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この道を
いつか歩いたことがある
同じように躓いて
同じように迷いながら
地図もなく
導きもなく
たった一人で歩いた
でも違うんだろ
前にはお前が居るんだろ
まばゆすぎて見えないだけで
お前は待っててくれるんだろ
ああ、またあの夢だ。
すぐに気がついた。
恐怖の夢。
和樹ぃ、と暗い声で呼ばれるより、襲われたり殺されたりするのより、そして、怪物や幽霊が出てくるよりずっとずっと怖い夢。
その夢が『来る』時には、すぐにわかる。辺りが重い。単に光がなくて暗いというのではなく、こちらの心まで侵してくるような、どんよりとした闇の気配。
やがて、塗り潰したような墨一色の視界に、ぽうと小さなあかりが灯る。
始めは黄色。
柔らかくて明るい光は次第にきつさを増していって、横断歩道で早く渡れと急かす信号機の刺激的な点滅になる。
光は三角形を作っている。それが遠くにたたずんでいる。『面白いこと』を待っているように。
その側に、赤い丸い光が灯る。チカチカと瞬く、踏み切りの赤。
とんでもない間違いを犯しているのに気づかない、そう嘲笑う。
最後に青く輝く四角形が加わると、鬼ごっこが始まる。
僕は逃げ出す。
できる限り精一杯の早さで、腕を振り、脚を高く上げ、地面を蹴りつける。
顔に風が強く当たって痛い。
なのにいつも、心臓の音も呼吸の音も聞こえない。思い切り蹴っているはずの足音さえも。
口はカラカラだ。胸は破れそうに痛んでいる。手足だってこれ以上速くは振れない。
けれども、べっとりと静まり返った世界には何の音も響かない。
必死に手足を動かしながら、体ごと濃密な空気の中を突き進みながら、けれどもそれらの感覚をすべて裏切って、僕のまわりの世界はとても静かで虚ろだ。
ひょっとして、僕は逃げてなんかいないのか?
走っていたり逃げていたりしているのは、そう『思っている』だけなのか?
本当は、僕は、バーチャル・ゲームのように、部屋の中でえへらえへらと笑いながら、幾つもの装置を体につけて『逃げている感じ』を楽しんでるのか?
そこまで考えて、ようやく気がつく。
自分が青くぎらぎらと輝く四角形の線の上だけを、ただただなぞるように走っていることに。
そう気がついても、道を変えようなんて思わない。
暗闇に描かれた青い四角形の上だけが安全な道、僕が走ることを許されている場所なんだ、と思うだけ。僕はいつも、とても律義に角を一つ、また一つと曲がっていく。
周囲にはがらんと開けた、暗い、けれども広大な空間の気配があるけど、それを決して見ないようにして。そこへは絶対走り込まないようにして。
そして。
後ろからは、光る黄色の三角形と燃える赤の丸が、蛍光色のようにきらめきながら、とても楽しそうに、えへらえへらと笑いながら、追いかけてきている。
僕は喉に詰まった塊のような悲鳴を押し出し、押し出し、押し出し続けて、やがてひきつったように笑い出す。走り続けていて声がうまく出ない、続かないんだ。だから悲鳴が笑い声のようにひきつけて聞こえるんだ。そう言い訳する。
いや、そうじゃない。
僕はいつの間にか本当に泣きながら笑っているのだ。
機械のように決まり切った道を逃げ続けながら、その実、心の中では身動きもできずに死んでいくから。
けれど、周囲の誰一人として、そんな僕に気づいてくれないから。
いっそ、このまま走りながらでもいい、身体も心も砕け散ってばらばらになってくれれば、追っ手は僕を見失って逃げ切れるかもしれないのに、それはきっと許されない。
泣き叫びながら、笑い続けながら、僕は暗闇の中を走り続ける。がくがく震え出す足、揺らめく視界。止まりたい、止まりたい、止まってすべてを終わりにしたい。
けれど、それはあまりにも怖くて。
たとえようもなく怖いことで。
目を一杯に見開いて、真っ暗な世界を見つめながら、ふいに確信する。
僕は、もう、だめなんだ。
びくっ、として、やっぱり起きてしまった。
呼吸音が聞こえる。
はあっはあっはあっはあっ。
夜中の暗い部屋の中で、いろんなことに疲れ切って、そのくせそういうことにだけは敏感な、やり場のない欲望を持て余したオッサンみたいに。そして、必ず泣いている。
涙のせいで、辺りがゆがんでうまく見えない。乾き切った喉から掠れた泣き声が零れている。顔はべたべたに濡れている。心臓が全力疾走を果てしなく繰り返した後みたいに打っている。
このまま止まればいいんだ。一瞬、息を止めて、破裂してしまいそうな胸の痛みに目を閉じて思う。
ベッドの中で死んで固くなってから、朝になって起こしに来た誰かが見つけてくれればいい。
見つけてくれない方がイイけど、そんなふうには放っといてくれないだろう。
そして、みんな、噂する。
へえ、あの、和樹君があ。
どうしてかしらねええ、何の問題もなさそうに見えたけどねええ。
わかんないもんねええ、最近の高校生ってええ。
苦しさに我慢できずに息を吐く。
そう、わかんない、はずです。僕が何を背負ってるかなんて。だから、せめて、放っておいてください。
僕は空想の中の弔問客を怒鳴りつける。
せめて、黙って静かに眠らせてください。僕は十分がんばったから。
目を閉じていると、だんだん呼吸がおさまって、涙も止まってーー毎日のことだから、涸れもする--心臓もおとなしくなった。とっても残念だけど。
そして、そうすると、いつものように、階段の下の方から声が聞こえる。
ああ、やっぱり『やって』るのか。
あれがあると、必ず夢を見る。同じ夢を。
逃れられないと思い知らされてから目が覚める夢を。
よせばいいのに、僕はベッドから起き上がって、部屋のドアを細く開け、また、下から響いてくる声に耳をすませたりする。
「かな子さん、だいたい、あんたの和樹のしつけはなってないよ、この間だって、『がんばって勉強おしよ』といってやったら、『何のために』っていうんだ。何て言い草だろう! 人の好意がわからないんだよ、あの子は。情ってもんがないんだ。人がどれだけ傷つくかなんて、考えてやしない。あれだけ思いやりがない子に育ったのは、やっぱり親のやりようだと思うんだよ」
都おばあちゃんのきりきりして険を含んだ大声がはっきり響いた。
「和樹は……と…」
語尾が薄らぼけていてよく聞こえないボソボソ声は父さんだ。
「おまえは父親としてちゃんとやってます! 悪いのは和樹だ。あの子は変わってるよ。人の気持ちってのがわからない。私がどれだけあの子に気を遣ってやってるのか、わかんないんだよ」
都おばあちゃんが決めつけると、母さんの甲高い声が噛みついた。
「じゃあ、お義母さんは全部あたしのせいだっていうんですか! 和志さんが叱らなきゃいけないところを叱りきれない、そんな弱いところがあるから、和樹が甘く見るんです!」
「和志のせいにしようってのかい! しつけっていうのは、母親がするんだよ!」
都おばあちゃんが間髪いれずにわめいた。
「時代が違います! 今は父母が協力してしつけるっていう時代なんですよ! それも、男の子じゃありませんか、父親が叱れないものを、どうやって私ができるんです!」
「まあ……その…もう少し……和樹も受験で…大変だったし……イライラしてたんだよ……これからはもっと…」
「でも、和樹はね!」
「だいたい、和樹は!」
父さんの弱々しい声は、ほぼ同時に響いた都おばあちゃんと母さんの叫びに飲み込まれてしまった。
和樹が。
和樹が。
夜ごと繰り返される喧嘩の種は、そうです、いつも僕です。




