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徒然と紡ぐ日の影  作者: 村街マイク
18/19

夏祭り

 氷が溶けて、ほとんど水になったデュアーズのソーダ割りを飲み干した。カウンターにグラスの結露で作られた輪っかがある。それをおしぼりで拭いジョニクロのソーダ割りを久一は注文した。

 「週末の夏祭り行くのか?」

 隼人は鯨肉のカツにソースを垂らしながら久一に尋ねた。

 「一人で祭りというのも風情があるけど、みんな連れて行くの?」

 「真美にせがまれてるからね、久一を連れて来いってさ。暇なら一緒にどうよ? 充も一緒にどうだ?」

 充は頬杖をつきながら久一に視線を送って隼人に返した。

 「まぁ、行くとは思うけど別件でちょっと。会場でばったり会うかもな」

 充はカウンターに顔を伏せて久一を覗き見た。

 「含みのある面しやがって、だから! 美湖ちゃんに振られるんだよ」

 久一の隣に座っていた美湖が酎ハイを吹き出した。

 「止めてくださいよ。充さんとは良き飲み友の一人なんですから。そうですよね? 充さん?」

 「もちろんだよ美湖ちゃん。そう言うことだから、失礼させてもらうけど、悪口で盛り上がるんじゃないぞ」

 充は三人を残して席を立った。マスターと一言交わし、会計を済ませると、後ろ向きに手を振って店を出た。充が退店してすぐに、隼人は美湖に尋ねる。

 「あいつ、どうしたんだ? 美湖ちゃん振ったの? 振られたのにあんな余裕あるの? 坊さんにでもなるつもりか?」

 美湖は空になった手元のグラスを傾ける。

 「マスター、美湖ちゃんにレモン酎ハイ」

 久一が美湖のお代わりを注文した。

 「どうも。別にそんな感じでは無いですけど、急に陰ながら応援するとか、でもたまには店で一緒に飲もうね、とか言ってました。何かあったんですか?」

 「久一、知ってるの?」

 「知らん、本当に知らん。心配だな充」

 「知ってますねこの人。絶対に嘘ついてますよ」 

 美湖はマスターから提供された酎ハイをカウンター越しに受け取り会釈した。

 「で、どうするの? 祭り一緒に行くのか?」

 「そうだね、真美ちゃんが会いたがっているんだろ?」

 「私も行きますよ、美雪さんに誘われてますし」

 「そうなの? 俺一人危うく除け者にされるところだった?」

 「だから、誘ってるんだよ」

 久一も祭りに参加することが決まり、この日はお開きに。美湖の勘定は充が済ませた後だった。


 当日、久一と美湖は最寄り駅で落ち合った。

 「似合ってるね。主張しすぎる柄が浴衣を引き立てているよ」

 「意地悪ですね」

 美湖は顔を背けて歩きだす。薄緑地に芍薬が描かれていた。芍薬は立ち止まってこそなのに。

 「ちょっと、下駄で急ぐと転ぶよ」

 美湖が立ち止まって振り返り、足の裏を見せた。

 「これ、実は厚底の下駄風サンダルです」

 「そんなのあるんだ」

 「浴衣より甚平の方が涼しそうですね」

 「だろ? あえて足元は革のサンダルをチョイスするところがポイントなんだよ。サンダル界のロールスロイスって奴でね」

 「置いていきますよ」

 美湖は話を最後まで聞かずに改札を抜けて行く。久一は首から下げたサコッシュを揺らして後を追う。

 改札を抜けると無数の花が咲き並んでいた。


 祭り会場に近づくにつれて屋台が並び出し、綿飴を掲げる子供や、酒くさい赤ら顔の老人とすれ違う。

 「何してるんですか? 林檎飴なんて後にして下さいよ」

 飴屋の前で足を止めた久一の腕を掴んで引っ張って行く。

 「なんて言い草。真美ちゃんの笑顔のためだよ」

 「今じゃなくていいでしょ。荷物になるし、林檎より苺の方が好きかも知れないでしょ? 時間に遅れます、急いでください」

 手を引かれ、行き交う人波を縫いながら隼人たちの待つ鳥居を目指した。


 石段に座り、膝に真美を乗せた隼人が片手を上げた。横に屈んで美雪は団扇を振っていた。久一に気がついた真美は膝上から跳ねて駆けだす。

 「向日葵さん、久しぶり」

 真美は久一と手を繋いで体重を後ろにかけた。

 「ピッタリ四十五度の角度だね」

 黄色地に向日葵が濃淡で描かれている。浴衣の裾が汚れないように向日葵を抱き上げた。

 

 「先にお参り済ませましょう」

 美雪は背を伸ばした。紺地に牡丹が彩られていた。座っているのがいいのに。

 「そうだな」

 隼人は尻を払ってから甚平の胸元に手を入れて一頻り掻いた。

 隼人と美雪の背後から真美の歩幅に合わせて三人は石段を登った。

 「ねぇ真美ちゃんは林檎と苺と葡萄、どれが好き?」

 「いちご」

 「ほら、買わなくてよかったでしょ」

 「何の話?」

 「久一さんが真美ちゃんのために林檎飴を買おうとしてたんです。遅れそうだったのに」

 「気に入られたいの俺は」

 「本当に甘やかさないでね」

 美雪が振り向いて真美の髪を撫でた。久一と美湖の間で手を繋いだ真美は、石段の上を浮かしてもらいながら登る。


 賽銭箱の前で美雪から小銭を渡された真美の投じた百円玉は大きく的を外して拝殿に。見上げた真美に今度は隼人が百円玉を握らせて、賽銭箱の上で重ねた掌を開いた。続いて賽銭を投げる。久一は五十円玉。真美と隼人が本坪鈴を鳴らす。手を合わせて目を閉じた。久一は漠然と幸福を祈った。


 花火が打ち上がる時間までは別行動に。真美はザラメが発する香りの誘惑に久一を残して綿飴を売る屋台へ駈け出した。人混みで見失わないように慌てて美雪が追う。

 「じゃあ、また後で」

 「おう」

 「美湖ちゃん屋台でも周ろうか」

 「そうですね、イカ焼き食べたいです」

 「たこ焼きではなくて?」

 「どっちも買ってくださいよ。あとビールも!」


 多くのお面をベニヤ板に掛け、陳列している屋台があった。遠目でも、ところどころが歯抜けになっているのが分かった。

 「今でも買う人がいるものですね」

 「俺なら、唐揚げか焼き鳥を売るけどな」

 玩具売りの店主はパイプ椅子に座って腕を組みながら、うつらうつらと頭を上下していた。吊られた裸電球がきらりとビー玉と手を組み、プラスチックの銃口が店主に向い並んでいる。七色の蛍光色に光るブレスレットやカチューシャが手招きする。

 「いらっしゃい」

 店主がパイプ椅子から前のめりに寄ると、美湖が久一の脇腹を肘で突いて人の流れに押し戻そうとした。

 「その右端にあるやつ下さい」

 「買うんですか?」

 美湖の反意に応じない。

 「そっちじゃない、そうそれ! 美湖ちゃんはどれにする?」

 「じゃあ、それで」

 「ありがとうございます、千円にまけときます!」

 久一は店主に千円札を手渡して二つのお面を受け取った。

 「どうするんですか、これ」

 「パンツはなぜあるのか知ってる?」

 久一はお面を被った。

 「これ、視界が悪いな」

 美湖は頭にお面を斜にかける。久一はお面を後ろにずらしてから、たこ焼きを売る屋台の最後尾に着いた。

 

 陽が傾くにつれて祭りの喧騒が色濃くなる。祭りには共通の秩序でもあるのか、人々のざわめきが滑らかに耳朶を舐め、ふと遠い日の記憶が脳を掠めていった。


 小学五年の夏休みに久一は祖父の家に遊びに来ていた。地元とは違い、山に覆われた田舎町。家の前に敷かれた道路は稀に車が通るくらい。携帯ゲーム機でも持ってくればよかったと悔いながら、唯一持参したサッカーボールをブロック塀に蹴り込み、跳ね返ったボールを内足で止める、外足で止めてを繰り返す。単調な反復に飽きるとリフティングに切り替えた。

 祖父の家に滞在して三日目の陽が暮れる前、見たかったテレビ放送が終わり、退屈を抱えて塀の前に立った。気温が下がり蝉の鳴き声がそこらじゅうを埋めていた。

 左右の足でボールを交互に蹴りながら軌道の勢いを抑える。膝でも同じことをする。集中が切れてボールが地面に落ちた。そこでようやく少女の視線に気がつく。少女は祖父の家を二軒挟んだ隣の家の前から久一に視線を送っていた。久一は少女に声をかけるでもなく、リフティングを再開する。その直後、ボールはバウンドして道路脇の溝に収まった。日照りで溝は半分干上がっていた。お陰で溝水は澱み、ボールは巨大なチョコボールみたいになる。

 「光、手伝ってくれ」

 少女を呼ぶ少年の声がした。ボールを拾い上げた時にはもう少女の姿は消えていた。

 庭にある水道の蛇口を捻りホースでボールを洗う。ホースの腹から水が所々細く噴き上げていた。

 「晩飯だぞ」

 「今日はなに?」

 「炒飯と青椒肉絲」

 「ピーマンかよ!」

 蛇口をぎゅっと閉めて、濡れたサッカーボールを放置したまま祖父のいる縁側から家に上がった。

 「久一、靴を揃えなさい」

 祖父は小言を言って、自らの手で靴を揃えた。


 翌日の午前中も塀と戯れていた。アスファルトに置いたボールを足底で転がして、足の甲でボールを掬い、リフティングを始める。

 「上手いな、お前」

 久一はボールを胸で捕まえて声の主を見た。

 「俺にも教えてくれよ、お前何年?」

 「五年だよ」

 「俺は六年」

 久一はサッカーボールを少年に蹴って渡した。少年は真似てリフティングをしようとしたが、ボールは昨日、久一が落とした溝にまた吸い込まれた。

 「悪い、すぐ取るから」

 躊躇うことなく汚れたボールを拾った少年は黙り込んだ。

 「気にするなよ、洗えばいい。コツはしっかりとボールを見ることだよ」

 「それだけ?」

 「うん、それだけ」


 少年の泥のついた手にホースの水をかけた。次はボールに水浴びをさせる。

 「あら、佳士君、久一と遊んでくれてるの? ありがとうね、ちょっと待ってて。おやつ持って来てあげるから何かいいものあったかしら」

 洗濯物を干そうとした祖母が籠を置いて消えた。

 「久一ね」

 「佳士くんね」

 祖母を待っていると家の中から祖父との会話が聞こえてきた。

 「せんべいなんか今の子は喜びませんよ、何かないかしら」

 「じゃあ、これは?」

 「何ですか、もう邪魔しないでください」

 「せっかく手伝おうとしてやってるのに!」

 「いいですから、じっともう座ってて下さい!」

 久一と佳士は大人のやりとりを耳にしながら目を合わせて笑う。現れたのは祖父だった。

 「これ食べろ、美味いぞ」

 祖父はオレンジ色のビニールに包装されたソーセージを久一に渡そうとした。

 「いらないよ」

 「それ美味いぞ、久一」

 そのソーセージは久一の好物だった。しかし状況的にそぐわない気がした。

 「三本?」

 「光ちゃんの分もあげないとな」

 「ありがとうございます」

 佳士が頭を下げた。満足げな祖父を追いやり、祖母はフルーツの果肉が入ったゼリーの箱を縁側に置いた。

 「好きなの選んでちょうだい」

 箱には熨斗を剥がした跡があった。久一は白桃を、佳士は巨峰を選んだ。

 「光ちゃんはどれがいいかな?」

 祖母が佳士に尋ねるとマンゴーを取った。

 「ばーちゃんよう、スプーンは?」

 久一は不満気にこぼした。祖母は手を打って祖父と一緒にまた消える。

 「光に渡して来るから、ちょっと待ってて」

 「うん」

 佳士はオレンジのソーセージ一本とマンゴーゼリーを手に駆け出した。

 「あれ、早すぎない?」

 「そこに居たから連れてきた」

 佳士の背に隠れながら、昨日の少女が立っていた。祖母がスプーンを持ってきたが一本足りないので、またまた奥に下がった。二本のスプーンを二人に渡して三人で縁側に座った。

 「いつまでこっちいるんだ?」

 ゼリーを口にしながら佳士が尋ねた。

 「まだ当分はいるよ」

 「じゃあ暇なら一緒に遊ぼうぜ」

 「俺、暇しかないから」

 祖母からスプーンを受け取って、久一もゼリーを口にする。

 「これ、ぬるいな」

 光は久一に笑いかけた。

 「美味しいよ」 

 「うん、美味いよ」

 二人にそう言われて久一も納得して生温いゼリーを食べた。

 「うん、美味いね」


 この出会いを境に久一の生活は華やいだ。朝起きて三人でクワガタを探しに森に行って蚊に刺されたり、浅い川へ勝手に入って祖父に叱られたりしながら過ごした。佳士が学校の友達と約束がある日は光と二人で過ごした。光は小学四年で久一の一つ下だった。光は佳士と違って学校の友達とつるむこともなく、久一の相手をずっとしてくれていた。

 老人がゲートボールをしているグラウンドの隅っこで、縦と横に二本ずつの線を引いてマルバツをした。お互いに印が三連することは最後まで無かった。駄菓子屋に寄ると、光は小さな容器に入ったヨーグルト風味の菓子を買い、久一は魚肉を伸ばしたペラペラの蒲焼き擬きを選んで噛みながら歩いた。


 久一の夏休みも終盤に差し掛かった日だった。佳士と道路でサッカーをしてから、縁側で光も交えて西瓜を食べた。久一は庭に種を吐き散らしたが、二人は皿にきちんと戻した。

 「スイカに塩をかけるのジジイみたいだな」

 「久一は子供だよな、味変をしないなんてさ」

 「私もかけないよ、久一君と一緒」

 久一は唇を尖らせて塀の内側まで種を飛ばした。

 「もうすぐ帰るんだよな?」

 「明後日にはね」

 「やだな」

 「今日の昼飯は俺んちに来いよ。作ってやるから」

 「作れるの?」

 「お父さんとお母さんは仕事でいないから、いつもお兄ちゃんと一緒に作るの。おいでよ!」


 洗濯物を畳む祖母に昼は佳士の家で食べると告げた。

 「迷惑じゃないのかい?」

 「二人がもてなしてくれるってさ。念のために聞くけど昼ご飯の献立は何だったの?」

 「そーめん」

 「またかよ? じゃあ行ってくる」

 玄関で祖父のサンダルを突っ掛けて引き戸を滑らせると声がした。

 「これ持ってけ」

 「サンキューじいちゃん」

 久一は束になったオレンジ色のソーセージを握って家を出た。


 「お邪魔しまーす」

 久一は光の案内で台所に通された。コンロに火をかけ、鍋の中を箸でかき回す佳士がいた。まな板には切り刻まれた玉ねぎとベーコンがあり、卵が転がらないようにお椀の中に二つ入っていた。

 「これじいちゃんから、圭ちゃん何作っているの?」

 「ありがとうって言っといて。あと冷蔵庫にソーセージ入れといて」

 料理に手一杯な佳士は振り返りもしない。久一は冷蔵庫にソーセージをしまって椅子を引いた。その横に光が座り、足を宙に浮かせて前後に揺らした。

 「ねぇ、何作ってるのってば?」

 「おそーみん」

 「げっ、そーめん?」

 佳士は流し台に置いた笊で湯切りをする。持ち上げて上下に一回二回。鍋を退けたコンロに居座るフライパンがチリチリと鳴く。火力を最大限に上げて油を入れる。その隙に卵を二つ割ってかき混ぜていると。

 「圭ちゃん煙出てる!」

 久一の悲鳴に光は口元を押さえる。

 「見てなって」

 佳士はまな板から玉ねぎ、ベーコンを直接入れてから、塩胡椒を振ってフライパンを掻き混ぜる。そこに笊からそーめんを投入し、卵を入れて掻き混ぜて醤油を垂らした。

 テーブルの真ん中に湯気の立つフライパンが置かれた。焦げたごま油の香りがした。光が三人の取り皿と箸を並べる。

 「いい匂いだね。そーめんチャンプルーってやつ?」

 佳士は人中を人差し指でこする。光が皿に取り分けていく。

 「正確にはソーミンタシヤー。葱があればもっと美味しく作れたけどな」

 「十分美味しいよ! ソーミンタシヤー」

 久一は口一杯に頬張った。喉に詰まりそうになり、光から麦茶を差し出されて流し込む。そして叫んだ。

 「ソーミンタシヤーおそろしやー」

 「おそろしやー」

 「二人ともうるさいよ!」

 三人で囲む昼食は賑やかに牧歌的に幕を閉じた。


 腹も膨れて久一は、佳士の家のリビングで炭酸の抜けかけたコーラを飲みながらテレビゲームをして遊んだ。いつの間にか昼寝をしていたようで、薄い掛け布団を抱いていた。

 「起きたか? それは光が」

 隣で頬の下に手を敷いて、丸くなって眠る光を佳士が指差した。

 「ありがとう」

 佳士の囁きに、声を潜ませて返した。

 「ちょっと外に行こう」

 「光ちゃんは?」

 「二人で、相談がある」

 「わかった」

 久一と佳士は光を起こさないように足音を殺しながら家を出た。

 塀に持たれて佳士が俯く。久一は道路脇まで歩いた。干上がりかけた溝の中に白く乾いたザリガニの残骸を発見する。

 「相談って?」

 「明日の祭りあるだろ?」

 「祭り?」

 久一は知らない振りをした。小石をザリガニの殻めがけて上から落とすが外れる。

 「本当は三人で行けたらよかったけどな、前から学校の連中と約束してたから」

 「いいよ、俺は別にここの人間じゃないから」

 「光を連れて行ってくれないか? 母さんがわざわざ浴衣を買って用意したのに」

 小石を掌に集めながら久一は蟻の行軍を見つけた。蟻はアスファルトの上で溶けていく飴に群がっていた。

 「光ちゃんは学校の友達と行かないのか?」

 「いや、あいつ学校で」

 「なんだよそれ、光ちゃんが可愛いからって仲間外れか? くだらねぇな。どうせ、不細工な連中の嫉妬だろ」

 久一は掌に集めた小石をザリガニの残骸に振りかけた。幾つかの小石は命中したようだった。

 「誘ってやってくれるか?」

 「本当はな圭ちゃん、俺、明日、祭があること知ってたんだ。でも誘って断られるのが嫌で黙ってたんだ。誘って欲しかったんだよな」

 

 眠っている光の肩を佳士が強引に揺さぶった。

 「おい、起きろ光!」

 「何? お兄ちゃん? もう夜?」

 光は目を閉じたまま口を開けて欠伸をする。歯が生え替わろうとしている跡があった。

 「明日の祭りどうするんだ?」

 「私は行かないよ」

 光の頑なな拒絶は寝起きとは思えないほど、はっきりと久一の鼓膜に突き刺さった。

 「お前のために、母さんが浴衣を用意したんだぞ」

 「知らないよ。じゃあ明日、浴衣は家で着るけど祭りになんか行かない」

 兄妹のやりとりに口を挟む隙を窺っていると、佳士が露骨なパスを寄越した。

 「久一、頼む」

 光を見下ろすように立っていた久一は、隣に座り炭酸の完全に抜けたコーラを光に持たせた。

 「なぁ光ちゃん、明日一緒に祭り行こうよ」

 「私は行かない!」

 「俺はもう明後日にはここにいないんだ。だから思い出に二人で行こうよ。そうデートしよう」

 「行かないの!」

 久一の言葉は届かず、光は憚らずに涙を流した。佳士は労いを込めたように頷き、久一は沈黙のまま部屋を出た。


 「今日は悪かったな、明日は一人でも祭りにくるか? そこで合流してもいいし」

 「気にするなよ、それと光ちゃんに謝っといて。泣かしてごめんってさ」

 「久一は悪くないけどな、一応言っとく」

 「頼んだ、それじゃあ」

 「じゃあな」

 家までの距離はたかが知れていたが、背を見送る佳士の視線がいつまでも消えなかったので、振り向かずに早足で帰った。


 「もう食べないのか?」

 箸を置いた久一に冷酒を一口煽って祖父が尋ねた。

 「そーめんばかりじゃ飽きるよ」

 「夏の風物詩よ、贅沢な子ね!」

 祖母は素麺を啜り、つゆが踊って祖父の顎に飛んだ。祖父は気に留めずに拭う。

 「婆さん、久一に肉焼いてやれや!」

 「いいよ、もうお腹いっぱいだから風呂に行く」

 久一は席を立った。


 居間でテレビを消した祖父が二番風呂に行こうとする、隣で、久一は扇風機の羽根に魂を打ち返されていた。

 「あーあーあーあーあーあー」

 震える声を上げていると、祖母が紙袋から濃紺で亀甲柄の浴衣を広げて見せた。

 「明日の祭りに着ていくように出しといたのよ。一度着てみなさいな」

 関心の無い久一の肩に浴衣を被せる。

 「いいよ、明日は家にいるから」

 「どうしたんだ?」

 祖父は白い股引き一枚になって尻を掻いた。前が薄っすらと黄ばんでいる。

 「そんな格好してないで風呂に行きなよ。あーあーあーあーあー」

 祖父は下着を持って風呂に消え、箪笥は引き出されたままだった。

 「大きさ見たいから着てみてちょうだい、明日はお爺さんと三人でね。お小遣いもあげるから」

 「いくらくれるの?」

 「奮発して五千円、内緒よ。ほら着てみて」

 久一は祖母に買収されて浴衣を羽織った。

 「あら、ぴったり」

 帯まで締めようとする祖母を制した。

 「それは、いいよ明日で。この浴衣ちょっと臭いけど誰のやつ?」

 久一は樟脳の匂いに顔を顰めた。

 「あなたのお父さんのよ。高級品よ」

 「はい、はい。お下がりね」

 脱いで祖母に返す。

 「吊るして消臭剤かけて風に当てとけば臭いは取れるから」

 「いいよ、カーゴパンツで行くから。本当に金くれるの?」

 「約束!」

 祖母は久一の前で小指を立てた。二人は小指を絡めた。

 「婆ちゃん、忘れるかもだから、今、頂戴よ」

 「まぁ、嫌な子!」

 祖母は財布から千円札を五枚取り出し、畳に並べた。久一のニヤつきを眺めてから、浴衣をハンガーに吊るし、消臭剤を振って軒下に掛けた。

 

 祭りの当日は祖父母と夕暮れに三人で家を出る予定になっていた。それまで久一は塀にボールを蹴り込み、リフティングをして家の前でほとんどの時間を過ごした。屋台で売っているものは祖父にたかれば五千円丸儲けだと考えながら。


 喉が渇いた久一は、縁側から祖母を呼んで麦茶を持って来てほしいと頼んだ。祖母の返事があったので待っていると、祖父が呼ぶ声がした。


 玄関には祖父と、浴衣を着た佳士と光が立っていた。佳士の浴衣は水色の縞柄で、光は黒地に白で百合が描かれていた。

 「あら、可愛らしい」

 麦茶の入ったグラスを持った祖母が、二人の分も用意しようとするのを佳士は丁寧に断った。

 「婆ちゃん、俺も着替えるから手伝ってよ」

 「はいはい」

 「光ちゃん、これ飲みながら座って待ってて、すぐだから」

 光を上り框に腰を下ろさせ、汗をかいたグラスを押しつけるように預けた。


 「早くしてくれよ、婆ちゃんよう」

 「はい、できました」

 尻をバチンと叩かれた。浴衣には樟脳の匂いがほのかに残っていたが気にならなかった。


 

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