第7話 過去と現在
『なぁ、兄弟。お前は確かに今は、自我のある生き物にとって脅威となる、恐ろしい存在だ。だがなぁ、私は他の兄弟のように、お前が常に危険な存在であるとは思わないのだよ。お前の存在は、ある意味、普遍ではあるのだろう。しかし、不変ではない。どれだけの時間がかかるかはわからないが、いつか、お前も私たちに近づける日が来ると思うのだ』
真船慎也の兄弟の中で、最も彼に説教をする回数が少なかった兄弟は、かつてそんなことを慎也に言い、彼の返事を聞かないまま、長い長い眠りについた。
慎也は、自分があの時、兄弟に何と返事をしようとしたのか、今ではもう思い出せないでいる。
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真船慎也は、その日の夕方、浅宮理香の通う県立高校にほど近い場所にある市立公園のベンチで、1人の老人と隣り合って座っていた。
老人は、慎也の友人といえる、数少ない生き物の1人である。慎也が老人に託していた面倒事について、老人に知らせなければならないことがあったために、慎也は老人とおよそ6年ぶりに会っていたのだ。
2人の会話は、時間にすれば僅か15分程度の非常に短いものだった。話が終わると、老人はベンチから立ち上がって、慎也に向かって深々と一礼した後、かくしゃくとした足取りで去っていった。
この短い邂逅の後、ちょうどこの公園で理香と会う約束をしていた慎也は、先ほどの老人との会話で言われた言葉を思い出して、自然と口元を綻ばせた。老人は別れ際、慎也に向かってこう言ったのだ。
『何年か会わないうちに、貴方も随分と人間らしくなりましたなぁ』
慎也が老人に初めて会ったのは、老人がまだ青年だった頃である。
老人は当時、ほぼ瀕死の状態で、自分の所属していた部隊の、他の仲間が塵屑のように積み上げられている死体の山の中に、ひっそりと埋もれていた。ろくに身体が動かない状態で、全身を苛む激痛と仲間の遺体の重みに苦しんでいた老人を助けたのが、慎也だった。
その時、慎也は現在の【真船慎也】という存在ではなかったが、何となく、その時たまたま目の留まった老人を気まぐれで助け、慎也と老人の付き合いが始まったのである。ほとんどは手紙や電話での間接的なやり取りで、老人と慎也が直接会ったのは、初めて会った日から今日を含めて、まだたった3回目であった。
慎也は、初めて老人に会ったとき、彼に「お前は敵か」と尋ねられて、静かに微笑んで「否」と答えた。
その後、慎也にとっては様々な雑事を片付けた後、故郷に帰った老人との手紙のやり取りの中で、慎也は彼に、自分のことについて様々な問われ方をした。「御仏の遣いか」「神か」「悪魔か」―――実に色々な問われ方をした。日本が復興し、世界中の思想・文化が取り入れられていく中で、戦争を体験した世代に生まれたにしては、非常に柔軟にそういった文化を吸収していった老人の問いかけは、慎也にとっても面白いものであった。慎也も聞いたことがない神話の中の怪物の名前を出されたこともあるから、老人はいっそ慎也の正体を掴む為に、敢えて様々な国の文化を調べていたのかもしれない。
しかし、戦争の中で地獄を見たからか、自分を含めた人間の善良な面も醜悪な面も嫌と言うほど知っていた老人は、最初に会ったときから、慎也の異質性を本能的に見抜いており、慎也は彼に【人間】として扱われたことは一度もなかった。
それなのに、彼は今日初めて、慎也のことを「人間らしくなった」と評した。それは慎也にとって、思いがけず嬉しい言葉であった。理香への恋心を自覚してからというもの、彼女に近づけるように日夜努力している慎也にとっては、最高の褒め言葉である。
もっとも、人間がどんなに努力してもヒトから魚や鳥に変わることができないように、慎也の本質は変えることができないから、彼が完全に彼女と同じ生き物になることはできないが、それでもいいのだ。とりあえず、浅宮理香の命が尽きるまで、彼女にとって自分の存在がなるべく【人間】という生き物に近く、そして害悪でない存在であれば。慎也はひとまず、安堵した。
ついこの間は、初めて浅宮理香の家族と遭遇したことだし、理香と今後も一緒に過ごすには、やはり彼女に最も近い位置にある血縁者にも面識をもっていなければなるまい。
そのような発想も、つい最近思いついたことで、慎也はとりあえず理香の外堀もきちんと埋めておくことに決めた。ついでに、新しい住み込みの家政婦を募集しなければ、とも思う。未成年がひとりきりで豪邸に住んでいると、色々怪しまれるのだ。慎也はとりあえず、次の家政婦は3ヶ月は保たせるように努力しよう、と思った。慎也の自宅は慎也の生活の拠点となっていることもあり、頻繁に慎也の領域が開きやすいのだ。
慎也がそんなことを考えていると、携帯電話のメールの着信を告げるメロディが流れた。確認すると、慎也の予想通り理香からのメールで、待ち合わせの時間に遅れた謝罪と公園内の何処にいるのか、という内容だった。
時間を見ると、現在午後5時10分。たかが10分遅れた程度で謝るなど、理香らしい。微笑ましく思いながら、慎也は今いる場所を打ち込むと、最後に急がなくていいよ、と書いてメールを送信した。
携帯電話を畳んでジーンズのポケットに仕舞込み、慎也は静かに目を閉じる。遠い故郷にいる、慎也の兄弟たちは今、何をしているのだろうか。
慎也の兄弟たちは慎也と全く似ていないが、理香の兄はサンショウウオっぽいところを除けば、理香とよく似た気配をしていた。顔も体格も似ていないが、あの2人は間違いなく兄妹だ。
自分以外の他者との交わりによって自らの係累を残すことのできる生き物は、慎也の兄弟たちからすれば羨ましい存在らしく、それについての兄弟の愚痴を、慎也はよく聞かされていた。その時は、兄弟たちが何故そこまで羨ましがるのかよくわからなかったが、今なら慎也も何となく理解できるように思う。
慎也も、理香が慎也との間に子どもを作れたら、きっと楽しいことになる、と思う。他の兄弟では無理だが、慎也には恐らく、理香との間に子どもを作ることもできるだろう。それはなんだか、とても素晴らしいことのように思えた。
理香の気配が近づいてきたのを感じて、慎也は目を開けた。もうすぐ、彼女が慎也の前に姿を現すだろう。そう思うと、自然と顔が綻んでいく。
今日、老人との別れ際に、慎也は初めて、自分が【何】なのか、ということについて、否定以外の答えを返した。褒めてくれたので、そのお礼のつもりだったが、老人は慎也の言葉を聞いて一瞬きょとんとした後、爆笑した。何やら『なるほど、貴方にはぴったりだ』とかなんとか言っていたが、何がそんなに面白かったのか、慎也にはよくわからなかった。
『僕は神でも悪魔でも超能力者でもないけど、兄弟たちは警戒していたね。僕のことを魔王、とか呼ぶ兄弟もいたけれど』
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今、あの兄弟はどうしているだろうか。
慎也が故郷を離れる際、長い眠りについた兄弟を思い出して、慎也はふとそんなことを思った。
慎也は今なら、あのときの兄弟からの問いかけにこう返す。
「確かに、時間はかかったけど、変わっていくのも悪くないね、兄弟」
呟いて、慎也は軽く手を挙げる。小走りで、理香が慎也の方へと駆け寄ってくる。老人に託していた面倒事が片付いた代わりに、また新たな面倒事が増えたし、自分の能力の制御についてもまだまだ問題がある。しかし、彼女と一緒にいられるなら、そんなものは些事にすぎない、と慎也は思っているのだ。
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人間に近づくために変わっていく異形。
彼の決意は固く、想いは熱を孕んでいく。
彼の思い描く、素晴らしい未来にむけて。
余談:
真船君に外堀をせっせと埋められそうな理香。
真船君はまず最初に逃げ道をなくしておくタイプです。理香は正々堂々、立ち向かおうとするタイプです。