第2話 色づく時間
頭の良い人間には三種類いる、と浅宮理香は考えている。
単純に知識があり成績が良いだけの人間と、その知識を自ら発展させ未知の発見をする人間と、これらの人々から要領よく必要な情報を抜き取っていく人間の三種類である。
「この考え方からいくとあゆみんは三タイプのどれにも当てはまらないよね。ただで英語の予習写させてもらえると思ったか、この間抜けめ!」
「理香ちゃん酷いよ?! あ、鞄を漁らないでー! それ私の部活前の栄養補給源のポッキー!!」
ぽかぽかと春の日差しが暖かい昼休みの教室。
去年に続き同じクラスになった友人の佐々木歩美に「次の英語の授業の予習を見せて!」とお願いされた理香は、ちょっと歩美を弄くりつつも英語のノートを貸してあげた。
佐々木歩美は少し癖のある髪をいつもポニーテールにした、クラスで唯一理香と同じ身長の少女である。しかも、童顔という密やかな悩みまで同じ。
まだ高校生なのだから、童顔で子どもっぽく見えるのは普通に考えれば仕方がないのだが、他の大人っぽい女子と比べて、自分たちの容姿に微妙にコンプレックスを持ってしまっている二人は仲が良い。
「でも、びっくりしたねぇ。まさか王子と一緒のクラスになるなんて」
無事ポッキーの箱を理香から奪還した歩美は、自分の英語のノートを机の上に広げながら理香にこっそり耳打ちした。
王子。はて。
「ああ……。去年、入学早々、形骸化していた園芸委員会を生徒会と教師陣に掛け合って取り潰した挙句、自分で園芸部作って毎日学校の敷地内で野菜をせっせと栽培してる園芸王子の東城君ね」
理香はちらっと歩美の左隣の席を見る。
「……まさか隣の席になるなんて……。あの人なんで理系クラスじゃないの? 農学部目指してるって噂で聞いてたんだけど。それに私、前に東城君が化学と生物と家庭科の先生相手に、有機栽培の長所と短所について激論交わしてるの見たことあるよ」
「なんか、聞いた話じゃうっかり丸つけるの間違えて文系にしちゃったらしいよ。先生も、東城君なら三年から理転しても問題ないから本人確認しなかったとかなんとか。席はもう仕方ないね、他の子の視線が痛いのは今月いっぱいだよ。うちのクラス、何故か『あ』行と『か』行が多いから、『ササキ』と『トウジョウ』がくっついちゃったんだね」
やっぱそうなるか……と脱力する歩美の頭をよしよし、と撫でてやる。
園芸王子(ではなくその実体は農作王子、というのが良識ある教師陣と冷静な生徒の見解)こと東城悠は、何もその普通科高校に通う高校生にしては常軌を逸したかのような農作物への愛情だけで有名なのではない。
本人は純正日本人だと新学期の自己紹介の時に言い張っていたが、濃い茶色の髪に茶色の瞳、肌の色素は薄く、顔立ちは西欧系の非常に整った、それでいて優しげな顔立ちで、スタイルも同年代の男子生徒らの中ではずば抜けている。外見的に、正統派の「王子」系なのだ。
おまけに学校創立以来の秀才で、運動神経も抜群、性格も(農作物が関わらなければ)爽やかで人当たりも良い。園芸委員会の一件以来、校長と生徒会長とは仲が悪いらしいが、性別・学年の上下に関係なく理香や歩美の通う高校で最も人気のある生徒である。
したがって、隣の席で、授業によっては彼とペアになる歩美はかなりの数の女生徒から羨望と嫉妬の視線を受けているのだ。
「過激な王子ファンがいないからいいけどさ……。ねぇ、理香ちゃん」
憂鬱そうな溜息をつきながらノートを写していた歩美が顔を上げて、ニヤっと笑う。
「理香ちゃんのノートに、理香ちゃん以外のキレイ~な字があるんだけど、理香ちゃんの家って家庭教師雇ってたっけ?」
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(……なんで普通に誤魔化せなかったんだろう……)
先日の歩美との会話を思い出して、理香は小さく溜息をついた。
今日は土曜日、理香はいつも通り朝から慎也に拉致されて、色々と連れ回された挙句、現在、先月オープンしたばかりのカフェに来ていた。
店内はカントリー風の温かい雰囲気の装飾で、カップルだけでなく友達同士や親子連れの客も多い。
理香は注文してからずっと下を向いて携帯電話をいじくっている慎也の様子をそっと見つめる。
初めて慎也に会ってから今まで、理香は家族にも友達にも、慎也のことを話したことがない。両親は仕事で家を空けることが多く、休日は大体昼まで寝ているし、祖母も活動的に出かけるため、理香の家族は慎也に遭遇したことが一度もないのだ。そして、理香は友達にも慎也の存在を隠してきた。慎也のことを誰かに話すのは、なんとなく憚られたのだ。
しかし、先日の歩美とのやり取りで、歩美に何かを感づかれた。あの英語の予習は、確かに慎也に教えてもらいながらやった。その時ノートに色々と無意味な落書きもされたように思う。全部消しゴムと修正ペンでなかったことにしたはずなのに、一部残っていたらしい。
(真船君と私は、一体何なんだろう)
視線を慎也から自分の足元に落として、ふと、そんなことを思う。
多分、友達。理香以外は誰も知らない、秘密の友達。
ただ、最近になって、二人の間の空気が微妙に変化してきた。慎也が少し、変わってきたのだ。
理香はその変化に、漠然とした期待と不安をもっている。歩美に何かを感づかれたのは、良かったのかもしれない。自分でもどうしたらいいのかわからないこの事態を、第三者に客観的に判断してもらえれば、理香がもやもやと悩むことはなくなるのかもしれない。
「理香ちゃん、食べないの?」
慎也の不思議そうな声に、理香ははっとして視線を前に向けた。いつの間にか、理香の前には注文したフルーツタルトと紅茶が置かれている。理香の向かいに座る慎也は、コーヒーを飲んでいる。
「いや、食べるけど……」
「店員さん、理香ちゃんに声かけても反応ないから、ちょっと困ってたよ」
おかしそうに言う慎也に、むっとする。だったら慎也が声をかければいいのだ。理香は少し苛つきつつ、フォークを手に取った。
「新しいクラスはどう? 楽しい?」
静かに微笑んで問いかけてきた慎也に、理香はタルトを切り分けつつ答えた。
「うん、まぁまぁ。今回もあゆみんと一緒だし。王子がいるからちょっと外野が騒がしいけど、雰囲気もいいクラスだよ」
「王子?」
きょとん、とした顔で問い返してきた慎也に園芸王子について話してあげると、彼は少し眉を寄せて「変な人だね」と言った。
(真船君が言っちゃうかな、それ……)
理香からすれば慎也の方こそ『変人』だ。または『危険物』、もしくは『歩く天災』。
「でも、東城君はうちの学校でも有名だよ。去年うちの入試受けて、ほとんど満点の主席だったのにそっちの高校に進学したからさ」
普通は入試の点数なんて本人以外知らないのに、理事長とかが説得に行ったせいで他の生徒にばれて、僕らの代じゃ東城君って有名人なんだよねぇ、そんな変人とは知らなかったけど――と、のんびりと続けた慎也の言葉に、理香は素直に驚いた。慎也の通う高校は競争倍率の高さも凄いが、超進学校らしく入試も超難関なのだ。それをほとんど満点とは。
「東城君、ほんとにすごい人なんだ……」
「うちに来なかった理由については色々と噂されてたけど、理香ちゃんの話から考えると、東城君がうちの学校に来なかったのは、部活動が活発じゃなくて園芸委員会もなかったからだろうね」
だからやっぱり変人だね、同じクラスでかっこいいからってあんまり仲良くしない方がいいよ、理香ちゃん――と、慎也は理香の目をじっと見つめて言った。
(う……)
その、慎也の声と視線に込められた、柔らかな熱に少したじろぐ。今までとは違う、慎也の些細だが大きな変化が理香を困らせる。今までは、慎也の声も視線もこんな熱をもっていなかった。
「返事は?」
「う……、はい」
促されて、理香が慌ててうなずくと、慎也はにっこりと満足げに笑った。その顔を見ていられなくて、理香はとりあえずフルーツタルトと紅茶に意識を集中させようとテーブルの方へ顔を下げた。そして、
(……え?)
思わず固まった。
理香の前に置かれていた、まだ二口しか食べていない、色とりどりの果物がのったタルトの皿と手付かずの紅茶のカップの中に、大量の小さな白い花が溢れんばかりに盛りかえっていたのだ。
(え、何これ……。鈴蘭……?)
葉も茎もない、理香の記憶の中の鈴蘭に良く似た小さな花だ。多分、この真っ白な花の下にタルトと紅茶が隠れているのだろうが、よくわからない。
(え、え、え。ま、真船くんに……)
困ったときの真船慎也(ただし大抵の場合その原因も真船慎也)という経験則に基づいて理香は顔を上げようとしたが、できなかった。
溢れかえっている白い花々が、ゆっくりと変化し始めたのだ。小さな、丸まった花弁の先から、徐々に真紅が花弁の白を侵食していく。それと共に、むっとするような甘い匂いが漂ってくる。果物を大量に煮詰めてジャムを作るときに香るような、それよりもずっと濃い、甘ったるい匂い。
(う……)
やがて白い花々が真紅の花々に完全に色を変えると、それらは更に変化した。今度は花弁の先からどろりと液状に溶け出し、皿やカップから零れ落ちてテーブルの上に広がっていった。
甘い匂いが更に強くなり、息をするのが辛くなる。血液によく似た、けれど血液よりどろどろとしている真紅の液体は、ゆっくりと理香の方へ流れてくる。まるで意思があるかのように、ゆっくりと。
テーブルの端に液体がたどり着く。テーブルの形に合わせて液体が一筋の流れを作り、真紅の大きな雫がひとつ、理香の体に零れ落ち――――
「理香ちゃん、食べないの?」
慎也の不思議そうな声に、理香ははっとして視線を前に向けた。
コーヒーを飲み終えた慎也が、頬杖をついて理香を見つめている。理香は瞬きを数回繰り返して、それから自分の前に置かれた、まだ二口しか食べていない、フルーツタルトの皿と手付かずの紅茶のカップを見つめて、
「食べるよ」
つぶやいて右手でフォークを持ち、タルトに突き刺す。ちらりと慎也を盗み見ると、彼は理香を困惑させる、柔らかな熱を孕んだ瞳で理香を見ていた。
(わかってるよ)
理香は先ほど、テーブルから零れ落ちた真紅の雫を咄嗟に受け止めた左手を、慎也に見えないように無意識に握り締める。
もう、真紅の液体はなく、息苦しいほどの甘い匂いもない。けれど、なんの香りもない白い花が、真紅に色づいて甘く溶け出すのはあっという間だった。
(わかってるから)
慎也が促す変化に、理香はどうにか答えなくてはいけない。明確な言葉はなくても、声で、視線で、そして先ほどのような「不思議」によって、慎也は理香に気持ちを伝えているのだから。
(でも、怖いものは怖いってことは……わかってくれないんだろうなぁ……)
理香が慎也の受け入れられない部分と折り合いをつけるにはもう少し時間がかかりそうなのだ。
想いの色は人の数だけ。想いを伝える方法も。
期待と不安が混じる時間が、鮮やかに色づいていくから、恋は楽しく美しい。