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(2)流水の如く

人名が下手

ねこ

深夜の雨がアスファルトを濡らし、街の灯りが滲んでいた。山田巡査は、相棒の佐藤と二人でパトカーに乗り、いつものように管轄区域をパトロールしていた。無線から流れるのは、万引き犯の補足や酔っ払い相手の喧嘩といった、日常的な通報ばかりだ。警察官になって十年。大きな事件に遭遇したことはないが、それはそれで平和な証拠だと、山田は自分に言い聞かせていた。


その時、少し離れた地区のアパートから、切迫した通報が入った。「変な音がする!」「人が叫んでる!」「建物が揺れてるみたいだ!」複数の住民からの通報が同時に寄せられたことで、事態の深刻さが窺えた。パトカーのサイレンを鳴らし、山田と佐藤は現場へ急行した。


指定されたアパートは、築年数の経った木造二階建てだった。既に数人の住民が外に出ており、不安そうにアパートを見上げている。異様な物音は止んでいたが、張り詰めた空気が漂っていた。「巡査さん、二階です!奥の部屋から!」住民の一人が叫んだ。


山田と佐藤は装備を確認し、慎重に二階へと上がった。通報された部屋の前に立つと、ドアは半開きになっていた。中から異臭が漂ってくる。生臭い、何か焦げ付いたような、そして理解不能な「何か」の匂い。山田は顔を顰めた。

「佐藤、気をつけろ」

山田はドアをゆっくりと押し開けた。目にした光景に、二人は息を飲んだ。


部屋の中は、まるでハリケーンが直撃したかのようだった。家具は粉々に砕け散り、壁や天井には何かが叩きつけられたような、あるいは抉られたような凄まじい痕跡が生々しく残っている。そして、部屋の中央には、人間だったと思われる「何か」が転がっていた。それは、肉塊のような、しかし物質そのものが原子レベルで分解されかかっているかのような、おぞましい姿だった。通常の殺人事件で目にするようなものではない。グロテスクという言葉では片付けられない、物理法則を無視したような破壊の跡だった。

そして、その凄惨な現場に、数名の人間が立っていた。


彼らは、普通の服装ではなかった。一人はダークカラーのスーツを隙なく着こなし、もう一人は白衣のようなものを羽織っている。その傍には、白い毛皮の、しかし明らかに人間離れした体躯の男が立っている。さらに、黒い和服姿の男と、派手なスポーツウェアの男もいた。彼らは皆、動じる様子もなく、冷徹な視線で部屋の中央の「何か」を見下ろしていた。

山田と佐藤は咄嗟に拳銃を構えた。「動くな!警察だ!」

スーツ姿の男が、ゆっくりと山田たちの方へ顔を向けた。その瞳は、感情が一切宿っていないかのように冷たく、周囲の全てを値踏みするような視線を送っていた。身長は山田より遙かに高く、均整の取れた体格だが、その存在自体が異常なほどの威圧感を放っていた。


「警察、ですか」イチニイは感情のない声で呟いた。「遅いですね」

遅い?何がだ?山田が困惑する間に、白い毛皮の男が突然、電光石火の速さで部屋の中を駆け回った。その動きは人間離れしており、残像が見えるほどだ。

「ハヤテ、余計なことをするな」イチニイが淡々と言った。「残骸は後で処理班が来る」

「ええー、だって暇なんだもん」ハヤテは楽しそうな声で答え、部屋の隅で何かを蹴り飛ばした。蹴られたものは、金属の塊だったはずなのに、空中で砂のように崩れ落ちていった。

山田は絶句した。金属が砂に?今、何が起きた?


黒い和服姿の男が、手に持った刀を鞘に納めながらイチニイに声をかけた。「周辺に他の影響はない。事象は収束したと見ていい」彼の刀身は、雨の光を反射して鈍く光っていた。

スポーツウェアの男が、懐から小型の拳銃を取り出し、それを弄びながら言った。「つまんなーい。もっと暴れるかと思ったのに」彼の動きは、常人では追えないほど速かった。

そして、白衣の女性が、山田と佐藤の方へ歩み寄ってきた。彼女は穏やかな微笑みを浮かべていたが、その瞳にはどこか深い悲しみが宿っているように見えた。


「大丈夫ですか、お怪我はありませんか?」ニイナは優しく尋ねた。

山田は、目の前の異常な光景と、その中にいる異常な人間たちに完全に思考を停止させられていた。彼らが何者なのか、この凄惨な部屋で何が起きたのか、全く理解できない。

イチニイが再び山田たちに視線を向けた。その冷たい瞳は、山田たちの存在を価値のないものと見ているかのようだった。

「彼らは、見てはならないものを見た」イチニイはニイナに言った。「処理を頼む」

処理?何をだ?山田は全身が冷たくなった。彼らの「処理」とは、一体何を意味するのか?

ニイナが山田たちの前まで来ると、その手に淡い光が集まるのが見えた。山田は危険を察知し、後ずさりしようとした。だが、体が硬直して動かない。

「ご心配なく、痛みはありませんよ」ニイナの声が響く。

次の瞬間、山田の頭の中に、雨音とは違う、遠くで響くような、しかし強烈な音が鳴り響いた。それは、彼の記憶の中の、この部屋に入ってからの一切を、何か黒いもので塗りつぶしていくような感覚だった。アパートの通報、現場の凄惨さ、目の前の異常な人物たち。全ての情報が、砂のように崩れていく。

山田は意識が遠のくのを感じた。最後に聞こえたのは、雨の音と、誰かが淡々と指示を出す声だった。



……



山田は、冷たい雨に打たれて目を覚ました。アパートの前だった。傍らには佐藤が同じように倒れ込んでおり、数人の住民が心配そうに覗き込んでいる。

「山田さん!佐藤さん!大丈夫ですか!?」住民の一人が声をかけた。

「あ…ああ、大丈夫だ…何があったんだ…?」山田は頭を抱えながら立ち上がった。頭がぼうっとしている。このアパートに来たのは覚えているが、その後の記憶が曖昧だった。部屋に入ったような気がするが、そこで何を見たのか、まるで思い出せない。ただ、胸の奥に、説明できないほどの不快感と、何か決定的なものを「忘れてしまった」という強烈な違和感だけが残っていた。


佐藤も起き上がり、困惑した表情で周囲を見回している。二人は、半開きになったままの部屋のドアを見上げた。ドアからは、もはや異臭も、物音も聞こえてこない。ただ、妙に静かだった。

アパートの内部には、既に別の「捜査員」が入っていた。彼らは黒い作業着のようなものを着ており、山田たちに気づくと、「ここから先は我々が引き継ぎます。あなた方は署に戻ってください」と冷たく告げた。彼らの表情や態度は、どことなくあの部屋にいた「異常な」人物たちに似ていた。


署に戻った山田と佐藤は、上司に報告書を提出しようとした。しかし、二人の報告は曖昧で、肝心の「部屋で何が起きたか」が全く思い出せない。部屋の破壊状況や遺体について話そうとしても、具体的な描写がまるで出てこないのだ。

「一体何を言ってるんだ、君たちは?」上司は首を傾げた。「通報はあったが、現場に異常はなかったと応援の者が言っているぞ。ただの悪質ないたずら通報だったようだ」

悪質ないたずら通報?山田は愕然とした。あの凄惨な光景は、確かに存在したはずだ。あの異常な人物たちも、確かにいた。しかし、それを証明するものが何もない。

山田は、自分の記憶が誰かに「処理」されたのだと直感した。そして、あの部屋にいた彼らが、その「処理」を行ったのだと。


その夜以降も、山田はあの日の出来事を思い出そうとした。しかし、記憶の壁は厚く、破ることができない。あの部屋の異臭、異常な人物たちの冷たい視線、そして理解不能な能力の光景。断片的なイメージは脳裏を掠めるが、それを繋ぎ合わせることができない。

彼は知ってしまったのだ。自分たちの日常のすぐ傍らに、人間の科学では説明できない「異常」が存在し、そしてそれを人知れず「処理」する、さらに異常な組織が存在することを。そして、その存在を知ってしまった人間は、有無を言わさずその記憶を奪われるということを。

山田は、もう二度と、あの冷たい視線と出会わないことを祈った。そして、日常に戻ったはずの世界に、拭い難い違和感を抱えながら、パトロールへと向かうのだった。雨は上がり、街の灯りはいつも通りに見えた。しかし、山田には、その光景が以前とは違って見えていた。世界の裏側に隠された「何か」の存在を、彼はもう忘れることができなくなっていた。記憶は消されても、心に残った疑念と恐怖は、彼の心を静かに侵食していくのだった。

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