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カロリーゼロだと思っていた恋が、人生を変えていた話

作者: ミケ

 ジムのカウンター越しに、僕は新しい会員の女性を見ていた。

 名前は美咲みさき。三十代半ばくらい、丸顔で、笑うと目じりがくしゃっとなるタイプだ。受付での第一声がこれだった。


「お金払ったのに、全然痩せないんですけど!」


 まだ入会して二週間。

 僕はタオルで汗を拭きながら、笑顔を保つのに苦労した。


「えっと、美咲さん。週に一回来ていただくだけだと、正直ちょっと厳しいかもしれませんね」

「えー、でも、私、通ってますよ?ちゃんと来てるし!」

「この二週間で、二回ですけどね」

「ほら、来てるじゃないですか!」


 彼女は胸を張った。確かに「ゼロ」ではない。けれど、そのまま動こうとはしなかった。


 僕は何も言わず、タオルを畳んだ。

 彼女の言葉と、器具の冷たい感触だけが、やけに現実的だった。


「これ、今日のごはんです!」


 美咲がスマホを差し出してきた。

 写真には、カフェのランチプレート。チキンソテー、ライス、ポテトサラダ、そして大きな抹茶フラペチーノ。


「すごく美味しそうですね」

「でしょ?でも、これね、ドーナツも食べたけど、ドーナツって穴が空いてるじゃないですか。だからカロリーゼロなんですよ!」

「……はぁ」


 もはや、どこから突っ込めばいいのか分からない。

 僕は「なるほど」とだけ返した。それ以上、言葉を足す気になれなかった。


「でも、先生、私ほんとに頑張ってるんですよ。夜はお菓子食べないし!」

「そうですか。じゃあ、明日の朝、体重を測ってみましょうか」

「うん、絶対減ってるはず!」


 次の日。

 結果は前日より+0.8kgだった。


「なんでぇ!? おかしい! 私、昨日抹茶フラペチーノしか飲んでないのに!」

「えっと、抹茶フラペチーノって……結構カロリーありますよ」

「でも、抹茶だから健康でしょ!」

「……抹茶味なだけです」


 彼女は悪人じゃない。むしろ明るくて憎めない。

 ただ、「努力」と「変化」の関係を、まだ実感していないだけだ。

 僕はそのズレを、どう埋めればいいか考えながら、トレーニングを続けた。


「じゃあ、今日はスクワットやってみましょうか」

「え〜、筋肉痛になるのイヤです〜」


 結局、その日はストレッチだけで終わった。

 トレーニングウェアは綺麗なままで、

 彼女は満足そうに「今日も頑張りました!」と言った。


 僕は笑顔を作る。


「お疲れさまでした。また来週ですね」

「はい!来週はちゃんと頑張ります!」


 その「ちゃんと」は、決まって口約束に終わる。


 ---


 夜、ジムのカウンターで、僕はトレーナー仲間に愚痴をこぼしていた。


「美咲さん、また筋トレサボってストレッチだけで帰ったよ」

「うわー、あの人? SNSで“筋トレ女子なう”って投稿してる人でしょ?」

「……そう。ストレッチ中の写真撮って、“今日も限界まで頑張った”って書いてる」

「それもう、才能だね」


 僕たちは笑った。けれど、心のどこかで引っかかっていた。


「でもさ、なんでこういう人ほど、“変わりたい”って言うんだろうな」

「うーん……そういう人ほど、何か足りない気がしてるんじゃない?」

「なるほどな」


 ——人の体を変えるより、自分の心を変える方が、ずっと難しいのかもしれない。


 僕は天井の蛍光灯を見上げた。

 たぶん、彼女にとって“ジムに通う”という行為そのものが、自己肯定だったんだろう。

 実際に変わることよりも、「頑張ってる自分」を確認したいだけ。

 そう思えば、あの笑顔にも納得がいく。


 でも――。


「いつか本気になる日が来れば、ちゃんと支えてあげたいな」


 そう小さく呟いた自分に、少し驚いた。


 ジムを出ると、夜の風がひんやりと肌を撫でた。

 美咲の笑い声が耳の奥に残っていた。

 あの無邪気な「ドーナツはカロリーゼロですよ!」という言葉。

 もしかしたら、あの軽さの裏に、変わりたいけど変われない痛みがあるのかもしれない。


 そう思った瞬間、僕の胸の奥で、何かが静かに動いた。


 ---


 三週間目に入っても、美咲の体重は1ミリも動かなかった。

 正確に言えば、増えては減り、減っては増え、スタート地点をふらふらしている。


「ちゃんとやってるのに痩せないんです!」


 今日も彼女は、開口一番それを言った。もはや挨拶のようなものだ。


「昨日は何を食べました?」

「えっと、夜は豆腐とサラダ。それと、ポテチをちょっとだけ」

「ちょっとってどのくらいですか?」

「袋の半分……かな。あ、でもコンビニの小さいサイズだから!」


 僕は笑顔を保ちながら、心の中で深呼吸した。

 ポテチを食べてる時点で、豆腐もサラダも帳消しである。


「トレーナーって、忍耐力いるよね」


 夜、同僚の結城がぼそっと言ったことがある。

 そのときは「まぁね」と軽く返したけれど、最近はその意味を実感している。

 人が“変わる”瞬間に立ち会う仕事というのは、ロマンがある。

 だが、その前には「変わらない日々」という、長くて地味な山道があるのだ。


 ---


「じゃあ、今日はベンチプレス、軽めでいきましょうか」

「え〜、腕太くなっちゃうからイヤですぅ」

「じゃあスクワットは?」

「お尻大きくなるからイヤですぅ」

「……じゃあ、何ならいいですか」

「ストレッチ!」


 毎回この調子で、トレーニングの時間はいつの間にかストレッチ教室になっていた。

 鏡越しに、僕の顔が引きつっているのが見えた。


「亮さん、なんか顔怖いですよ」

「いえ、全然」


 笑顔を引き締める。営業スマイルというやつだ。


「トレーナーさんってさ、みんな筋肉すごいですよね。何食べたらそうなるんですか?」

「食べないこと、ですかね」

「ひえ〜! ムリムリ!」


 彼女はそう言ってケラケラ笑う。

 その笑い方が憎めないから、余計に困る。

 真面目に叱る気も失せるし、説教しても右から左へ抜けていくのが分かっている。


 美咲がトレーニングを始めて一ヶ月。

 体重は増加。本人のモチベーションは下降。


「ねぇ亮さん、私ってやっぱり向いてないのかな」

「何に、ですか?」

「ダイエットとか、筋トレとか。根性がないんですよ、私」

「誰だって最初はそうですよ」

「でも、亮さんはすごい。努力の人って感じ」

「僕も昔は、何も続かなかったですよ」

「ほんとに?」

「うん。だから、美咲さんも“まだ始まってない”だけです」


 口ではそう言ったものの、正直、もう辞めるだろうなと思っていた。

 この手のタイプは、“努力の前”で止まる。

 でも、去り際に彼女がぽつりとこぼした言葉が、妙に耳に残った。


「亮さんって、優しいですね。私、怒られるとすぐ泣くから……助かります」


 それは、どこか防御のための笑顔に見えた。

 僕はそのとき、初めて“この人は何かから逃げてる”と感じた。

 食事管理でも筋トレでもなく、自分自身から。


 ---


 ある夜、僕は帰り際のジムで一人、器具の片づけをしていた。

 壁の時計は22時を回っている。

 シャワー室の方から、笑い声が聞こえた。

 美咲だ。まだいたのか。

 どうやら友達と通話しているらしい。


「え〜、だってさぁ、トレーナーに“筋肉痛は頑張った証拠”とか言われても、

 痛いもんは痛いじゃん? てか、あの人マジ真面目すぎて怖い〜!」


 僕は息を止めた。

 聞いてはいけないものを聞いた気がして、タオルを握る手に力が入る。

 ……まぁ、客が陰で文句を言うなんて日常茶飯事だ。

 それでも、心のどこかがざらついた。


 彼女の声の奥にある“笑い”が、どこか自分を笑っているように聞こえたからだ。


 翌週、美咲は予約をすっぽかした。

 LINEを送っても既読がつかない。


「やっぱり辞めたか……」


 そう思っていた矢先、翌日の昼過ぎにメッセージが届いた。


 《昨日はすみません!体調悪くて寝込んでました!》


「体調悪い」と言いながら、添付されていた写真はパンケーキタワーだった。

 ふわふわのホイップにメープルがたっぷりかかっている。

 僕はスマホを見つめたまま、無言で画面を閉じた。


 もう、諦めるしかない。

 トレーナーが全員を救えるわけじゃない。

 本人に“変わる理由”がなければ、何を言っても響かないのだ。


 その夜、僕は珍しくプロテインではなく、缶ビールを開けた。


「変わる理由、か……」


 天井を見上げながら呟いたその言葉が、

 のちに、あの劇的な転換点につながるとは――

 そのときは、まだ知らなかった。


 ---


 その日、美咲はジムのドアを開けた瞬間から様子が違っていた。

 いつもより早い時間、いつもより軽い足取り。

 そして、目がやたらとキラキラしている。


「亮さん! 聞いてください!」

「おはようございます。どうしたんですか?」

「私、推しができました!」


 僕は思わずダンベルを落としかけた。


「……え?」

「推しです! アイドルの! “天城レオ”くんって言うんです!」


 名前を聞いてもピンとこない。だが、彼女のテンションだけは明らかに異常だった。


「ファンミーティングがあるんです! 抽選で当たるかもって! でも、今の私じゃ恥ずかしくて会えないから……本気で痩せようと思って!」


 そう言って拳を握る。

 その目にあったのは、これまで見たことのない熱だった。

 半信半疑で「わかりました」と答えたけれど、内心では(どうせ三日で冷める)と思っていた。

 けれど、僕はその“誤算”を、まさか翌週には思い知らされることになる。


 ---


「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」


 美咲は定刻ぴったりに現れた。

 髪をひとつにまとめ、トレーニングウェアも新調している。

「今日から本気モードなんで!」と笑うその姿は、冗談ではなく本気に見えた。


 ウォーミングアップからして違った。

 いつもなら開始5分で「疲れた〜」と休憩するのに、今日は黙々とこなしている。

 フォームを直すと「はい!」と素直に反応し、重いバーベルにも食らいついた。


「いい感じですよ、美咲さん!」

「ほんとですか!?」

「はい、その調子です!」


 汗が頬を伝い、息が荒い。それでも笑っている。

 “きっかけ”とは、こんなにも人を変えるものかと、僕はただ驚いていた。


 日を追うごとに、美咲は変わっていった。

 ある日、LINEに届いた写真は、コンビニのシュークリームだった。

 《今日だけ、です!》

 その翌日、彼女は誰よりも早くジムに来て、何も言わず、黙々とバーベルを握った。


「先生、昨日初めてフラペチーノ我慢できました!」

「それはすごいです。偉いですよ」

「でもちょっと寂しくて……代わりにコンビニのシュークリーム食べちゃいました」

「いいんですよ、少しずつで」

「うう……亮さん優しい……!でも天城くんはもっとストイックなんです!」


 また出た、推しの名前。

 僕は軽く笑って返した。その笑顔は、ほんの少しだけ、うまく作れていなかった。

 僕がどれだけ言っても動かなかった彼女を、見たこともないアイドルが一言で動かしてしまったのだから。


 けれど、それでいい。

 誰かの理想が、誰かの現実を変えることもある。

 それでいいのだと、そのときは思った。


 ---


 三ヶ月が過ぎた。

 美咲の体重はマイナス8キロ。体脂肪率もぐんと下がり、

 周囲からも「別人みたい!」と言われるほどの変化だった。


「亮さん、私、変わりましたよね!」

「ええ、本当に。努力の結果です」

「最初の私、ひどかったですよね」

「……まぁ、ちょっとだけ」


 二人で笑った。


 夜遅くまでトレーニングしたあと、彼女は鏡を見つめていた。

 そこには、以前のような無邪気な笑顔ではなく、何かをやり遂げた人間の顔があった。


「天城くんに会える日が、楽しみです」


 その言葉は、祈りのようだった。

 けれど僕には、その祈りの奥に、“今度こそ自分を裏切らない”という強い意志が見えた。



 半年後。

 彼女はボディメイク大会に出場した。

 目的はアイドルに会うための自己改革だったはずなのに、気づけば本気で挑戦していた。


 ステージに立つ美咲は、自信と輝きに満ちていた。

 トレーニングを積み重ねた体は、美しいというより“強い”と感じた。


 結果は――グランプリ。


 名前が呼ばれた瞬間、僕は声をあげた。

 壇上の美咲が、泣きながら僕の方を見ていた。


「亮さん! ありがとう!」


 ステージを降りてきた彼女を、思わず抱きしめた。


「よく頑張りましたね……本当に」

「亮さんがいなかったら、私、ここまで来れませんでした」


 涙でぐしゃぐしゃの顔が、あの日の“カロリーゼロ”発言をした彼女と重なった。

 僕も気づけば、目頭が熱くなっていた。


 会場のライトが眩しい。

 拍手の中、僕はただ立ち尽くしていた。

 彼女がここまで来た理由のうち、 自分は、いったい何割を占めているのだろう。

 そんなことを考えてしまう自分を、 少しだけ、嫌いになった。


 大会後、美咲は静かに言った。


「天城くん、当たりました」

「え?」

「ファンミーティング。来週、行ってきます」

「それはすごい!」

「うん。でもね、今は、会えることよりも……ここまで頑張れた自分が嬉しいんです」


 それを聞いた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。

 目の前で見届けられたことが、僕にとって何よりのご褒美だった。


 ---


 グランプリを獲ったあとも、美咲はトレーニングを続けていた。

 目標を達成して燃え尽きる人が多い中で、彼女は珍しく継続していた。


「せっかく手に入れた体型を、簡単に手放したくないんです」


 そう言って笑う顔は、あの頃の“言い訳ばかりの笑顔”とは別人だった。


 ファンミーティングにも無事に参加したらしい。

 後日、スマホを見せてくれた。


「ほら、天城くんとツーショット!」


 写真の中の彼女は、白いワンピース姿で満面の笑みを浮かべていた。


「緊張しましたけどね、でも、自信持って会えました!」

「よかったですね」


 そう言いながら、僕は胸の奥に温かい何かを感じていた。


 人は、変わろうと思えば本当に変われる。

 それを見せてくれた彼女に、僕は心の底から敬意を抱いた。


 ---


 それからの数ヶ月は、穏やかだった。

 トレーニングも、笑いも、ルーティンのように続いた。

 だが、季節が秋に変わった頃、美咲がぽつりと言った。


「亮さん、私、ジムしばらくお休みしようかなと思ってて」

「……どうしたんですか?」

「仕事が忙しくなるのと、ちょっと彼氏ができたんです」


 その言葉に、胸がざわめいた。

「それは……おめでとうございます」

 笑顔を作りながらも、喉の奥に苦いものが残る。


「なんかね、彼、私が“頑張りすぎてる”って言うんですよ。もう十分綺麗だから、無理しないでって」


 “十分綺麗”か。

 その言葉が彼女をどこへ導くのか、僕には想像できなかった。



 最終トレーニングの日。

 美咲は、いつも通り明るく現れた。


「亮さん、今日で最後かぁ。寂しいですね」

「ええ。寂しいです」


 そう言いながらも、いつものメニューを淡々とこなした。

 スクワット、ランジ、最後に腹筋。


 彼女は苦しそうに息を吐きながらも、

「最後までちゃんとやるって決めたんです」と笑った。


 トレーニングが終わると、彼女は汗だくのまま、鏡の前に立った。

「ほんとに……変わったなぁ、私」


 その横顔を見ながら、僕は思った。

 人は、自分の努力で輝ける。

 その証明が、今ここにいる。


「亮さん、本当にありがとうございました」

「こちらこそ。指導できて光栄でした」

「これからも頑張ってくださいね。私も、自分の人生、ちゃんと動かしていきます」


 その言葉を最後に、彼女は去っていった。

 白いトレーナー姿の背中が、ジムの自動ドアの向こうに消えていく。


 その瞬間、胸の奥が少しだけ空洞になった。


 人を送り出すたび、自分のどこかが少しずつ削れていく気がする。

 それでも、それがこの仕事なのだと思った。


 ---


 しばらくして、ジムの受付に彼女からの手紙が届いた。

「亮さんへ」とだけ書かれた封筒。

 中には短いメッセージと、グランプリのトロフィーを抱いた笑顔の写真が入っていた。


 “私、あの頃は逃げてばかりだったけど、亮さんが信じてくれたから、変われました。

 だから、これからは、誰かを信じられる人になります。”


 その文字を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。

 彼女が僕にくれたのは、感謝以上の何か。

「人を信じる勇気」そのものだった。


 僕はその手紙を、デスクの引き出しにそっとしまった。

 今も時々取り出して読み返す。

 新しい会員に出会うたび、

「この人も、いつかあのときの美咲みたいに変われるだろうか」

 そう思いながら、僕はトレーニングメニューを組む。


 ---


 そして、2年の月日が流れた。


 美咲のことは、たまに思い出す程度になっていた。

 SNSで彼女を見かけることもなくなり、

「あの頃は夢みたいだったな」と、

 まるで過去の映画を振り返るような気持ちでいた。


 だが、人生はときどき、意地悪なタイミングで再会を仕掛けてくる。


 休日の午後。

 駅前のカフェでコーヒーを飲んでいると、

「……亮さん?」と声をかけられた。


 顔を上げた瞬間、時が止まった。

 そこに立っていたのは、美咲だった。


 振り向いた瞬間、あの日の記憶が一気に甦った。

 トレーニングルームで汗を流していた姿。

 “天城くんに会うために頑張ります!”と拳を握っていた笑顔。

 そして、ステージで泣きながらグランプリを受け取った彼女――美咲。


 だが、今目の前に立っている彼女は、あの頃の面影をかすかに残しながらも、

 ふっくらと柔らかく、まるで別人のようだった。


「……久しぶりですね」

「ね! 二年ぶりくらい?」

「そうですね。元気そうで」

「うん、めっちゃ元気!」


 その“元気”という言葉が、彼女の丸みを帯びた輪郭を肯定しているようで、僕はうまく笑えなかった。


 駅前のカフェに入り、向かい合わせで座った。

 カップを持つ手が、かつての細く締まった腕ではない。

 でも、彼女は楽しそうに話し続けた。


「亮さん、ジムまだやってるんですか?」

「ええ、相変わらずですよ」

「懐かしいなぁ〜。あのとき、本当に死ぬ気で頑張ったんですよ」

「覚えてます。美咲さん、誰よりも努力してました」

「うそ、そんなこと言ってももうトレーニングしないですよ?」


 冗談交じりに笑うその表情は、やっぱりあの頃と変わらない。

 変わったのは、たぶん、体だけだ。


「大会のトロフィー、まだ飾ってるんですか?」

「もちろん!あれ、家宝です!」

「そうですか。それはよかった」


 美咲はカップを置き、少し照れくさそうに微笑んだ。


「でもね、亮さん……実は、また太っちゃったんですよ」

「……まぁ、少し」

「“少し”じゃないですよね〜」と笑う。


 僕は苦笑いするしかなかった。

 あれほど苦労して手に入れた身体を、なぜこんなにも簡単に戻せるのか。

 理屈ではわかっている。モチベーションがなくなれば、人は元に戻る。

 それでも、やっぱり残念だった。


「実はね、彼氏ができたんです」

「そうなんですね。それは、おめでとうございます」

「うん。でもね――彼、ぽっちゃりした女性が好きで……」


 その瞬間、時が止まった。


 “ぽっちゃりした女性が好きで”。

 まるで漫画のオチみたいなセリフを、目の前で言われるとは思わなかった。

 僕は口を開けたまま、何も言えなくなった。


「だから、ダイエットももう卒業かなって」

「……そうですか」

「ね、人生って面白いですよね! あんなに頑張ってたのに、今は彼のために食べてる!」


 あっけらかんと笑う美咲。

 その笑顔は、以前よりもずっと柔らかくて、

 どこか“幸せ”という言葉が似合っていた。


 会話が一段落したあと、僕は静かに尋ねた。


「後悔、してませんか?」

「ううん、全然。あの時期があったから、今の私があるし。あんなに必死になれたの、人生で初めてでした。写真、まだスマホに残ってるんです」


 そう言って、少し照れくさそうに笑った。

 その姿を見て、僕の胸の中にあった小さな苛立ちは、ゆっくりと溶けていった。


 人は、目的が変われば、生き方も変わる。

 あのときの“美しくなりたい”という願いは、

 いま、“愛されたい”という願いに変わっただけのこと。

 どちらも、きっと間違いじゃない。


 別れ際、美咲が言った。


「亮さん、私ね、あの頃の自分も好きなんです。苦しくて、泣きながら頑張ってたけど、“ああ、私にもこんなに頑張れる力があったんだ”って知れたから」

「それは、素晴らしいことですね」

「うん。でも今の私も、結構好きですよ。だって、好きな人に“可愛い”って言われるの、最高ですから」


 駅の改札口で手を振る彼女の後ろ姿を見送りながら、僕はふっと笑った。

 トレーナーとしては失敗かもしれない。

 でも、一人の人間として、彼女は幸せそうだった。

 それなら、それでいいのかもしれない。


 夕暮れの街を歩きながら、ふと思った。

 あのときの美咲の努力は、確かに消えてしまったように見える。

 けれど、あの時間があったから、彼女は自分を好きになれたのだろう。


 僕にとっても同じだった。

 あの数ヶ月は、ただの指導の時間ではなく、

「人が変わる瞬間」を信じられた貴重な時間だった。


 カフェの窓ガラスに映る自分の顔が、少しだけ笑っていた。


「ぽっちゃりした女性が好きで、ね」


 思わず、ひとりごちて笑ってしまう。


 人生って、本当にうまくできている。

 努力しても報われないこともあるし、報われた努力が、すぐに別の形に変わってしまうこともある。

 それでも、あの瞬間に流した汗も涙も、確かに誰かを前に進ませていた。


 ジムの看板が、夜の街に浮かんでいた。

 “Change your body, change your life.”

 僕はそれを見上げながら、何も考えないことにした。


 夜風が少し冷たく感じたけれど、不思議と心は穏やかだった。

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