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断罪直前の悪役令嬢、領地の税帳を読み上げただけで王子派閥が崩壊しました  作者: 花守りつ


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届いていない夜を数えます

北方軍糧受領札の裏には、細い字で六つの地名が並んでいた。


 第一見張り小屋。

 第二見張り小屋。

 西尾根狼煙台。

 凍河橋番所。

 古い渡し小屋。

 そして、昨夜ようやく薪が届いた第三見張り小屋。


「六件の未受領、ですか」


 財務卿が声を落とした。広間に残っていた貴族たちの衣擦れが、そこでぴたりと止まる。


 私は首を横に振った。


「いいえ。六件の夜です」


 数字だけなら、帳簿の行は薄い。

 けれど、北方地図の上に置いた瞬間、それは薄くなくなる。


 第一見張り小屋の欄には、薪束二十、乾燥肉四袋。

 第二見張り小屋の欄には、灯油三瓶、凍傷薬一箱。

 西尾根狼煙台の欄には、火口布五枚、狼煙粉一包。

 凍河橋番所の欄には、靴油三壺、替え紐十二本。


「こちらが夜番の手です。こちらが足です。こちらが、戻ってくるための明かりです」


 私は銀の紙押さえを、地図の北へ一つずつ移した。


 紙押さえは王都夜会の招待状を留めるために用意されたものだった。薔薇の細工が、暖炉の光を受けてきらめく。その下で、北方の小さな点が一つずつ隠れた。


「薔薇で押さえると、見えなくなりますね」


 誰かが息を呑んだ。


 ミリア様は、両手を胸の前で組んだ。


「でも、慰問の式典は兵たちを励ますためのもので……。薔薇飾りも、北方の方々への敬意として」


「敬意は、夜を越せません」


 私は穏やかに言った。怒鳴る必要はなかった。怒鳴ると、帳簿の声が聞こえにくくなる。


「第一見張り小屋の夜番は、薪束二十で二晩を越す予定でした。届いていなければ、火を小さくするか、交代の仮眠を削るしかありません。第二見張り小屋は灯油三瓶が届かなければ、帰還札を読む明かりが足りません。西尾根狼煙台は火口布がなければ、狼煙粉だけ持っていても知らせを上げられません」


「ま、待て」


 王子殿下の側近が、ようやく声を上げた。


「式典倉庫へ移したのは、一時保管だ。北方へ送る前に、王子府で検品するためで――」


「検品済みの印はどちらに?」


 私は受領簿を一枚めくった。


 そこには、王子府式典倉庫の朱印がある。

 その隣に、ローゼン装飾商会の控え番号がある。


「検品済み、と書かれています。ですが生活到達欄は白紙です。第一見張り小屋の誰が薪を受け取ったのか。第二見張り小屋の誰が灯油を夜番棚へ入れたのか。西尾根狼煙台の誰が火口布を乾いた箱へしまったのか。凍河橋番所の誰が靴油を帰還靴棚へ戻したのか」


 私は一行ずつ指でなぞった。


「どこにもありません」


 財務卿が、低くうなずいた。


「王子府で検品された、ということは、王子府で止まったという意味にもなる」


「止まったのではありません」


 私はまた首を横に振った。


「止めたのです。少なくとも、帳簿の上では」


 広間の空気が冷えた。


 ユアン卿が一歩進み出た。北方の風に焼けた手が、凍河橋番所の点の横で止まる。


「凍河橋は、夜に靴底が凍る。靴油がなければ、橋板に足を取られる。見回りの者は、戻ってから油を塗る。塗れなければ、次の夜に滑る」


「一壺で何人分ですか」


「三人の靴を二晩分。三壺なら、橋番全員が交代まで持つ」


 私はその言葉を、生活影響明細の空白へ書き入れた。


 凍河橋番所――靴油三壺――橋番全員二晩分――帰還条件。


「これは装飾費ではありません。帰るための油です」


 ミリア様の頬が青ざめた。


「わ、私は、そんな細かいことまでは……」


「細かいことを、夜は待ってくれません」


 私は、王子府式典倉庫の控え番号に視線を戻した。


 番号は、ローゼン装飾商会の薔薇飾り箱に付いていたものと同じだった。


 写し番号、七二の三。


 父の印影が押されかけた白紙明細にも、同じ番号が薄く残っている。


 けれど、私はまだ父の名を読み上げなかった。


 本人が何を読んだのか。

 誰が、どの生活影響を説明したのか。

 どの机で、どの夜が薔薇に変えられたのか。


 そこを飛ばしては、また誰かの名前が、便利な印箱にされる。


「財務卿」


「何かね、アシュベリー嬢」


「第三見張り小屋だけを処理済みにしないでください。六件すべてを、生活到達未完了として保留してください。王子府式典倉庫、ローゼン装飾商会、そして公爵家印影欄の三つを、同じ番号で照合します」


「北方軍糧監査として扱おう」


 財務卿が言うと、広間の奥で王子殿下が椅子を鳴らした。


「そこまで大げさにする必要があるのか。たかが薪と油だ」


 ユアン卿の目が、静かに細くなった。


 私は地図の上の薔薇細工を一つ持ち上げた。下から、凍河橋番所の小さな黒点が現れる。


「たかが、とおっしゃるなら、殿下」


 私はその黒点の横に、靴油三壺と書いた。


「今夜、橋番が帰れるかどうかを、殿下のお名前で保留にしてよろしいですか」


 王子殿下は答えなかった。


 答えない沈黙も、帳簿には残る。


 私は白紙明細の右上へ、青い保留線を引いた。


 生活到達未完了。

 届いていない夜、六件。

 写し番号、七二の三。


 その番号の下に、まだ誰の机とも書かれていない小さな欄があった。


 ――王子府式典倉庫、奥帳簿室。


 私はそこで初めて、次のページをめくる手を止めた。


 奥帳簿室。

 そこは、王子殿下の側近だけが鍵を持つ部屋だった。

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