(5)氷
んーロマンス
氷点下の体温、沸点越えの感情
記玄官第二倉庫の空気は、常にひんやりとしている。膨大なデータを処理するサーバー群が発する熱を、強力な空調が絶えず冷やし続けているからだ。
その一角、無数の記録が眠るアーカイブ室で、氷室梓は腕を組んで立っていた。
「――で、用件はそれだけか? 霜月」
ぶっきらぼうな口調で問いかけると、目の前の男――霜月凪は、データ端末から顔を上げた。色素の薄い銀髪、血の気を感じさせない白い肌。幻滅官と同じく身体のラインがくっきりと出るスーツを着ているが、彼が着るとまるで精巧な彫刻のようだ。
「はい。君が担当した事案『UN-202X-C』の関連資料の提出依頼。これで全てです。ご足労いただき、感謝します」
淡々と、凪いだ海のようなアッシュグレイの瞳で梓を見つめる。その表情は、同期だった頃から何も変わらない。
「…別に、お前のために大阪まで来たわけじゃねぇ。こっちにも別の用事があっただけだ」
そっぽを向きながら言う梓に、霜月はかすかに口元を緩めた。そして、音もなく立ち上がると、近くの保冷ボックスから何かを取り出す。
「合理的ですね。でなければ、幻滅官のエースである君が、わざわざ一記玄官に会いに来る理由が存在しない」
「……」
「ですが、長時間の移動は肉体に負荷をかける。糖分補給は、疲労回復において有効な手段の一つです。どうぞ」
差し出されたのは、コンビニで売っているごく普通のカスタードプリンだった。
「なっ…! なんでプリンなんだよ!」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。梓が甘いもの、特にプリンに目がないことは、組織内でも数人しか知らないはずの秘密だ。
「この第二倉庫周辺の店舗における、過去3年間の商品販売データと、君の過去の消費傾向を照合した結果、これが最適解だと判断しました」
「お前…記玄官の権限を何に使ってやがる…!」
「情報とは、活用してこそ意味があるものです」
悪びれもせず言い切る霜月に、梓は顔を赤くしながらも、乱暴にプリンをひったくった。
「…食う! 食えばいいんだろ!」
蓋を開け、プラスチックのスプーンを突き刺す。甘い香りが鼻腔をくすぐり、強張っていた肩の力が少し抜けるのを感じた。
一口、二口と食べ進めていると、ふと、霜月の冷たい指先が梓の右手にそっと触れた。
「…っ、何すんだよ」
「少し、熱が高い。…また無茶をしましたね、梓」
彼の声は平坦なのに、そこには確かな咎める響きがあった。平熱23.5℃の彼の手は、まるで氷のようで、任務の興奮で火照った梓の肌には、その冷たさが驚くほど心地よかった。
「うるせぇ。仕事なんだから当たり前だろ」
「その『当たり前』が、君の消耗に繋がっている。私の分析では、君は自身の許容量を超えて行動する傾向が87%の確率で見られます」
「うっせぇな…」
憎まれ口を叩きながらも、梓はその手を振り払わなかった。むしろ、その冷たさを確かめるように、自分の指をそっと絡める。
霜月の指が、ぴくりと微かに動いた。
「…お前の手は、相変わらずだな。真夏に触っても凍えそうだ」
「体温の維持は、生命活動において非効率な点が多い。私の場合、これが最も安定した状態ですので」
「知ってるよ、そんなこと…」
プリンを食べ終え、空の容器を机に置く。だが、繋いだ手はそのままだった。
沈黙が落ちる。遠くでサーバーのファンが静かに回る音だけが、二人の間に響いていた。
やがて、霜月が空いている方の手で、梓の左目を覆う黒い眼帯に、ためらうようにそっと触れた。
「……」
梓の身体が、一瞬こわばる。
それは、彼女が「氷の人形」になるきっかけとなった、決して消えない傷跡。
「…この眼に関する全ての記録も、私の管理下にあります」
静かな声だった。
「君が何を失い、何を得たのか。そのデータは全て、ここに」
「……やめろ」
「ですが」
霜月は言葉を切り、繋いでいない方の手で、梓の右頬を包み込むように触れた。眼帯に触れていた指とは違う、確かな意志を持った感触。
「記録よりも、データよりも、今ここにいる君のこの温度の方が、私にとっては遥かに重要で、価値のある情報です」
無表情のまま、しかし、その凪いだ瞳の奥に確かな熱を宿して、霜月は言った。
「梓。君のその熱がなければ、私の世界は凍りついたままです。…だから、どうか、無茶はしないでください」
――ああ、クソ。
昔から、こいつはこれだ。
淡々とした顔で、平然と、こちらの心をかき乱すようなことを言ってくる。
梓は顔を真っ赤に染め上げ、繋がれたままの手をぎゅっと握りしめた。
「…ば、馬鹿言ってんじゃねぇよ…! 大体お前、そういうことはな、もっと…雰囲気とか、色々あんだろ…!」
「雰囲気、ですか。なるほど。次の機会への参照データとして記録しておきます」
「次の機会があるか! この朴念仁!」
もう、まともに彼の顔が見れなかった。俯いて、悪態をつくのが精一杯だ。
でも、繋がれた手から伝わる、氷点下の体温が。
頬に触れる指先から伝わる、不器用な優しさが。
どうしようもなく、心を温めていくのを、梓は止められなかった。
「…その手、離せよ」
「拒否します」
「……」
「君が、私の隣で、その適切な体温を維持していることを、私は継続的に観測する義務がありますので」
静かな記玄官第二倉庫。
誰にも見られることのないその一室で、「氷の人形」と呼ばれた幻滅官は、ただの照れ屋な一人の女性になっていた。
その隣には、彼女のためだけに、ほんの少しだけ体温を上げたような気がする、「氷の王子」が静かに佇んでいた。