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「ごめんね、遅くなって」
「ううん」
ヘタなドラマの待ち合わせよりも安っぽいやりとりをして、声をかけてきたリカを僕は見上げた。どちらからともなく、くすくす、と笑う。放課後の図書室。
五月の日差しは窓を通り抜けると、どこかぼんやりとして覇気を失ってしまう。それが浮かんだ細かな埃に当たって、部屋の中を光らせる。
キラキラと、キラキラと。
光っているのは、僕の向かいに座って、うつむいて教科書を覗き込んでいるリカの長い髪。少し眉をしかめた顔の伏せたまつげ。柔らかそうなふっくりとした頬のうぶ毛。
「で、どこがわかんないの?」
おどけたようにつぶやいて、ひょいとこちらを見る、リカのつやつやした唇にあわてて顔を伏せる。唇が、とても、おいしそうな果物に見えたから。
「えーと、その、問三」
かすれた声をごまかした。
「問三? これなら、中学でやったよ」
「うん、たぶん」
僕はいいかげんにうなずく。
「でも、覚えてなくて」
「五月からこれじゃ後々きついんじゃない?」
「ホントだよね」
軽く受けると、リカに睨まれた。きらっと光ったきれいな目にほれぼれする。でも、惚けた顔を見せられないから、急いでシャーペンを握り締めて、
「だから、助かります」
ちょっとだけふざけて、でもほどほど真面目に、ペコンと頭を下げて見せた。
中学のとき、同じクラスの女子に『かわいい』と言われたことのある仕草をあえて強調してやって見せる自分がいて、うんざりする。
「ホント?」
リカは眉を上げ、少し唇を噛んでから、僕に顔を寄せた。甘い勾いがすぐ間近で漂って、心臓が派手に跳ね上がる。
「嘘、でしょお」
目を細めて、リカはうっすらと笑った。
「え?」
「問三できなくて問五できるわけないじゃん」
しなやかそうな指が、書き込みのあるページをつついた。
リカは頭がいい。
答えられなくて黙り込むと、
「嘘つき、嫌いだよ」
軽く突き放すように言った。
冗談だろうと思ったけど、胸が澱んだような不安に塗りつぶされて、
「ごめん」
あわてて謝る。
「でも、理由聞く間、怒るの、待ったげる」
リカは小さく笑った。
「どうして、嘘つくの?」
とがらせた唇が濡れてピンク色。そのままふわりと開いて僕を誘ってくれそうで、またドキドキする。
「あっ…あの」
話したくて。
できるだけいっぱい、話したくて。
でも、付き合い始めたばかりの僕とリカの間には、盛り上がれる話題がなかなか見つからない。「うん」と「ううん」で終わってしまう会話がつまんないなんて、リカが初めてだ。
僕はそっとつぶやいた。
「声…聞きたくて」
口に出した瞬間、みるみる顔が熱くなるのがわかった。本音だから。
でも、言うんじゃなかった。
次の瞬間、リカがたじろいだふうに目を逸らせ、「ふうん?」と本棚を見上げたから。
本音は話しちゃいけない。
そんなこと、人付き合いの鉄則なのに、どうして忘れちゃったんだろう。
「…なんて言うと、いいカンジ?」
へへっ、と笑って見せた。
リカがほっとしたように僕を振り向いて、きゅ、と片目をつぶって見せた。
「イイね」
よかった。
胸の奥でため息をつく。
忘れて下さい、今のセリフ。
僕は何にもなかったように、肩をすくめて説明した。
「ホントはさ、問三、隣の奴にきいたんだ。そいつが問五も解いてくれた。けど、今日の宿題は問八より後。わかるだろ?」
リカはこくんとうなずいた。
「解けない、ね」
「そう、解けない」
リカの声にかぶせてうなずき返す。皆様向けに仕立てた声音と口調を並べていく。
「問三は何とかわかるけど、問五はだめ。だから、問三から教えてほしかったんだ」
「わかった」
リカはうなずき、ゆっくりと問三を解きながら説明してくれた。
気持ちいい声。唇から出てるっていうより、体中から漂ってくるみたい。フェロモンに誘われるってのはこういうことなのかな。カーッとして、ドキドキして。ワーッと我を忘れるっていうより、体も心もそれに溶かされて浸されて、僕の輪郭さえもなくなってしまうみたいな。
「…と、いうこと。わかった?」
「うん、わかった」
よく、わかった。僕は、リカに取り込まれてもいいって思ってることが。
僕は嘘つきかもしれない。たぶん、嘘つきなんだろう。ごまかしていることがいっぱいある。
「何か、夢、見てるような顔してるね」
「夢?」
「うん」
リカはふふふ…と笑って、突然、
「和樹クン、繰り返して見る夢ってある?」
「え」
ごきん。
心臓がいきなり、陶器製のおもちゃになったように、鈍い音をたてた。
「繰り返して、見る、夢?」
途切れそうになることばを必死に続ける。
頭の中に、赤い丸、黄色の三角、青い四角が、蛍光色で点滅する。パブロフの犬みたいに実験で条件づけされて、それを見ると涙がにじむようになってでもいるのか視界がゆがんで、あわてて目を伏せた。荒くなりそうな呼吸を悟られまいとして殺す。
リカはそんな僕に全然気づかない様子で、ことばを継いだ。
「夢ってね、けっこう意味があるんだって。眠っている間のわけわかんない物語じゃなくって、その人にとって、何か、大事なことを暗示してるんだって」
あのおかしな夢が、僕に何かを暗示している、だって?
そんなことはわかってる、と言いそうになって唇を引き締める。
あの夢を見るとき、家族はいつも居間で互いを責め言い争って揉めている。そして、そのあちこちからぼんやりと、家族の中の不都合な出来事の原因は僕がいるからだという結論が立ち上がってくる。家族が感じる不愉快なできごとはみんな、僕が引き起こしていると思っているのに、それをわかってないふり、気づいていないふり、そして、僕にはそれを隠しているふりをしている。
何重にも重なって、何が本当のことだかとっくにわからなくなってしまった現実。
「そんなこと…あるのかな」
干涸びた声を絞り出した。
「ねえ?」
リカは目を細めて笑っている。
「夢にもし、意味があるとしたら、あたしのなんて、どう考えてもわかんないよ?」
「何か、同じ夢を見るの?」
自分のことから話題が逸れて、僕は急いでリカの話にのった。
そうしながら、教科書の上に両手を広げて押さえつけ、リカを笑顔で見る。手を緩めると、そこにはないけど、どこかには書かれている、丸や四角や三角が、まるでCGのように教科書から立ち上がって、今この図書室で、あの鬼ごっこを再現しそうな気がした。
大丈夫、大丈夫。
両手に力を込める。
押さえつけていれば問題はない。
何も起こっていない。
ただの夢の話だよ。
胸の中で呪文のように繰り返す。
「うん、それがねー、ひっどいの」
あはっ、とリカは乾いた笑い方をした。
「白雪姫がさ、襲ってくるんだ」
「白雪姫?」
「うん、ディズニーの。あのアニメそのまんまのがね、真っ黒い背景の中から急に襲いかかってくるの。それも七人の小人を連れて、だよー」
「へえ」
間抜けた声だとは思ったけど、どう答えていいのかわからなかった。
リカはいったい何が言いたいんだろう。




