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デイダラ  作者: ヒロユキ
3/6

デイダラ 3

 しかし、あるときだった。


 僕が彼女を見る目が一変する事件が起こった。

 それは、月に一度生徒だけで行われる定例の図書委員会議のこと。全員が会議テーブルの周りに座り、議題が、返却期限を超過した本の回収方法から、三ヶ月に一度行われる本棚整理の当番に移ったときだった。

 僕から見て、一番離れたテーブルの角に座っていた男子生徒二人が突然に立ち上がり、互いに罵りあいながら、取っ組み合いを始めたのである。

 がたん、と派手に椅子がひっくり返り、積んでいた本が崩れ、むわっと埃が舞い、場は騒然とした。

 一体全体何がこの二人の熱き闘争本能を駆り立てたのかは知らないが、とにかく、僕は巻き込まれないようにとその場から数歩退いた。

 昔から争いごとは嫌いだった。

 人と人が殴りあったり、罵りあったりすることは、テレビや本で間接的に触れた表現ですら、嫌悪した。どうして、こんな風に人と人は争うのだろうと思う。だって、殴られれば痛いし、馬鹿にされれば気分が悪くなる。なんて言っても怖いし、見ているだけで寒気がするのに。

 対峙し、目をぎらつかせた二人を見て、僕は足が竦んだ。緊張で、頭が痛み出す。

 と、その時、誰かが僕の袖を引っ張った。


「ちょっと、弥一やいち君」


 見ると、麻衣子だった。


「え?」


 彼女は騒動が起こっている方を指で差した。


「あれ、放っておくつもり?」


 僕は身構えた。

 まさか、自分に止めに入れと言い出すのだろうか。

 確かに、彼女の性格からしてみれば、こういういざこざが起こった場合、まず見過ごすタイプではないだろう。真っ向から難局に立ち向かい、自らの豊富な経験を生かし、場を丸く治める。が、しかし、そこで自分を差し向けるというのは、大いにお門違いで、問題外で、想定外だった。


「無理だよ、僕が殴られるだけだって」


 僕はシュレッダーに突っ込まれる紙を想像した。自分が彼らの間に割って入ろうものなら、たちまち成す術も無くぼこぼこにされ、結果は見るも無惨ということは目に見えている。

 しかし、彼女はきょとんとしてこう言った。


「何よ。誰もあなたに止めに入れって言ってないわ」

「は?」

「ほら」


 そして、彼女は部屋の壁の方を指差すと、とんでもないことを口にした。


「あなた、あそこの窓から飛び降りなさい」


 僕は目を瞬かせた。冗談だろ?


「何を言って――」

「だから、あそこの窓から飛び降りて、それで地面に無傷で着地してみて」

「はあ……」


 これにはさすがの僕もほとほと呆れた。目の前で喧嘩の最中だというのに、何を寝言を言っているのだろう。やんちゃな子供じゃあるまいし。いくらなんでも、こんな状況で、いきなり三階の部屋(会議場所である図書室は三階にあった)から飛び降りろ、挙句の果てに無傷で降り立てなどとは、常人が行う思考の範疇にはないことは確かだった。


「何で今、そんなことを僕がしなくちゃなんないんだよ」


 しかしながら、そんなことで取り乱したりしない皆も恐れる低血圧な僕は、彼女をなだめるように訊いた。


「間違いなく怪我をするし、意味も分からないだろう?」


 しかし、彼女は表情をぴくりとも崩さない。


「そうね、確かにその通りかもしれない。でも、やってみせてよ。喧嘩を止めるにそうしてみるのもいいと思うの」

「いったいどういう理屈だよ」


 これにはさすがの僕もお手上げだった。


「だから、皆が驚くようなことをするのよ。ありえないこと、奇跡を起こすのよ。そういうことをするの。そうすれば、喧嘩なんてどうでもよくなって、すぐに止めるわ」


 彼女は目をきらきらとさせている。

 僕は絶句した。

 確かに、ここでいきなり僕が窓から飛び降りるなどというキチガイ染みた行動に出れば、喧嘩どころではないだろうが……。

 しかし、それには見合わない代償がつく。


「仮にそうだとしても、僕が怪我するだろ!」

「だから、無傷で落ちるのよ」


 彼女は淡々と返した。


「どこぞのサーカス団員か、僕は!」


 ついに堪りかねて、僕は大声を出し、麻衣子の手を振りほどいた。きゃっ、と彼女が悲鳴を上げる。

 そんなことをした自分に驚きつつも、彼女に対してもびっくりしていた。

 もっと頭のいい子だと思っていたのに。

 こんな風にわがままで、他人にむちゃくちゃなことを言う子だとは、とんだ女の子だった。住んでいる世界が違うという言葉があるが、まさに、僕と彼女はいろんな意味で世界の違う人間だったのかもしれない。


 金を持つ者と持たざる者。

 有名と無名。

 活発と根暗。

 僕の常識は彼女の非常識、彼女の常識は僕の非常識。

 鏡の中を見ているような、まごうことなき正反対。


 彼女にそれまで僕が抱いていたただただ高貴なイメージがばらばらと瓦解していく。

 と、彼女はまだ諦め切れないのか、椅子から立ち上がり、僕の頭を掴んだ。


「いいから、落ちてみなさいよ!」


 僕は一瞬ひるむが、


「嫌だ! 自分で落ちろ!」


 と言い返した。

 いくら相手が女性とはいえ、こんな風に乱暴されて、黙っているわけにもいかないと奮い立ったのかもしれない。

 そして、彼女の手を再び払った。すると、彼女はバランスを失い、尻餅をついて倒れこんだ。ひらりとスカートが舞い、危うい場所が見えそうになった。


 さすがにこれはやり過ぎだっただろうか。僕は少し後悔した。また何か怒鳴られるかもしれない。数歩さがる。


 しかし、

 しかし、彼女は何も言わず、払われた手をじいっと物珍しそうに見つめている。彼女の手は、ちょうど僕がは払った部分が赤くなっていた。彼女の瞳が、それをまるで生き物であるかのように、捉えている。ずっと、見ている。


 もしかすると、彼女はそんなことをされた経験がなかったのかもしれない。僕はそう考えた。

 何しろ、父親が大企業トップのお嬢様として育てられていたのだとしたら、周りが彼女に対して怒ることも無く、過保護になるのも頷けるというものだ。


 すると、ようやく我に帰ったのか、


「痛いわねえ!」


 赤くなった掌を握り締め、彼女は再び僕に向かってきた。こうなれば後には退けない。来るものなら来てみろ、と僕はファイティングポーズを取る。しかし、彼女はそんなものもろともせず、腕を伸ばし、僕の頬を思い切りぶった。

 視界が揺れ、星が散って、ふらふらと腰砕けに僕は倒れた。


「が、ぐう」


 視界がくらむ。涙が滲んだ。

 痛みを堪えて立ち上がりながら、僕はいったい何をやっているのか、と今さらながら思った。すぐ隣では別の喧嘩が繰り広げられているというのに、そちらに止めに入らないばかりか、どうでもいいことで、それほど親しくも無い女子と殴り合っている。

 馬鹿げていると思った。

 とんでもなく、馬鹿げている。

 今すぐにこんなことは止めるべきだ。

 しかし、


「ふっ、ざけんな!」


 僕は叫んだ。なぜか、もう止まらなかった。体がどうしようもなく熱くなり、いつもなら僕を静止するはずの理性のストッパーも外れていた。

 きっと、こんなことを叫んだのも生まれて初めてだった。

 拳を振り上げる。

 そして、僕は生まれて初めて、他人を殴ろうとし――。


 が、その拳は振り下ろされることはなかった。


「え?」


 腕が動かない。見ると、知らない間に、後ろから、近くの男子生徒に腕をつかまれていたのだ。

 はっとした。

 僕は周囲に首を巡らす。先ほどまで喧嘩していた二人が視界の端に見えた。彼らはもはや殴り合ってはおらず、両手をだらんと垂らして、僕らの方をじっと見ていた。加えて、他の皆の視線もこちらに釘付けだった。

 全員が全員、ぽかんとした表情で僕らを見ていた。

 その瞬間、僕の視界が青紫色になり、さっと血の気が引くのが分かった。僕と麻衣子は目を合わせ、それから、二人して、無言で頭を下げた。


 その後、案の定、僕と彼女は教師から説教を受けた。職員室に呼び出され、何度かぺこぺこと頭を下げた。

 僕と彼女が喧嘩したという事実を知ると、教師は目を丸くしていた。おそらく教師にとって僕は誰かと喧嘩をするような血気盛んな男の子、という風にはみえていなかっただろうし、彼女にしたって、誰かと殴りあうようなお転婆な女の子、とは見えていなかったに違いない。

 教師は腕を組み、とりあえず、という雰囲気でああだこうだ、喧嘩をすることがいかに不毛で馬鹿らしく無益なことかを当たり障りない感じで語りだした。

 とにかく、それが僕にとって生まれて初めての教師からの説教だった。

 ふふ。初めてづくしのあの日。今思い出しても、苦々しい。

 けれど、あのときの僕は、特に悪い気持ちじゃなかった。

 胸の中に意味不明で、理解不能な清清しさが生まれていて、教師を見ないで、

 窓の外の、

 どこまでも、

 どこまでも続く、

 あの青い空を見ていた。

 そして、時折、教師がコーヒーを啜るのにあわせて、僕と麻衣子は目を合わせて何度も笑った。なぜなのかは、わからないけれど、そうしていた。

 あれは、本当にとても不思議な体験だった。


 それから――。

 雨降って地固まるとはよく言ったものだが、僕と彼女はまさにそれだった。

 あの唐突で、波乱の殴り合いがあってからというものの、僕らは一緒に過ごすことが多くなった。授業合間の休み時間、昼食時間、掃除時間、放課後の下校時。いつも一緒にいた。


 誰かが、僕たちが付き合っていると、噂した。

 でも、別に、僕らの間にあるものは、好きとか嫌いとか、そういう感覚ではないと二人とも分かっていた。上手く表現できないが、心の深いところで、お互いに認め合っている部分があるのだと思う。ふいに雨や風が強くなったときに隠れる秘密の避難所を、共有しあっているような気分だった。


 そして、そんな僕と彼女の関係は大学生になった今でも続いている。

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