「えーと、なんだっけ。飲んでみるね」ずずずずずず。「氷」
「早いな!」「早っ!」「入店して五分も経ってないぞ!」
「さえまるのは?」
「アイスコーヒ〜」
「好きだもんね」
「夏っぽい会話だけど、今冬だからな」
「籠くん誰に向けて言ってるの?」
「ね、メロンソーダおいしい……?」
「お前飲みたいんだろ! なら飲みたいって言えよ!」
「べ、べつに飲みたくはないしー」
子供の世話みたいだ。呆れながら、テーブル隅に置いていたカップに手をやった。
だが、指先は空を切った。
視界の端に、落下していくカップと緑の飲料が見えた。
ばしゃん。
「ありゃー。コモリって結構子供だね」
「いや……」
僕は触れてもなかったぞ……。これは……。
「すみません、拭くものもらえますか?」
八重丸が言う間に、僕は周囲を見回した。他校の学生たちは皆一様にこちらを見ている。
最奥の卓に女子高生の二人組がいた。嘲るような視線。くすくすと嘲笑が聞こえる。
……舐めるなよ。わかるんだよ。
床を掃除し終え、一原も食べ終わっていたので、二人に退店を促した。清瀧の生徒がアーケードに疎らにいる。もういいだろう。
「結局喉乾いたんだけど」
「どこかの自販機で買ってやるよ。何で僕が買うのか謎だが」
アーケードをしばらく進み、閉店した呉服店の横に自販機を見つけた。一原はもう心がメロンソーダになったとかで、冬で野外なのに冷たい缶飲料のそれを強く希望した。
「ほら。残しても僕は飲まないからな」
取り出した缶を一原に手渡す。
瞬間、何かに弾かれる感触。
手の中から消えた缶は、中身を撒き散らして頭上を舞っていた。
「ふぇ……」
緑色の雨の中、目の前の女は涙ぐんだ。「そんなに……。そんなにメロンソーダ飲ませたくないの……」
「……違う」
アーケードに目を走らせる。どうやら八重丸は気づいたらしい。同じように通行人を見回していた。
犯人はすぐに見つかった。通り中央のモニュメントに寄りかかる、先程の女子高生二人。嫌な笑みを浮かべている。
「今までこういうことはあったか」
八重丸は首を振った。
「なら僕が狙いだ。二人とも帰っていい」
東京でも数度こういうことはあった。人類が進化しきれていない証明だな。
転がった、穴の空いた缶を見やる。
干渉波の副効果である物質干渉。軽微な念動力と言い換えた方がわかりやすいか。三世紀前、エクストラが爆発的に増え始めた時期に交通や工業設備を一斉に作り替えなければいけなくなった原因がこれだ。今では干渉波制御は、例えばあの自販機でも搭載が当たり前になったし、同じエクストラなら感知相殺ができる。だがイントラに、これを対処する手段はない。
いつの時代でも変わらない、下衆のルールというのが三つある。一つは、誰も見ていないこと。二つ、相手が無防備であること。三つ目、集団であること。学校で堂々とはできない。大抵は帰り道。小さな石を飛ばしたりだとか、服を破いたりだとか。時代が生んだ、念動力いじめの先駆者だと僕は敬愛を込めて当時の相手に言った。返ってきたのは見えない殴打だった。
「男はいないのか。女だけか」
少し声を張って言った。エクストラは聞き取りも慣れていないから、九割方聞き返してくる。明瞭な発音が望ましい。
「はあ?」
案の定だ。女子高生の一人がにやけて首を傾げた。
「仲間はいないのか。お前ら二人だけか」
「はあー?」
「だから仲間は……」
「もっとハキハキお願いしまーす」
「あははは」
大丈夫だ。こういうのにも慣れてる。振り返ると、一原と八重丸はまだいた。髪や服がメロンソーダでべたべただ。誰の仕業か見当がついたらしく、一原はじっと通りの方を睨みつけている。
「僕に用があるんだろ」女子高生に言った。「元天才イントラに」
「うわなにこいつ。つまんねー」
「自意識過剰」
……こ、殺したい。
思わず一歩踏み出した。
足元にあった缶が、そのとき跳ねた。まっすぐ飛んで一原の額に当たった。
「あっはは! てかあいつ可愛くね?」
「可愛い可愛い!」
一原は額を押さえ、涙目で睨みつけた。目を付けられたのは彼女か。さっき店内で。
「すげー睨んできてる。おいでおいで」
「裸にして抱きしめたい! そんで放置したい!」
「殴りてぇー!」
げらげらと下卑た笑い声。
「ええと、モッコリくんだっけ? 最初は君がいたから見てたけど、キモいしもうどーでもいいや」
「コモリくんコモリくん」
「モッコリでいいでしょ」
「うける」
「その子、借りてくから。そこのカラオケまで。明日になったら少し大人しくなってるかもしんないけど、気にすんなよ」
モニュメントから背を離し、二人は近づいてくる。高校生にしてはきつめの香水の匂いが横を通り抜けた。一原は引っ張られて、寄り添っていた八重丸から離された。
「あっ……凛ちゃん……」
乱暴に引かれ、歩かされる一原。僕の横を横切る瞬間、目が合った。
なんだ、僕狙いじゃなかったか。
まぁ、どこにでもある現実だ。早いうちに知っておくのがいい。お前は今まで、綺麗なものに囲まれすぎた。
縋るような視線を、振り切った。
こういう荒療治もいい。何らかのマイナスが彼女の力を引き出すなら、明日には早く走れるようになってたりしてな。逆に無気力になる可能性もあるが、ゼロがゼロに戻るだけだ。イントラに向けられる期待なんて、そんなもんなんだよ、一原。
友好関係は保たれたままだ。あとは適当に彼女の身を案じ、助けようとするポーズを取ればいい。思いがけず全てが上手くいってしまった。メロンソーダで身体中が不快だが、まぁいいさ。
アーケードを通り抜ける風が、濡れた身体を冷やしていった。
「……」
そんなもん、か。
イントラを一番見捨てているのは僕だ。
可能性を信じて動こうとしたのも、自分を慰めるための演技かな。滑稽じゃないか、本当に。
終わっていたんだよ。あの日、〝東京〟から見限られた瞬間に。
いい加減、わかれよ……。
「籠くん……」
泣きそうな顔で僕に駆け寄る眼鏡の女。背後で一瞬だけ一原の嗚咽が聞こえ、すぐ止んだ。口を閉じさせるのは、何気に干渉波の最も有効な使い方だ。
冷たい風が身体を撫ぜる。
……不快だな。
べたつくんだよ。
それに寒くなってきやがった。ふざけんな。
「——————」
気がつけば、声を発していた。僕のとびきりの暴言に、女子高生二人は凄い形相で振り返った。
僕は爽やかな笑顔で言った。
「臭すぎるんだよ。香水ぶっかけたって無駄……。きつい奴はきついんだよなぁ。なんか昂ぶってるなと思ったら、そういうことか。でもそれ、イライラとムラムラを脳が混同してる部分もあるから、まぁなんつーか……処理してこいよ。くくく」
瞬間、空気が揺れた。二人の眼光が意思を持ったように迫り、僕の体を吹き飛ばした。「きゃっ」背後の八重丸も巻き込み、閉店した店のシャッターにぶつかった。
「ざけんな」
「ぶっ殺す」
また何かが飛ばされた。物質干渉した力は、空気中の塵などによって稀に可視化される。僕が見たのは、硬質の糸のようなイメージ。避ける間もなく、金縛りが全身を襲った。
「動けなくなってやんの」
「マジで雑魚だよね。頭もわりーし。こんな奴ら税金で生かしてどうすんの」
二人は近づいてくる。解放された一原が地面にへたり込むのが見えた。どういうわけか、安堵した。これから殴られるのに、心が軽かった。馬鹿げている。損得で言ったら大損だ。それでも、いい気分なのは誤魔化せない。女子高生が目の前に来たときに、思いきり、僕なりの愛を囁いてやった。二人は血管を浮き立たせ、同時に拳を振り上げた。僕は微笑でもって、それを迎えた。
真っ暗な世界に人のざわめきが聞こえていた。無声で会話する現代、滅多にそんなことは起こらない。例えば、そうだな。僕が三歳のときに国からさせられた知能テストで高得点を取ったときの両親の反応とか。高IQ児として一挙注目を浴びた小学生当時に、会見の場に連れ出されて聞いたギャラリーの女共の嬌声とか。エクストラも、突発で何かに遭遇して驚くようなことがあればがやがやと騒がしくなるものらしい。
がやがや、ざわざわ。不快だ。うるさいんだよ。エクストラやこの時代が心底嫌いな僕でも、街の静寂だけは評価しているんだ。黙れよ……。
瞼を開けた。拘束される女子高生二人がいた。
それぞれ右手と左手で首を抱えられ、苦しそうにもがいていた。……? どういうことだ。いつまでも拳が飛んでこないと思ったら。
金縛りで体の自由が効かない為、目だけで見上げた。
茶髪の女がいた。
「や、め、ろ……。は、な、せ……。ぁぅぶくぶくぶく」
女子高生の一人が泡を吹いた。伴って、僕の体は動くようになった。
「なんだお前! お前もイントラかよ!」喚き散らすもう一人を、彼女はパッと手を離して解放する。騒めきたつ通りに投げ出された女子高生は、周囲の視線を見回して悔しそうに舌打ちをした。倒れた仲間を起こして、何度も振り返りながら裏通りへと逃げ去った。
茶髪の女——麻田は無表情で、すらりと長い体を楽に構えたままそれを見送った。
上手い。片方のみを倒すことにより、最低限の負担で事態を処理した。集団でしか強く出れない相手の心理をよくわかっている。
だが、
「なんでいる……」
帰ったんじゃなかったのか。まさかつけていた? 僕たちを? 何の為に。
麻田は僕の言葉に反応した。指をすっと立て、軽く振り返ると、道向かいのカラオケ店を指した。
「あ、あそこにいたのか?」
指は下ろされる。
「一人で……?」
再び僕に向き合う。
一人でカラオケ? イントラにはマイクチューニングもできないのに? なんだかこいつとのやりとりは頭がおかしくなりそうだ。
「八重丸」シャッターと僕に挟まれ、背中にぴったりと張り付いた彼女に言った。「代わりに話してくれ。僕じゃ無理だ」
「あ……うん」
おずおずと出てきて、長身の女と対面する。その間に僕は一原を起こしに行った。
「……あはは。あたし隙を見てあいつら倒そうと思ってたのに」
掻き乱されてぐしゃぐしゃの頭で言う。痛々しい奴だな。
「ああいうのは倒さないでいい。キリがないしな。逃げるくらいが丁度いいんだよ」
一原は俯いて、小さく頷いた。
だいたい、僕のせいだしな。顔が知られていたのも僕だし、この時間まで下校を延ばしたのも僕だ。別に謝りはしないが。
大人しくなった一原を連れて二人のところに戻った。
「今日は一人カラオケの日なんだって。だから誘いも断ったみたい。ごめんね、って」
麻田はカラオケ店の方を見ている。
「……お前には普通に話すのか、こいつ」
「ん? うん。基本は無口だけど」
「たまに話すよね。麻田さん、ありがとう。あたしがこらしめる予定だったんだけどさぁー」
麻田は一原の言葉にこくこくと頷いた。それから小さく手を振って、アーケードを学校側に帰っていった。
商店街の終わり際にあるたいやき屋は、破損部分を応急処置して営業していた。呼び止められたが、一原が満腹ということで断り、それに乗じて僕と八重丸も断った。良くも悪くも味は普通だからな。たまに食べてやってもいいとは思うが。
アーチ屋根が終わると、空は眩い橙の光に染まっていた。しばらくして八重丸が道を外れる。
「私家こっちなの。あ、今度籠くんも呼ぶね」
受け入れられてるな。一応僕は男子で、もう高校生の付き合いなのに。小さなコミュニティだとこんなものか。
いや……イントラならでは、か。他人との距離を、実際に近づくことでしか埋められないから。
「今日は、すまなかった」
結局謝ってるじゃないか。なんなんだ僕は。
「この時間帯がまずいとは思わなくてな。明日からは少し考えようと思う」
「なに言ってんの。コモリのせいじゃないって」
「そうそう」
まあ責任は微塵も感じていないが、今日のようなことが何度も起きるのは困る。放課後を自由に使えないというのは何にせよ痛い。
「簡単に走るくらいだったら、私の家の庭でできるし」
「さえまるのお家でっかいんだよ」
「そ、そうでもないけど……。丁度いいし、明日来る?」
上手い具合に話が進むな。僕は頷いておいた。
「そういうのね、楽しいと思うんだ。だって私たちいつも……ねぇ?」
「うん。特にすることなかったもんね。遊ぶって言ってもひたすらお話したりとか」
だろうな。殆どの娯楽は精神世界にある。僕は知識を得るのに夢中になったが、それだって彼女たちには満足に与えられない。
「しかもいずれ自分たちの為になることなら、やった方がいいし。籠くんには感謝するべきなのかな」
「まだどうなるかわからないぞ。期待するなよ」
成功させるけどな。僕がイントラに生まれた意味があるとすればそれだけだ。確実にやるつもりではいる。
徒競走に限定した、イントラとエクストラの競技大会……。ここまで歩くうちに纏めた考えだ。障害物などのない単純な走力を競う種目は、エクストラの文化が進むにつれて廃れてしまった。今やどの陸上競技も、干渉波を活かしたものが主流だ。当然それにイントラの参加はできないが、競技内容を原始的に戻すなら話は別となる。
残念ながら、今の精神情報社会にイントラの出番はない。学習教育の無駄を説き、できるなら全ての時間割を運動科目に費やせるよう変化を促す。そして僕を除くクラス五人を一流のアスリートと張れるほどに育てる。無茶な話と思うが、そうでもない。現に麻田が測定時に出したタイムはエクストラの障害物走世界記録に迫っている。そこから障害物処理をなくしたところで、走力はそう変わらない。連中にとって干渉波は体機能の一部だからだ。
実質これはハンデを設けた戦いだ。しかし本来の人としての在り方に則った勝負とも言える。一部には、エクストラでありながらエクストラ文化を拒む者もいるし……現社会では危険思想のようなものなので、その方に直接訴えかけるわけにはいかないが、賛同を全く得られなくはないということだ。
夕暮れの路地に八重丸を見送った。他はどうか知らないが、彼女はエクストラに生まれていれば何不自由なく暮らせていただろう。それくらいまともで、害のない性格だと思う。
一原と二人で歩き出す。こいつはこいつで、将来に危ういイメージしか感じない。何とかして、イントラが全力で打ち込めるものを作らなくてはいけない。そして……認められなくてはいけない。
「コモリ、さっき助けてくれた」
家の前で一原は僕に向き直った。
どうやら僕は身を挺して彼女を守ったことになっているらしい。まあそんな感情もあったし、当然だな。
「だから大体が僕のせいで……。しかも一度は見捨てようとしたんだぞ」
待て僕。何故自分が不利になるようなことを言う。
「でも目を付けられたのは結局あたしじゃん? 助けてもらったのも間違いないしさぁ」
「それでいいならそういうことにしとけよ」
嘆息混じりに言った。どうも彼女たちの前では背伸びした対応をしてしまう。嘘をつくべき場面でも、正直な言葉が口をつく。だがそれが受け入れられているみたいだし、まぁいいとするか。
「……コモリの、親ってさ」
彼女なりに気を遣ったような間が伺えた。
「別に暮らしてる」
「そ、そう。一人暮らし?」
「まぁ。国の支援はあるけど」
一原の視線は、自分の影や家の塀を行ったり来たりして、僕にはなかなか向かない。どういう目をするか決めかねているらしい。
「おい」
びくんと顔をはね上げた。
「親なんてうるさいだけだろ」
「あ……、うん。だよね。そうだよね」
そうして一原は家のことを喋り始めた。あたしんちなんかさぁ、こないださぁ、学校から帰ったらさぁ、ホットケーキが作ってあったんだけどね、それを……。
「はいはい」
あと昨日かなぁ、部屋に勝手に入られてね、勝手に片付けられてて、あたしめちゃくちゃ怒ったんだけど、多分今日も入られてるんだよね。散らかして学校行っちゃったから。でもね、それってどうなの。あたしの部屋なんだから散らかすのもあたしのさぁ……。
「どうだろな」
コモリの部屋って綺麗なの?「まぁそれなり」朝ってなに食べる?「パン」あ、東京ってどんな感じだったの? ビルとかいっぱい?「そこそこ」
そんな風な問答をして、辺りが大分暗くなった頃、一原がぶるっと震えて腕を抱き摩ったのを合図に解散をした。
「よく喋る奴……」
ほとんど街灯のない路地を歩く。今の社会に余分な灯りは必要ない。人類は視覚や聴覚に頼らない力を手に入れた。
「ついていけないんだよ。三倍あいつが多く喋ってたじゃないか」
言語も不要。外国人とも齟齬なく通じ合える世界。独り言を言いながら、足元を気にして歩く僕は異質だ。
何かに行き詰ったときは、よくこんなことを考えた。イントラなんて滅びるべきなんじゃないか。生まれたこと自体が間違いなんだ。無に戻るべきなんじゃないか。だってそうだろ。鏡に映る自分を見て思った。こんな顔をして生きている奴がいるか。
だけどその鏡というのもいくつもあって、どうやら運命を呪って生きているのは僕だけらしい。非常に不可解だが、あいつらはよく笑う。
抗うのもいいかもしれない。そう思えたのは今日があったからだ。
マンションに着いて、二階への階段を上る。いるだろうとは思ったが、案の定スーツの女が部屋前に立っていた。
「お帰りなさい」
「悪い。ずっと待っていたんだろ」
鍵を出して開錠する。
「仕事ですので」
ドアを開いて、僕だけが玄関に入る。女にはここで応対をすることになっている。踊り場から風が吹き付けてくるが、仕方ない。
「ここは夏は涼しいんですけどね。難しいです、家というのは」
僕より年上だが、若い女だ。黒髪で、一つ結びにしたそれが風で揺れる。中に入れよと思うが、これが僕と国の人間との距離だ。
「人類の進化によって、建築などの発展は止まりましたからね。まぁ既に頂点にあったという考えもありますけど、こうなった今では確かめようがないです」
その割に関係のないお喋りは多い。これは彼女個人の性格によるものだろう。僕の雑学として吸収される部分もあるので嫌じゃないが。
「それでは」と居住まいを正して、僕に目を合わせる。
「籠くん、今日は如何でしたか」
「普通かな」と僕は答えた。
「クラスの子を泣かせませんでした?」
「仲良くなったよ」
それからエクストラの女子高生に絡まれたこと、クラスメイトの介入で切り抜けたことを話した。
「……」
時々視線を宙にやり、どこかの記録媒体に情報を書き記すような仕草。
彼女はナカシマという。名乗られたわけじゃなく、研究機関でそう呼ばれるのを何度か聞いただけだ。どう書くのかもわからない。こうして会話によってデータをとるのは、東京の頃からの夜の習慣だった。国から見放されても、彼女だけは僕についてきて、一人暮らしのバックアップをしてくれている。
「へぇ。今日は色々あったんですね」
「もっと色々あったけどな。全部は話さないよ」
「話してくれないと困ります」
「黙秘できるのがイントラの特権だ」
「……ふぅん。クラスの子と接近したとかでしょうか。籠くんはどちらの子が好みなんです? 隠そうとするということは、そういうことなんでしょう?」
ナカシマは玄関の向こうから興味深げに訊いてくる。「どうなんです? こっそり教えてください」
今は、この距離が縮まらないかって思ってるよ。
いや、それは東京にいた頃からずっとか。
「……だんまりか。まぁいいです。じっくり聞き出すのが私の仕事ですから。早く心を開いてくれることを願ってます」
ナカシマはにこりと笑った。びゅうと風が吹いて、彼女の髪を乱した。
「最後に、何か必要なものがあれば言ってください。食材は足りていますか? 日用品は?」
——足りないものだらけだと思う。
「一つだけいいか」
「なんです?」
——それでも、少しでも近づけるのなら。
「機関のトップと話す機会を設けてほしい」
不敵に笑む僕を見て、ナカシマは何を思っただろうか。彼女がどんなに進化した人類であろうと——、
気づくわけがない。僕の根底にある、このくだらない動機には。