第4話 暗闇の決意
※後半部分に、ぬるいカニバリズム表現があります。苦手な方はお避けください。
『お前は、周りを不幸にするよ』
真船慎也は真っ暗な部屋の中で、遠い昔、兄弟の一人に言われた言葉を思い出していた。
『お前は何が善いことで、何が悪いことなのか、判断することができないのだろう。お前のような存在は、自我のある生き物を不幸にするよ』
慎也は自分が寝転がっているキングサイズのベッドの枕元においていた携帯電話を開けて、時間を確認した。現在、午前0時30分。もう日付が変わってしまったことを知り、ため息をついた。
『お前は存在自体が不自然なんだよ。私たちと兄弟なのに、私たちよりも異質だ。だから、お前が自我のある生き物と一緒にいるのは、とても不自然なことなんだ』
兄弟の言葉が正しいことを、慎也はよく理解している。
慎也は正しいことと間違っていることの判断はつくが、善悪の判断はつかない。そのせいで、慎也は何度も慎也の近くにいた生き物たちを不幸にした。だから慎也は、慎也の故郷で他の兄弟と過ごした以外、長い期間にわたって他の生き物と一緒に過ごしたことはない。
慎也は、兄弟の一人が指摘したように、無意識のうちに他の生き物の自我に影響を与えていることがある。慎也が気づかないうちに、慎也の領域の中に相手を取り込んでしまうことがあるのだ。
だから、今から七時間ほど前まで慎也と一緒にいた相手、浅宮理香という小さな可愛らしい生き物に、「なんか、おかしいよね、私たち」と言われたとき、慎也は実に久々にうろたえてしまった。
たしかに、慎也と理香が初めて出会ってから今まで過ごしてきた時間はけっこうな長さになる。
理香は度々慎也の領域の中に取り込まれても、他の自我のある生き物のように発狂して死んでしまったり、壊れて人形のようになってしまうことがない、非常に貴重な生き物だ。慎也のことを怯えず、毎回素直に助けを求めてくる。
理香に初めて会ってから数回、無意識に慎也が理香を取り込んでしまった際、理香が怯えて泣きつつも、決して慎也を拒絶したり、発狂したりしなかったため、「何回くらいなら理香ちゃんは無事でいられるんだろう」という純粋な興味から、慎也は理香を構い続けてきた。時には意識的に理香を領域の中に取り込むこともあった。
ただ、最近慎也は、単に理香と二人でいたいという衝動を抑えきれず、理香を慎也の用事につき合わせたり、無理に領域に取り込んだりしている。
理香の泣いた顔や怯えた顔が無性に見たくなり、理香が心細くなって慎也の上着を握り締めてくる度嬉しくなる。ほわほわした能天気そうな理香の笑顔も、真っ赤になった怒り顔も、どれも堪らなく可愛らしい、と思う。そして、そんな風に理香のことを考えると、慎也の胸のあたりが奇妙に熱くなるのだ。
慎也のそのような変化が、領域にも表れているのか、この間二人で行ったカフェテリアでは、初めて慎也の領域の一部が、理香に自ら接触しようとした。
そして、今から十時間ほど前に、理香に「おかしいよね」と言われて、初めて慎也は、自分と理香が一緒にいることが日常になりつつあることに気がついた。
本来、理香のような生き物とは全く異なる存在である自分が、共に時間を過ごすのは極めて不自然なことなのだ。それをいつの間にか自分が自然なこととして過ごしていた事実に、慎也は少なからぬ衝撃を受け、自分の危険性をすっかり忘れていたことを恥ずかしく思った。
しかし、「これから、どうなるんだろう」という理香の問いに、慎也は自分の望みをそのまま伝えた。自分の存在が理香のような生き物とは相容れないことはわかっているが、「これからも、ずっと理香ちゃんと一緒にいたい」と。
思えば、慎也がそのような願望を持ったのは、彼が作られて自我を持ち、動き出してから今日までの気の遠くなるような長い時間の中で、初めてのことである。
慎也は自分の変化に驚きつつ、それを自然と受け入れた。これが、慎也の兄弟たちがかつて、彼に散々説明していた『恋』というものなのかもしれない、と漠然と理解し、この調子なら自分もその内、兄弟たちのように他の生き物と同じような存在になれるかもしれない、と慎也は淡い希望を抱いた。
理香はあの後、真っ赤になって固まって、何やらむにゃむにゃと言って、それから怒ったように「数学教えて!」と慎也に怒鳴ってきた。そしてその後はいつも通り、慎也が理香の家まで彼女を送っていったのだ。思えば、理香と別れる瞬間がやけにつまらなく感じられるようになったのも、最近のことである。
慎也は体を起こすと、寝室の扉を開けて廊下に出た。長い廊下には一切明かりは点されておらず、庭に面した大きな窓も今夜は曇っているせいか夜空の光を全く差し込ませていない。慎也の寝室と同様に、廊下もまた暗闇である。
その暗闇の中、くぐもった女の呻き声が聞こえてくる方へ、慎也は足を進めた。ぐちゃぐちゃと生肉を咀嚼する音とずるずると血液をすする音が段々大きくなっていく。それに比例して、女の呻き声は小さく、断続的になっている。
やがて、廊下の端、階段の前で慎也は足を止める。20代後半の若い女性が、壁に背を預けて座り込んだまま、何かを呻きながら自分の右腕の肉を食いちぎっている。左腕はもうとうに食い尽くしたのか、ところどころ肉片がこびりついた骨しかない。慎也は女の前に転がっている、原型がわからないほど顔をぐちゃぐちゃにされた死体を見て、ため息をついた。その死体は顔をぐちゃぐちゃにされているだけではなく、大きく引き裂かれて広げられた腹の中に、無理やり食いちぎられたと思しき両手足が内臓に挟まれるように差し込まれている。
慎也は二度、強く両手を打ち鳴らした。大きく空間が震えて、次の瞬間、元通りになった。慎也の前には白目を剥いて泡を吹き、気絶して倒れている50代の女性と、壁に背を預けたままうつろな眼をして、半開きの唇から涎を垂らし続けた状態で座り込んでいる若い女性がいるだけである。
「そろそろ壊れるか、死ぬかな…」
そうなる前に解雇して、また新しい住み込みの手伝いを探さなくてはならない。慎也はそう思いながら、指を鳴らす。2人の女性は正気に戻らないまま、操り人形のようなガクガクとした動作で立ち上がり、自分たちの部屋へと帰っていった。
このことがばれたら、慎也は理香に間違いなく嫌われる気がする。とにかく、理香と過ごす未来のために、もう少し自分の能力を制御できるようにしなくてはならない。
慎也は決意も新たに、寝室へと戻っていった。
遠い昔、この地へ流れ着いた異形は恋を知り、変わり始めた。
小さく弱い生き物を傷つけぬよう、その存在に近づけるように。
余談:真船君は「好きな子を苛めたい」タイプではありません。ただ単に理香の泣き顔が好きなだけです。彼に「理香を苛めている」という認識は皆無です。真船君は基本的に、彼の中にある規律に基づいて物事を判断しており、そこに一般的な善悪の判断は介入しないので。面倒くさい奴です。