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「サンキュ」
『グラン・ブルー』の本とリカのカードを受け取って、僕はとりあえず礼を言った。
春日は少しうなずいただけ。さっきまで話していたことなんか忘れた様子で、背中を向けて、カウンターの中に積まれている本の整理にかかろうとする。
「あのさ」
その背中が今度ははっきりそっけなくて、突然彼方に放り出された気がして、つい、声をかけた。
春日がくるりと振り返る。声をかけるのがわかっていたような仕草だ。
「……さっきの、どういう意味?」
ためらったけど、思い切って尋ねた。
春日は再び捉えどころのない不思議な瞳で僕を見つめてから、ゆっくりと視線を落として僕の手の『グラン・ブルー』を見た。
つられて、一緒に本の表紙を見る。
深い青。
目から先に飲み込まれていきそうな。とんでもない深さまで引きずり込まれていきそうな。
その感覚にぐうっと引き下げられた胃の中身が、今度は酸っぱいものを含んで上がってきて、僕はあわてて目を上げた。
春日はいつの間にか、本から僕に目を移していた。緑がかった茶色の瞳が、心なしか、同情のようなものを浮かべている。
「君には、深すぎる」
柔らかな低い声が言った。
「何がさ、本だろ、たかが」
ふいに、秘密を探り当てられたような不安が襲って反論した。なのに、裏腹に、背中をぞくりとした妙に気持ちいい波が走り上がる。
春日は知っている。
そんな声が胸の中で響いた。
春日は知っている、僕が恐れていることを知っている。
待てよ。
僕は自分で自分を食い止めた。
何を考えてる?
だが、それはことばの内容をはっきりさせただけだった。
声は続いてこうつぶやいた。
僕が何を恐れてるって?
「君は、知っているはずだ」
絶妙のタイミングで、そのやりとりを聞いていたように春日は答えた。
ひやり、とした。
テレパシー?
ひょっとして、何かのトリックだろうか。
それとも、霊が見えるとか、守護神のお告げとか?
茶化してふざけて考えたつもりだったのに、体の底から震えが走って、もう少しで『グラン・ブルー』を春日に投げつけそうになった。
春日がまたゆるゆると瞳を伏せた。僕の動揺を見抜いたように、
「それに、夢の話も、あまりしない方がいい」
「盗み聞きしてたのか!」
顔に血が上った。
「ここは静かだったからね」
春日はたじろぐふうもない。
「嫌な奴だな」
吐き捨てて図書室を出た。胸が苦しく、うまく呼吸ができない。頭がくらくらして吐きそうだ。体が小刻みに震えている。
怖いんだ、と改めて気がついた。
僕は春日が怖いんだ。
でも、なぜ?
もういい、さっさとここから逃げ出そう。
沸き上がりかけた疑問を押し殺して急ぐ自分に、一瞬だけリカの姿が重なった。
リカも同じか?
リカも僕が怖かった?
なぜ……?
聞くまでもない。
そこに、真実があったから。
くらりとめまいがして、よろめいた。
開けてはいけない扉が、『今ここでは』決して開くはずのなかった扉が、春日の瞳に見つけられ、開かれてしまった、そんな感覚。
図書室から降りて行く階段の果てが、一階の廊下ではなく、どことも知れない灰色の、わやわやと怪しげな影の漂い行き来する世界へ続いているみたいだ。
緩んだ手から『グラン・ブルー』が落ちる。妙にゆっくりと階段を転がり落ちていきながら、表紙の青を広げる。階段の窓から差し込む春の光が、煙るようなスポットを本に当てて浮かび上がらせる。
それは、南米にいるという大きな青い蝶のようだった。
ゆるやかな羽ばたきが、学校の真ん中で、穏やかな真っ昼間に、深い森のただ中に迷い込んだ僕の運命を導くように、舞い降りていく。
僕はあやふやな一歩を踏み出した。
もう後戻りはできない。
そう、わかった。




