第5話 魔女と救い
俺は患者さんから差し入れられた『クッキー』という菓子を口に放り込んだ。
硬くて咀嚼に苦労するも、そのぶんほのかな甘さと優しい香りが癖になりそうだ。集落を訪れた時に漂ってきた香りは、これを焼いていたものなのかもしれない。
そんな事を考えながら、俺は眼前の闇を眺めていた。
馬の足音、車輪の擦れる音、そして俺の咀嚼音。
聞こえるのはこの三つだけで、それらすらも闇の中へ吸い込まれていってしまっている。
御者のジャックの持つランタンがほんわりと辺りを照らしているが、その光の先には無明の闇が幕のように周囲を覆い隠している。
ひどく心細くなって、俺は隣のラリマーに話しかけた。
「なあ、本当にこのままこの夜の森を進むのか?」
「怖いのかい?」
「いや、まぁ……そうだ」
むしろ怖くないのか? 魔女というのは闇を好む習性でもあるのだろうか。
「大丈夫、何かあってもこの黒の魔女様がラフィくんを守ってあげるよ」
割とある胸を張ってラリマーは誇らしげだ。
まあこいつは魔女とやらなのだろう。普通の人間の常識は通じないのかもしれない。
俺は諦めて残りのクッキーを平らげる。もちろんラリマーの分は別で残している。
これから俺はどうなるのだろうか……。
あの時……騎士どもが火を放った時に死んだ方が良かったのだろうか。
考えども考えども答えは出ない。
俺が悩んでいる間にも馬車は進む。
やはり真夜中の森はほんのすぐ先に何があるのかも分からない。
それでも馬は迷いなく進んでゆく。
ふと、闇の中で何かが動いたような気がした。
……気のせいか?
そう思おうとしたが、どうにも異臭が鼻を付く。排泄物のような、あるいはスラム街でよく嗅ぎ慣れた臭いにも似ている。
これはまさか……
「ゴルルルルッ!!」
唸り声と共に、馬車の真横から真っ黒で巨大な何かが飛び出してきた。
眼を血走らせ、粘液を滴らせ、牙を剥き出しに開いた口は、見る人間を根源的な恐怖へ誘う捕食者の表情であった。
それの正体は――
「熊かよ……?!」
「ジャック! スピード上げれるかい!?」
黒馬が高々と嘶き速度を上げる。
しかし後方から追ってくる熊の方が僅かに速い。少しずつ迫ってくる。
……このままでは俺もラリマーも死ぬ。
武器になりそうなものは……ナイフだけか。だが仕方ない。
「ラフィくん!?」
「俺を見ろ熊ヤロー!!」
飄々としていた仮面の剥がれたラリマーを横目に、俺は馬車から飛び降りて熊に向けてナイフを投げつけた。
「グオォォッ!!!」
よし、俺にターゲットを変えてくれた。
熊がドスドスと地面を揺らし俺へと駆け迫ってくる。
これで、ラリマーは助かるだろう。
俺は眼を閉じて……痛みに備えた。
「【閃光】――!」
突然、瞼の向こう側で白い何かが弾けたと同時に、熊の怯むような甲高い声が聞こえてくる。
「【切断】――!!」
またラリマーの叫び声が聞こえた。今度は剣を擦るような金属質な音が響いた。
俺は恐る恐る瞼を上げる。
するとそこには――
「死んでる……?」
頭部の無い熊の胴体が、俺のすぐ目の前に横たわっていた。
首の断面から、刃物か何かで切り落とされた……ように見える。
「大丈夫かい!? 怪我は、痛むところはないかい?」
慌てた様子のラリマーが俺の背後から寄ってくる。
そうか、これが『魔法』か。
……国王どもが恐れる訳だ。
「……なんで俺を助けた?」
「当たり前だろう? 君は私の助手で――」
「違う。もっと前、どうしてあの時……俺を死なせてくれなかったんだ」
『ありがとう』と言おうとして自分の口から出た言葉に、ラリマーも俺自身も戸惑った。
……俺は、そうか。死にたかったんだ。
『生きて』と母さんに願われたけれど、どこかこの呪いに辟易していたんだ。
「……そんなの簡単だ。助手が必要だったのさ」
少し考えてから、ラリマーはいつも通りの飄々とした口調で答える。
だが俺には、ラリマーが何かを隠しているように感じられた。
「……」
俺は何も返さなかった。
するとラリマーは目に見えて狼狽えた様子でその場でうろうろとした。
それからしゃがみこんで俺と視線を合わせ、かぶりを振って答えた。
「……すまない。本当は私が君を助けた事に特に深い理由はない。ただ、あの時はその場の短絡的な良心に従ったんだ」
左の頬を温かい感触が包み込んできた。
ラリマーが俺の頬を撫でている……と認識したのと同時に、薄い闇の中で目の前の紅い瞳が潤んでいる事に気づいた。
こいつ、こんなに睫毛長かったんだな。
「今にも息絶えそうな子供を見つけて、いてもたってもいられなかったんだ」
すぐ目の前のラリマーの瞼が伏せられてた。
「……その後は、その場限りの親切にしないよう責任を持ってせめて君が大人になるまで面倒を見ようと思った。
全て行き当たりばったりの愚かな選択さ。君が本当は死にたがっているだなんて事を、これっぽちも考慮していなかった」
ラリマーと出会ってからたったの1週間。それでもこいつの高慢でやたらミステリアスぶった所を知っている。
けれどそれは……こいつなりに責任を果たすために取り繕っていた顔だったのかもしれない。
200年も生きてきて不器用過ぎんだろ。
「……私の事を嫌いになったかい? もし君が望むなら、すぐにでも街に送ろう。それが、私の無責任な我儘の償いになればいいが」
ラリマーの睫毛がきらりと瞬いた。
「……うるせえよ」
「す、すまない……」
「そうじゃねえよ。……俺が死にたかったのは、辛かったからだ。いつもいつも風も凌げねえボロ小屋で震えながら夜を越してきてよ」
改めて考えてみると、俺はこいつに自分の事を話したことが無かったように思える。
「汚ぇおっさんに股を開いて稼いだはした金で買ったカビたもん食って腹を壊して……。しまいにゃそんな居場所さえあっちゃならないもんだって壊されて……」
どんどん口が勝手に言葉を紡いでゆく。
俺は……こいつにわかって欲しかったのか。
「生きろって死んだ母さんに言われて生きてきたが、あの日はもう全てが嫌になってたんだ」
「そう、か……。悪い事を、してしまったようだな」
「あんたは悪くねえよ。それに今は俺は感謝してんだ。風に震えずに済む寝床をくれて、温かい飯を食わせてもらって、感謝しねえ奴はいねえだろ。
さっきこの熊の前に飛び出したのも、短絡的な良心とやらのせいだ。あんたに少しでも恩返しがしたかった」
「……だからってあれはないだろう?」
「それは……反省してる」
頬をパンみたいに膨らませているラリマーに、俺は咄嗟に目を背けた。
なんか胸の奥が痛いような……そんな気がした。
「だから……僕をもう、独りにしないで……」
なんだこれ、さっきからなんなんだ。どうなっちまってるんだ俺は。
なんで目の前が歪んで見えるんだ?
「安心しな。私は無責任に放り出したりしない。君が望むまで共に暮らそう、いっそ一生居てもいい」
ふわりと甘いいい香りが俺を包んで……柔らかな感触が俺の顔を埋め尽くした。
背中に回されたラリマーの腕に力が込められて……より強く柔らかなものが顔に押し付けられる。
「時間はたっぷりある。なんせ私は悠久の時を生きる魔女だからね」
――俺は……この日の事を一生忘れないだろう。
俺はきっと恵まれているのだ。
ラリマーに会うまで、ずっと漠然と死にたかった。
だが今は……。俺よりもずっと長生きするこの人と共に生きる事に決めた。
少しでも、この恩を返したい。短絡的な良心とやらに俺は確かに救われたのだから。
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