(4)無題
内閣府対異常対処部門、全領域異常解決班(全決)拠点。都市部の地下深くに偽装されたその施設は、外界の常識が一切通用しない、異常な能力者たちの巣窟だ。そして、その一室、共有スペースのソファに座る幻滅官██は、今日も今日とて、隊員たちの有り余るエネルギーと奇行の矢面に立たされていた。
「██、反応遅いよ? もっと速く動かないと異常には対応できないぞ〜? はい、これ、さっきまで██の手元にあったマグカップね」
識別番号19、フラッシュが██の目の前でオレンジと黒の残像を残しながらピタリと止まる。手には、数秒前までテーブルにあったはずのマグカップ。「神速」の異名に恥じない速度だ。そして、その残像が消えると同時に、識別番号9、ジンジャーが██のすぐ後ろに音もなく着地する。
「ねえねえ██! 今日の██の体、ぴりぴりしてる! 雷起こせるかな!? ねえ!」
ジンジャーは無邪気に██の腕を掴もうとする。 ██は咄嗟に腕を引っ込めるが、微弱な静電気が指先に走ったような気がした。
「ああ、もう、勘弁してくれ…! フラッシュ、物は勝手に移動させるな! ジンジャー、そういう遊びはやめろ!」
疲労困憊の声を出す██に、フラッシュはニヤリと笑う。
「遊び? いやいや、訓練だよ訓練。異常はいつだって予期せぬ方向から来るんだぜ? ██の反応速度が遅いのが悪いんだ」
「だって楽しいもん! ██、追いかけっこしよーよ! 雷化でびゅんびゅん行くから捕まえて!」
「無理だ! お前たちに追い付けるわけないだろう!」
その時、共有スペースの隅、影が濃くなっている場所から、識別番号14、クロの声が聞こえた。
「…██…? 影…冷たい…?」
ゾワリ、と背筋が凍る感覚。クロの細く白い手が影の中から伸びてきて、 ██の報告書に触れた。報告書の一部が、一瞬、影のように揺らめく。
「うわっ! クロ! 物を影に引きずり込むな! これは重要な報告書なんだ!」
「…だいじょうぶ…すぐ、もどす…でも…██も…影…くる…?」
クロの手が報告書から離れると、影は元の濃さに戻る。しかし、 ██の報告書には、触れられた部分だけがほんの僅かに霞がかかったような、奇妙な歪みが残っていた。
その様子を見ていた識別番号13、ゼイが楽しげに声を上げる。
「あらあら、██は人気者ね? 影に誘われちゃうなんて」
ゼイの声がすると、██の視界が一瞬ぐにゃりと歪む。床が波打つように見えたり、壁の色が不自然に変化したりする。「支配」と「変質」、彼らの能力が混ざり合うと、ただそこにいるだけで現実が不安定になるのだ。識別番号18、シフターは無感情に██の傍に立ち、分析結果を淡々と報告する。
「対象:██。周囲の空間構造に軽微な歪みを確認。主原因:識別番号13、識別番号18の能力干渉。██の精神状態:軽微なストレス反応。物理的影響:視覚、平衡感覚の異常。」
「うるさい! わざとやってるんだろう! 見た目や感覚を弄るのだけはやめてくれ!」
「ですが、██。これはあなたの耐性データを収集する上で必要なプロセスです」と、シフターは感情なく答える。
さらに、識別番号8、クイーンが優雅な仕草で近づいてくる。露出度の高い、彼女らしい服装だ。
「今日の██、随分とお疲れの色ね。もしかして、夜中に誰かの悪夢に付き合わされた?」
「…クイーン。貴方に言われると、妙に説得力があるから困るんです」
「あら、本当のことよ? 私には██の瞳の奥に隠された疲労が見えるわ」
「あなたの能力で私の精神を操作するのはやめてください…」
「うふふ、どうかしら? それとも、別の誰かのせい? 例えば…いつも██のデータを取っているケミストとか、かしら?」
クイーンの視線が、資料室の入り口付近にいる識別番号4、ケミストと識別番号17、ライターに向かう。ケミストとライターは常に何かしらの機器や資料をカチャカチャ弄っており、 ██の反応を見逃さない。
ケミストが小さな端末を見ながら話しかけてくる。
「██。あなたの思考パターンを分析した結果、特定の状況下で判断速度が低下する傾向があります。修正プロトコルを適用すべきです」
「修正プロトコルってなんだ!?」
「具体的には、脳波誘導装置を用いた強制的な思考速度調整、あるいは特定の薬品投与による精神安定化などが考えられます」
「いやいやいや、そんなのいらないから!」
ライターは無言で██との会話をメモしている。時折、眼鏡の奥の瞳がキラリと光る。
「記録:幻滅官 ██、識別番号4の発言に対し、声量が10デシベル上昇。感情パターン:拒否、強い困惑。脳波パターンに不規則な変動。継続観察。」
「記録するな! 何でもかんでもデータ化するな!」
「ですが、これは重要な記録です。██のデータは、未知の異常に対する人間職員の反応モデル構築に不可欠です」と、ライターは淡々と答える。
その時、遠くの訓練区画から地響きが聞こえてきた。識別番号7、ビッグマンと識別番号15、ブルが筋トレに励んでいるのだろう。しばらくすると、彼らが共有スペースにやってくる。
「██! もっと筋肉をつけろ! その体じゃ異常に吹き飛ばされるぞ!」
ビッグマンが分厚い腕を叩きながら言う。その体躯は岩石のように固く、圧倒的な質量感を放っている。
「そうだ██! 腕立て100回だ! 休んでる暇はない!」
ブルが更に追い打ちをかける。彼は斥力制御能力で自身の動きや打撃を強化する、文字通りの物理的な猛牛だ。
「ごつい! 二人ともごつすぎる! 私には無理だ!」
「無理じゃない! やるんだ! このブルドリルに食らいついてこい!」
「いや、ブルドリルってなんだ…!」
██がブルに引きずられそうになっていると、共有スペースの隅、普段あまり目立たない場所に座っていた識別番号1、イチニイがゆっくりと██に視線を向けた。彼は滅多に喋らないが、その存在自体が冷たいプレッシャーだ。
「…██。お前の存在は…不安定だ。いつ、崩壊する?」
冷淡な、感情のない声。 ██はゾッと全身が硬直する。
「…イチニイ…。そういう、不吉なこと、言わないでくれ…」
「不安定なものは…崩壊を呼ぶ。それは…世界の理だ」
イチニイの言葉に、██はぐっと奥歯を噛み締める。彼の「崩壊」能力の前では、物理も概念も無意味だ。いつか彼自身が██を崩壊させるかもしれない、あるいは██が異常によって崩壊する瞬間を、彼はただ静かに見つめるだけかもしれない。どちらにしても、その考えは恐怖でしかない。
「はいはい、そこまで。 ██さんが困ってるでしょう?」
そんな時、場の雰囲気を和らげるように、識別番号2、ニイナが近づいてくる。彼女は██の傍らに優しく寄り添い、その顔色を伺う。
「██さん、大丈夫? ちょっと顔色が悪いみたい。何か辛いことでもあるの?」
ニイナの「治癒」の力は、物理的な傷だけでなく、精神的な疲労や歪みにも作用する。彼女がそばにいると、 ██は少しだけ肩の力が抜けるのを感じる。
「…ニイナ。大丈夫じゃないかもしれない…。もう、みんなから色んなことされすぎて…」
「ふふ、みんな、██さんのこと好きなんだね」
「好きっていうか…おもちゃにされてるだけな気がするんだが…」
ニイナは微笑むだけだ。その隣で、識別番号10、カッターがジンジャーとフラッシュの方に視線を向けながら、静かに呟く。
「…無駄口が多いぞ、フラッシュ。██をからかうのはその辺にしておけ。業務の邪魔だ」
カッターは直接██に話しかけることは少ないが、その「切断」の能力は、物理的な障壁だけでなく、無意味な干渉や混乱をも断ち切ることができるかのように、場の空気を少しだけ引き締める。
そして、識別番号12、カノがニイナの足元に擦り寄りながら、上目遣いで ██を見上げる。
「…██…おなかすいた…ごはん…まだ…?」
「もうすぐだよ、カノ。食堂に行こうか」
ニイナが優しくカノに答える。カノは壁を透視する能力を持つが、臆病で人見知りだ。ニイナの傍を離れないことが多い。
幻滅官██は、ため息ともつかない息を吐き出した。これが、全決室での彼の日常だ。人間離れした能力と、人間離れした感性を持つ彼らに囲まれ、 ██は今日も「正常」であることの難しさを痛感していた。体調管理? 暇つぶし? そんな建前よりも、彼はただ、この予測不能な空間で、彼らによって崩壊させられることなく、自身の存在を維持することに必死だった。
だが、完全に否定されることもない。時折向けられる優しさ、さりげないフォロー、そして何より、「██」という、ただ一人の人間として呼ばれる(呼び捨てではあるが)その事実は、彼がまだ、この異常な世界の中で「人間」であることを許されている証拠のように思えた。
そして、今日も██は、彼らのちょっかいに付き合っていくのだ。それが、幻滅官██の任務であり、運命なのだから。