8) 囁きと微笑み
夜気が濃く沈む廊下。
蝋燭の明かりに照らされながら部屋へ戻ろうとしたとき、静かな声が背後から落ちた。
「──お嬢様」
振り向けば、黒衣の執事が一礼していた。
ルイス。幼いころから屋敷に仕え、無駄口を叩かないことで知られる男。
その冷ややかな瞳に、ただならぬ光が宿っていた。
「……何かしら」
私は動じないふりをして微笑む。
彼は一拍置き、低く告げた。
「庭園で感じられた視線。あれは気のせいではありません」
背筋が僅かに震えた。
「……あなたも、気づいていたのね」
「ええ。昼間から影が動いておりました。お嬢様の“力”に反応している者がいるのは確かです」
冷静すぎる声に、胸がざわつく。
私は唇を吊り上げ、わざと軽く返した。
「だから何だと言うの? 私を捕らえて、今度は見世物にでもするつもりでしょうか」
「そうならぬよう、手を打ちます」
そう言って頭を垂れるルイスの姿は、忠実な影そのもの。
けれど同時に、その言葉は私を縛る鎖のようにも感じられた。
◆◆◆
「監視だと?」
夜更け、ライオネルに報告すると、彼は眉を寄せた。
「ルイスがそう言ったのか」
「ええ。あなたも気づいていたのでしょう?」
「もちろんだ。だが……彼が直接お前に伝えたのは意外だな」
「忠告のつもりなのでしょう」
私は淡々と答えつつも、カップの中の紅茶がわずかに揺れているのを見逃さなかった。
「……自由を奪われるのはごめんですわ。たとえ守るためだとしても」
皮肉を込めて言えば、ライオネルは真剣な目でこちらを射抜いた。
「違う。お前を縛るためじゃない。お前が自分の足で歩くために、俺も、ルイスも動いている」
その言葉は、なぜか胸の奥に痛みを残した。
自由を願っていたはずなのに。
誰かの存在が、その自由をかえって強く実感させていく。
◆◆◆
その頃。
屋敷の外れの林に潜む影たちは、ひそやかに囁き合っていた。
「やはり……聖力は現実に存在した」
「対象は公爵令嬢セレナ。観察を続けろ。だが、ルイス・クロフォードがいる限り、下手には近づけん」
その名に応じて、暗闇がわずかにざわめいた。
彼はただの執事ではない──王国でも指折りの諜報に通じた家系の男。
セレナの知らぬところで、静かな攻防が始まりつつあった。
◆◆◆
私はまだ気づいていない。
完璧すぎて感情がないとまで言われた自分を巡って、
忠実な執事と、口うるさい幼馴染と、そして見えぬ敵とが、既に動き出していることを。
それでも私は、気高く微笑む。
「──滑稽ですわね」
そう呟きながら。
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