第3話 未来の選択肢
「それって幼馴染じゃないの?」
小学生のときからずっと今まで一緒にいるんでしょ、という歩美の言葉に、現在、『不思議』のことを除いた全ての真船慎也に関する情報を吐かされている理香は、首をかしげる。
「でも、一回も同じ学校になったことないし、家も反対方向なんだよ。大体、私も真船君も、どっちの家族にも会ったことないし」
理香の中では、幼馴染、というのは小さい頃からずっと一緒のご近所さんで、家族ぐるみの付き合いをしている間柄、という認識がある。理香と慎也は小学校四年生の頃に出会って以来、ずっと交流を続けているが、そこに他の第三者の存在が介入したことはないのだ。
「はぁ?! 家族に会ったことないの?! だめだよ理香ちゃん、いい男を確実に捕獲するにはまず外堀をしっかり固めとかないと!」
捕獲ってなんだ。ハンターか。
ハンターというより獲物を狙う腹を空かせた肉食獣のような眼で言う歩美に、理香は引きつった顔で言った。
「いや、真船君の家には行ったことあるんだけどね、親御さんは海外出張多くて顔を合わせたことないんだよ」
「じゃ、チャンスじゃん! 親がいない隙に捕獲して奪っちゃいなよ!」
何を奪うんだ。
やたらと眼をぎらつかせて鼻息も荒く言い切る歩美に、理香は内心少し引く。普段は大人しくて可愛らしい容姿の少女がする雌豹のような顔は、割と怖い。
「あー、というかね、あゆみん。ずっと普通に友達だったとして、そういう関係って、変わっちゃうもんなの?」
ぎらつく歩美の目から視線を外しつつ、理香はとりあえず聞きたいことだけ聞いて、さっさとこの小さな肉食獣の前から逃げ出そう、と決心した。
「そりゃ、男女で永遠の友情が成立する場合もあると思うけど。でも、やっぱりずっと一緒にいる身近な異性っていうのは最初に意識するもんだと思うよ。幼馴染でなくっても、父親とか兄弟とか、近所に住むお爺さんとか」
「いや、爺さんを意識するのは明らかに系統が違うだろ」
それは孤独死を心配してとか、そういう意味での意識ではないのか。
「恋に年齢は関係ないの! 問題になるのは実際に手を出したのかどうかだよ!」
「うん、納得はできるけど問題発言だよね、それ」
お願いだからその可愛い声で「見てるだけなら問題ないんだよ、げへへ」といった類のストーカーの主張のようなことを言わないでほしい、と理香は切実に思った。
「でも、理香ちゃんの話を総合するに、普通なら中学生の時点で起きてそうな変化が2人の間に今、訪れてるって感じだよね」
歩美はそう言って、今度は雌豹から魔女の妖しい笑みへと表情を変えた。
「だって、理香ちゃんたちの関係って、幼馴染ほど近くはないから絶対に身内には分類されないし、友達っていうには閉鎖的だし。ある日突然接点がなくなっちゃって終わっちゃうか、完全にくっついちゃうかのどっちかしか、未来がないって気がする。
理香ちゃん、別にそのマフネ君のこと、嫌いじゃないんでしょ? じゃあ、問題ないじゃない」
付き合っちゃいなよ、と言って、歩美はにっこりといつも通りの笑顔を見せた。
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そんなことを歩美に言われた日の次の週に始まったゴールデンウィークの二日目に、理香は自宅と反対方向に位置する閑静な高級住宅街の中にある、慎也の家に来ていた。
慎也の家は、ここに普段住んでいるのが慎也と住み込みのお手伝いさん二人だけ、というのが明らかに空間の無駄遣いだと理香に真剣に思わせる、非常に広い上に豪勢な4四階建ての建物である。
その建物の四階にある慎也の娯楽室(という名の広くて豪華な応接間である。慎也の部屋は勉強部屋・寝室二部屋・娯楽部屋三部屋に分かれている)の一室で、出されたジュースと持参した手土産のケーキを食べつつ、理香は慎也に苦手科目である数学を教えてもらっていた。理香の高校ではゴールデンウィーク明けの次の週から、中間考査が始まるのである。
「理香ちゃんの学校って、運動部の数が多いんだっけ」
理香には理解不能な細かい外国語がびっしりと並んだ本を読みながら、慎也がそんなことを言った。
「うん、そうだよ。結構強い部活も多いから、夏の大会にテスト日程が被らないように、今年から変更になったんだよ」
中々解けない数式と格闘しながら、理香が答えた。帰宅部とか文化部の生徒にはいい迷惑だが、これは長年多くの運動部生と運動部顧問から要求されていたことで、五年がかりで生徒会が教師陣と掛け合って、今年から変更されたのである。
「理香ちゃんの学校って、生徒が積極的に動いてるよねぇ。うちの生徒会なんて形だけだよ。みんな勉強ばっかりしてるし」
まぁ、その分成績さえ良ければ基本自由なんだけどね、と言って慎也は向かい側から理香のノートを覗き込む。
「理香ちゃん、これ、最初の考え方からして違う。というか何でこの問題でこの公式が出てくるの?」
形のいい眉を寄せて、怪訝そうな顔で言われて、理香は「うっ」とつまった。
「だって、そうなると思ったんだもん」
「そうは考えないよ、普通。理香ちゃん、基本問題はちゃんとできるのに、なんで応用問題になると途端に駄目なのかなぁ。国語科目は毎回満点近いから問題文の内容を理解するだけの読解力はあるはずのに」
馬鹿にするでもなく呆れるでもなく、ただただ本当に不思議そうに言われて、理香は凹んだ。いっそ貶された方がましな気がする。
「まぁ、大丈夫だよ。これくらいの問題なら、テストに出てもちゃんと解けるように教えてあげられるから」
何かに絶望したような表情で自分を見つめる理香に苦笑して、慎也は理香の隣に座るとシャーペンを握って何やらノートに数式を書き出した。
その慎也の端整な横顔を見つめながら、理香はふと歩美から言われたことを思い出した。
(ある日突然、真船君との接点がなくなってそれっきりになる……)
自分と慎也の関係の、一つの決着のつけ方として、それは「二人が完全にくっつく」ことよりもずっと、自然なことであるように理香には思えた。
慎也の態度が変化してきた最近になって、ようやく理香は、客観的に見ると慎也と自分が釣り合いの取れていない存在である、ということに気がついた。
それまで、慎也との交流は、理香にとって第三者が介入するものではなかった。むしろ、歩美に「閉鎖的」だと言われて初めて、そのことを理香は自覚したのだ。
理香は慎也といる際に起きる『不思議』に怯えることはあっても、何をされても慎也の存在自体に恐怖を感じることはなかった。そして、慎也と理香との関係に、他者の存在は必要とされていなかった。
それはつまり、理香にとって慎也が無意識のうちに絶対的な存在になっていた、ということではないだろうか。また、今まで続いてきた慎也と理香の交流は、ひどく異常なものだったのではないか。
「真船君」
思わず、理香は隣に座る慎也の上着の裾を握り締めて、彼の顔を見つめた。慎也はきょとんとした顔で理香の方を見た。
「なんか、おかしいよね、私たち。これから、どうなるのかな」
言葉を吐き出した直後、理香は激しい羞恥と自己嫌悪に襲われた。
慎也といることについての漠然とした不安を、意味不明な単語の羅列として、張本人に言ってしまったのだ。これではただの変な女だ、何言ってるんだ私は、と内心でうめく。
そのまま、「ごめんなさい何でもないです今の言葉は忘れてください」と土下座しようとして、理香は慎也の顔を改めて見て、固まった。
慎也は、ほんのりと頬を染めて、うろたえたように視線をさまよわせていた。
(……真船君の照れた顔初めて見た……。い、色っぽい……)
十六年ほどの人生の中の「ビックリ場面ベスト1」である、慎也との初対面時に階段から突き落とされた時に勝るとも劣らない驚きに、理香はそんなことを思った。
「……うん、まぁ、そうだね。僕も今まで気がついてなかったけど、おかしいよね、うん」
視線をあちこちにさまよわせたまま、慎也はそう言った。そして、握っていたシャーペンを置いて、両手で理香の両頬をそっと挟み込む。
「理香ちゃんがどうしたいのかは、わからないけど。僕は一番不自然な状態でいたい……うん、理香ちゃんが言うところの、『おかしい』状態でいたい、かな」
そう言う慎也の、理香の頬に添えられた手は冷たいのに、声と視線は確かな熱を持っていた。
「不自然って?」
「うん、つまりね」
今まで通り、これからもずっと、一緒にいたいってことだよ、と言って、慎也は柔らかく微笑んだ。
理香は慎也のその言葉に、二人を今まで守っていた何かの壁が壊れた音を、聞いた気がした。
変化は常に起こっている。ただ、それに気がつかないだけで。
緩やかに変わっていく気持ちは、何をもたらすのだろう。