禁断の言葉、あるいはそれを言っちゃあおしまいよ
人には言ってはいけない言葉があると私は思う。
それを言っちゃあおしまいよというやつである。
これは私が中学生の頃に体験した話である。
細部の記憶は曖昧になってきたが、言葉だけは覚えている。
その時の話とその後のことをこれから語りたいと思う。
自身の体験なので、かなり私情が混じっている。
読んで不快な思いをされたら、そこで読むのをやめて欲しい。
読者の方が読んで傷付かれることを私は望まない。
傷付きそうだと思ったらただちに引き返すべし。
自分自身を守ることを優先して欲しい。
中学三年の七月だった。
プールでの水泳の授業、飛び込みの練習の時のことである(最近では中学校体育では飛び込みは禁止されているが、当時は禁止されていなかった)。
私は飛び込みができなかった。
一人飛び込み台に取り残されていた。
元々体育が苦手だった。走るのも飛ぶのも投げるのも泳ぐのもまったく駄目だった。
それでもできるだけのことはしたと思う。
五段階評価で2がせいぜいだったが。
とはいえ、できないこともある。
それが飛び込みだった。
まず臆病だった。思い切りがない。度胸がない。
水の面を見ているだけで目が眩んできた。
というか、強度の近視なので眼鏡を付けずに臨む水泳の授業は足元がはっきりしないからプールサイドを歩くのも怖かった。
水面と距離感がつかめない恐怖があった。
水泳ができる人は、馬鹿じゃないの、さっさと思い切って飛び込めばいいじゃないのと思うだろう。
正しく飛び込みさえすれば事故はないんだからと。
確かにそうだ。頭ではわかる。でも頭でわかっているからといって身体がその通りに動けば苦労はない。
追い打ちをかけたのは体育教師の言葉だった。
それだけで私は委縮し、緊張し、身体を動かせなくなった。
(当時は何故自分の身体が動かなかったのかわからず言葉にできなかった。この文を書くにあたって当時のことを思い出すと、教師の声と言葉で緊張したのではないかということに思い当って委縮という言葉を用いた)
何故この人はこんな言い方をするのだろうか、私にはわけがわからなかった。
言いたいことはわかる。
わかるのだけれど、違和感があった。
何故そういう表現になるのか。
私は半ば打ちのめされてしまった。
いや半ばではない。相当衝撃を受けていたのだと思う。
なにしろ、この時の言葉の影響はこの先数十年続いた。
忘れたつもりでも、寝入りばなに突然思い出すと無性に胸が苦しくなり頭がかっかとしてきたり。
同時に憤り(それがふがいない自分に対してなのか、発言をした彼女に対してなのか、それすらもわからないまま)を覚え、数時間眠れぬこともあったり。
そういう言葉を投げかけられて、反発して飛び込むことができるなら、もう少し体育の成績はましだったのかもしれない。
だが、反発できないほど私は言葉に打ちのめされた。
この後のことは覚えていない。
ただ次のプールの時のことは覚えている。
たまたま前日に生理が始まってしまった。
気が進まぬまま、他の女子とともに体育科の職員室に行き生理なので見学したい旨を告げた。
明らかに彼女は生理を疑っているように感じられたが、見学は認められた。
私はモヤモヤした気分のまま、プールサイドで他の生徒とともに見学した。
彼女の授業を受けたのはこれが最後だったと思う。
なぜなら、私は父の仕事の関係で転校することになったからである。
二学期、私は数百キロ離れた中学校に転入し、その後その地の公立高校に入学した。
高校ではプールの授業はあったが、飛び込みはなかった。
25メートル泳げない生徒は夏休みに補習があった。
泳げないからといって、彼女の口から飛び出したような言葉を向けられることはなかった。
もし父に異動の辞令が出ず、再び二学期に彼女の授業を受けることになったとしたら、私は冷静に授業を受けることができただろうか。
そもそも学校に行くことができただろうか。
今にして思えば、私にとっては幸運な人事異動だったのかもしれない。
ここまで読んで体育教師の言葉が具体的に書かれていないのを不審に思っている方もおいでだろう。
実は私も書こうと思ったのだが、なかなか書けない。
私にとっては書くことすらためらわれる言葉だからかもしれない。
何より、私は口に出すこともできない。
だから、この一件をこれまで家族にも話していないし、今後も話すつもりはない。
それほど衝撃が大きかったということかもしれない。
高校を卒業し大学に入っても、折につけ彼女の言葉を思い出し、私は眠れぬ夜を過ごすことがあった。
就職した後は思い出す暇もないほど忙しかった。
けれど、数年に一度言葉は私を苛んだ。
さらには私の行動を抑制した。
あの頃の彼女の年齢を越しても。
少しだけ彼女の境遇を想像してみたい。
彼女には焦りがあったのではあるまいか。
彼女の雇用形態は非常勤講師という不安定なものだった。
四月の新任式でそう聞いたのを覚えている。
非常勤ということは一年契約だから来年はあるかどうかわからない。
少しでも実績を作りたかったのかもしれない。
落ちこぼれ(当時はまだそういう無神経な言葉はなかったが)を出すまいと懸命だったのではなかろうか。
その意欲が空回りしてあんな言葉になったのか。
あるいは、彼女自身が誰かに過去同じ言葉を言われたのではないか。
様々に想像するが、転校して以降、彼女の噂は聞かないので真相はわからない。
たとえ真相を知る手段があったとしても、今更知りたくはない。
知ったところで、私の受けた衝撃は消えないのだから。
それに、彼女が言葉で私を傷つけたように、私も知らぬうちに人を傷つけているかもしれない。
いや、傷つけているに違いないのだ。
恋の話を書けば恋に傷付いた人を、病の話を書けば病に苦しんだ人を、人を殺める話を書けば悪を憎む人を苦しめているのではないか。
ふだんの生活の中でも御近所さんや家族を傷つけているのではないか。
そう思えば私だって彼女を被害者面して責められるような人間ではないのだ。
だからといって、彼女の吐き出した言葉を許すほど寛大にはなれない。
私の中にこっそり隠れている十四歳の私は決して許しはしないだろう。
分別があると思われる年齢になったって、幼い私や反抗的な私は隙さえあれば顔を覗かせるのだ。
こうやって書いているうちに少しは冷静になってきたような気がする。
気がするだけであって、実際は違うかもしれないが。
そろそろあの時、体育教師が言った言葉を書くべきだろう。
剥がれかかったかさぶたは完全に剥がさねば落ち着けないのだ。
中学三年の七月。
場所はプールの飛び込み台。
他の生徒が飛び込んだ後、いつまでも飛び込めなかった。
彼女は言った。
ここにおぼれている子どもがいると思いなさい
あなたが飛び込んで助けないとおぼれるよ
さあ 飛び込んで
早くしないと子どもはおぼれ死ぬ
早く 飛び込みなさい
早く
あなたには愛はないの
あなたには愛がないから飛び込めない
あなたには愛がない
私は十四歳だった。
愛がないと彼女は断言した。
私は言葉の重さに動けなくなってしまった。
今思えば、たかが学校の体育、水泳の授業である。
今の私なら生徒の人格を否定する教師にふさわしくない言動だと訴えるだろう。
だが昭和の中学生にとって教師は絶対的存在だった。
言われたことも絶対だった。
親に話すこともできず悶々とするだけだった。
私は怖くなった。
水辺に行くと、どうか人が溺れていないようにと願った。
恋らしき感情を覚えても、気持ちを伝えることができなかった。
私には愛がないのだから、愛することなんでできないだろうから。
彼女の言葉は呪いのように私を縛った。
幸いにして呪いの効果は薄まった。
就職先に職場の人間の人格を否定しまくる怪物がいたのである。
彼女など可愛いものだった。
上には上がいる。
思い起こせばストレスからか病人の多い職場だった。
私も体調を崩した。
それがきっかけでこんなところにいたら死んでしまうと思い離脱した。
ほぼ同時期に伴侶と出会った。
伴侶は愛という言葉を使わずに愛を表現できる人だった。
それにしても長い呪いだった。
今も思い出すと無性に腹が立つので、やはり憤りは治まっていないのだろう。
これを読んだ方の中には、この程度の言葉でと思われる方もおいでだと思う。
きっと相当な修羅場をくぐってこられたのだろう。
修羅場を生きてこられたそういう方々には敬意を表するしかない。
そういう方々から見れば私はまだまだ未熟な人間だ。
でも、もっと未熟で多感と思われる十四歳に対して言っていいものかと思うのだ。
惻隠の心といって井戸に落ちそうな子どもがいれば皆助けようとすると言ったのは孟子だった。
彼女にとっては、溺れた子どもを飛び込んで助けないのは惻隠の心のない者、仁の心のない人でなしだということだったのだろう。
でも愛がないと断言するのはどうかと思う。
大体、愛という言葉は軽々しく使える言葉ではないと思う。
恋愛物の話を書いていると特にそう思う。
愛してると最初からヒロインに言いまくるヒーローがいたとしたら、ちょっとどうかと思う(私見)。
ここぞという時に愛という言葉を口にするから物語は盛り上がると思うのだが。
愛という言葉は重いのだ。
剥き出しのまま使える言葉ではないと思う。
取り扱い注意の言葉と言っていいのではないか。
体育の先生はそんな言葉を使ってまであなたのことを懸命に指導しようとしたのだ、感謝すべきだとおっしゃる方もおいでだろう。
だが、受け取る側にとっては巨大な重い石を投げつけられたようなものである。
そのまま受け取ったら身体は強いダメージを受ける。
逃げたら逃げたでまた別の石が飛んでくる恐れがある。
どうせ石を投げつけるなら小さくて丸い軽石にして欲しいものである。
考えてみれば、これは体育の授業中の話である。
授業なのだから、どういう姿勢で飛び込めば安全に飛び込めるか、飛び込んだ後、水の中でどういう姿勢でどうやって息継ぎすれば怖くないのか、恐怖を克服する方法、緊張した身体の弛め方を教えて欲しかった。
突然、溺れている子どもを助けないといけない状況を想像させるとか、無茶にもほどがある。そんな状況を想像したらよけい委縮してしまうことが彼女には想像ができなかったのだろうか。
さらに論理は飛躍し、愛という言葉が飛び出す。
こんな重い言葉を受け止めなければならない中学生の身になって欲しい。
その上、「愛がない」である。
飛び込み台で晒し者状態になっているところにこう言われたら、どうすればいいのか。
思い切って飛び込めばいいじゃないかと仰せの方がいるかもしれないが、緊張しきった身体は身動きがとれない。
ただただ恥ずかしさ、ふがいなさを感じるしかない。
これは極論かもしれないが、もし現在「あなたには愛がない」とさほど親しくもない知り合い程度の人から断言されたらどういう事態になるだろうか。
そんなことを言う人間をどうかしていると思う人が大半だろう。大方の人には愛する人がいるのだから。
愛はないけど金ならあるよと答える人もいるかもしれない。金があれば愛は手に入ると思う人もいるらしいから。
だが、言われた人がもし失恋したばかりの人だったら、孤独の中で貧困にあえぐ人だったら、性的少数者だったとしたら……。
言われた人の困惑、苦悩等等を少しでも想像してみたら、これは言ってはならない言葉だと思う。
最悪、何らかの悲劇的な行動の引き金になってもおかしくない言葉である。
そうでなくとも、私みたいな未熟者は呪いのように縛られてしまうのだ。
禁断の言葉だと言っていい。
それを言っちゃあおしまいよ、である。
もし、あなたの周囲で「あなたには愛がない」なんて言う人がいたら、全速力で逃げたほうがいいと思う。
言われたほうの気持ちなんぞ考えないヤカラなのだから。
他にもあなたを傷つける言葉をあたかもあなたのことを心配しているような顔で平気で言える人がいたら逃げたほうがいい。
まともに相手をしたら、傷付くばかりである。
逃げるのは恥ずかしいことではない。
自分自身を守ることを最優先にして欲しい。
生きていれば呪いは多少は薄まるかもしれないのだから。