第1話 日常の隙間
(あー、雨降りそう……)
午後4時を過ぎて急速に曇り始めた空を見上げながら、浅宮理香はそんなことを思った。
鞄の中から携帯電話を取り出して時間を確認する。現在午後4時33分。ついでに本日の天気予報を確認すると、午前も午後も降水確率は0%、絶好のお出かけ日和となるでしょう。
(天気予報って……当てにならない……)
どう見ても現在空を覆い始めている雲は雨雲だ。せめて通り雨ですぐ止んでくれるといいなぁ……とぼんやり考えていると、不意に肩を突付かれて、理香は後ろを振り返った。
「どうしたの? ぼんやりして」
座っている状態の理香に合わせてか、しゃがみ込んだ姿勢でそんなことを聞いてきたのは、現在理香がぼんやりとせざるをえない原因を作った人物である。
「……あのさあ、今日って春休み最後の日じゃない?」
「そうだねぇ。ここの桜、2本しかないし、おまけにもう葉桜になっちゃってるし、なんか楽しい時間はおしまいって感じで嫌だよねぇ」
「……普通さぁ、春休み最後の日っていったら、仲の良い友達とぱーっと遊びに行ったり、もしくは課題の追い込みしてたりするよね?」
「追い込まれるような課題を出されたことがないからわからないけど、理香ちゃんの課題は僕が手伝ってとっくに終わってるから何の心配もいらないし、今現在理香ちゃんは僕と遊んでるんだから、まぁ、そうなんじゃない?」
「いやいや、遊んでねぇよ!」
引きつった笑顔で言葉を紡いでいた理香は、いつも通りマイペースな返答をする相手の最後の言葉に、とうとうキレた。
「友達と一緒に遊ぶっていうのに、何の前触れもなく朝の8時から人の家に来て有無を言わせず連れ出した挙句電車の乗り換えしまくって隣の県の端っこの明らかにド田舎だろ! ってとこに連行して更に絶対地元じゃ心霊スポットとかに指定されてそうな山奥のめちゃくちゃ石段多くて上っただけで明日筋肉痛になるのが確実そうな上昼間でもなんか暗い上にぼろぼろでお化けでてきそうな廃れた神社についてすぐ『じゃあちょっと探し物があるから理香ちゃんは適当にしててね』とかほざいて一人で消えて一緒に来た相手を4時間近くも放っておくことは入らないよ!! せめて昼飯くらい置いてってよ!! お腹すくわお化け出そうで怖いわすることなくて暇だわ、ぼんやりしたくもなるわ!!」
腰掛けていた石段の頂上から立ち上がり、相手の胸倉を掴みあげてぐらぐら揺すりながら一息で言い切ると、理香はぜぇぜぇ息切れしながらしゃがみ込んだ。
無駄に疲れた。叫ぶのも自分よりガタイのいい相手を掴みあげるのも、理香の残り少ない体力ゲージをガンガン削った。しかしまだまだ言い足りない。
そもそも理香はただ単にぼんやりしていたのではなく、正確には空腹やら疲労やら理香を放っていなくなってから全然戻ってこない相手への怒りやらで、脳みそがうまく活動しなくて若干現実逃避気味にぼんやりしていたのだ。
それなのに叫ばれて胸倉を掴まれた相手は、
「ああ、そうだった、理香ちゃんはお昼ご飯抜いたらしんどいんだっけ。忘れてたよ」
ごめん、ごめんと全く悪びれない様子で笑いながら軽い調子で謝ってきた。
(……石段から突き落としてぇ……)
思わず真剣に思ってしまった。理香は慌てていかんいかん、と首を振る。空腹と疲労のせいでいつもより思考が暴力的になっている。
こいつ相手に冷静さを欠いたら後々酷いことになる、ということを、理香は既にこれまでの経験で十分に学んでいる。ちらりと石段を見下ろして、この高さ(理香は上りの道中、石段の数が100段を超えた辺りで数える努力を放棄した)と石段の形(石段自体が古いのか一段一段が非常に高めの荒削りの石段で、でこぼこしている。多分頭とかを打てば非常に痛い)から、うまくいけば相手に致命傷くらいは与えられるかな、いやいっそ殺せるか、などと思いつつも、それは心の中で思うだけにしておいた。人を高い所から突き落とすなんて、そんな最低なことを理香がしてよいはずがないのだ。
「……あ。降ってきたね」
でもやっぱ突き落としたいな……、と考えていた理香を現実に引き戻したのは、理香の脳内で4回ほど石段の上から突き落とされた人物だった。言われて理香は空を見上げ、思わず顔をしかめた。先ほど見上げたときよりも黒く濃い雲が空を丸ごと覆っており、ぽつり、ぽつり、とその雲から大粒の雫が零れ落ちてきた。
「仕方ないな。行こうか、理香ちゃん」
眼鏡に落ちてきた雫を上着の右手の袖で拭いていた理香の左腕を掴んで、理香に空腹・疲労・退屈・濡れ鼠未満という4つの屈辱を味あわせた元凶は微笑んだ。
「多分通り雨だから、止むまであそこで雨宿りしよう」
「……明らかにお化けでそうなんですけど」
「大丈夫、大丈夫。心配なのは雨漏りしないかどうかだよ」
「雨宿りの意味ないよ、それ……」
元凶はうんざりした様子の理香をずりずりと、ぼろぼろで古びた神社の本殿の屋根の中へと引きずっていった。さすがに閉め切られた本殿の中自体に入るつもりはないらしく、なんとかまだ形を保っている屋根の部分がかかる位置に行く。
「……ねぇ、ほんとにすぐ止むの、この雨」
ぽつりぽつりからあっという間にザーザーと音を立てて降り始めた雨を見て、理香が疑わしそうに言うと、元凶は「大丈夫、大丈夫」と返した。
「大体、もう5時近いしさ……。来るのに結構時間がかかったんだから、帰るのも同じくらい時間かかるんでしょ。あんまり遅くなると、親に怒られるんだけど」
「大丈夫だよ。来るのは時間がかかるけど、帰るのは大体あっという間なんだから」
「そういう感覚の違いを言ってるんじゃなくってさぁ……」
「大丈夫だよ。ほんとにすぐだから」
僕の探し物も見つかったからね、と意味のわからないことを言う相手に、理香は思わずため息をついた。
「……真船君のいう『大丈夫』は昔からあんまり当てにならないんだよね……」
理香のその言葉に、相手――真船慎也は、静かに微笑んで、「そうかなぁ」と言った。
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浅宮理香は明日の新学期から、県立高校の二年生になる。家族構成は楽しいシニアライフを送る祖母と会社員の父、同じく会社員の母、そして地元の大学に通う兄の5人家族である。理香は母親に似て背が低く(現在ギリギリ153cm、目標は後3cm伸ばすこと)童顔で、おまけに父似のド近眼。成績はクラスで常に上位に入っている、まぁなんとか優等生といえなくもない、しかし普通の平々凡々な女子高生である。
それに対して、真船慎也は学年だけは理香と同じだが、通っている高校は全国有数の私立の超進学校(ただし男子校)で、おまけに成績は常に学年上位5位以内、容姿もすらっとした長身の整った顔立ちの少年で、更に家は中々の資産家である。
同じ市内に住んでいるだけで、実際に通う学校も自宅も離れているのに、理香と慎也の交流は初めて出会った小学校4年生の夏休みから現在まで、途切れることなくずっと続いている。
――――そして、理香が慎也と初めて出会った時から今現在まで、理香は慎也に振り回されっぱなしなのである。
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「……それで、真船君、探し物って何だったの?」
理香が空腹と疲労による苛立ちを紛らわすためにいささか冷たい口調で慎也に問うと、慎也はいつも通り静かに微笑んで、
「僕に必要なものだよ」
と、これまたいつも通りに答えになってない答えを返した。
「……意味わかんないんですけど……」
「そう? まあ、無事見つかったし、理香ちゃんはそんなに気にしなくっていいよ」
「……私、全然関係ないなら連れてこなくてもよかったんじゃ……」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃねぇよ」
静かに微笑む慎也を睨みつける。雨はまだ止まなさそうだし、お腹は空いているし、体はだるい。明日から学校が始まるというのに、筋肉痛だったりしたらどうしてくれるんだ。しかし、そんな理香の剣呑な表情を気にした様子もなく、慎也は静かに微笑んでいる。
(そういえば、ここってなんの神様の神社なんだろう)
ふと、ある意味当然の疑問が理香の頭に浮かんだ。理香の視界の先には、叩きつけるような大雨で判然としない視界の中、所々塗りの剥がれた鳥居がひっそりとたたずんでいる。
ただ、なんだかこの場所はただ古くてぼろぼろな神社、というだけではないような気がした。
(神社、なのかな、ここ……。鳥居はあるけど、なんか色々足りてない気がする……)
「そういえば、理香ちゃん。ここに上ってくるまでの石段の数、数えた?」
唐突な慎也の言葉に、理香は「はぁ?」と変な声をあげてしまった。
「結構上るのきつそうだったけど。100段くらいあった?」
「100段で数えるのやめたよ……。明日筋肉痛になってたら恨むからね」
恨みがましい目を向けて、暗に100段以上あったと言ってやると、慎也は目を細めて、満足したように笑って、
「そっか。ところで、ここって何だと思う?」
またも意味不明なことを言い出した。
「何って……」
「言っておくけど、ここは神社ではないからね。たしかに鳥居はあるけど、あんなものは単にちょっと目立つ目印にすぎないし。それに、僕らが今居るこの場所も、神社の本殿なんかじゃないし」
慎也の言葉が終わった丁度その瞬間、ダン!! という物凄い音が、ザーザーという雨音と2人の声の間に割って入った。音だけではない。それに合わせて大地が一瞬大きく揺れた。
硬くて巨大な「何か」が理香たちの後ろで壁のようなものにぶつかった、そのせいだということがわかって、理香は危うく泣きそうになった。
2人の後ろには、神社の本殿らしき建物の扉があり、その中にいた「何か」が扉を破って外に出ようとしたのだ。慎也のいない4時間近くの間、理香も神社の敷地内をうろうろしてみた。そこで、真っ先に何も見なかったと自分で自分に言い聞かせたのがこの本殿の建物で、風雨にさらされぼろぼろになったその外観以上に異質だったのは、閉め切られた扉だった。
扉は――建物の中の位置から考えてかつては扉だったであろう場所は頑丈そうな鉄板が溶接され上から完全に塞がれており、さらに鉄板には何重にも朱色のインクで何かを書いたお札のようなものがびっしりと貼られていたのだ。そして、この、匂い。雨のせいで最初よりも余計に強く感じられる、錆びた鉄のような臭いと湿った生臭い獣の臭いが、ねっとりと体に絡みつくように、後ろから漂ってくるのだ。
(だから真船君と出かけるのは嫌なんだよ……)
ダン、ダン、という何かがぶつかる音はだんだん激しく、そして間隔も狭いものとなっていっている。扉が開かなくても、建物が先に崩壊しそうなほど激しく揺れているのを、理香は横目で確認した。
(ここが神社じゃないことはわかった、ていうか最初からなんとなくそんな気はしてたけど……)
では、ここは一体『何処』なんだろう。
理香は自分がここまで来た道順も使った電車の駅名も、何ひとつ覚えていないことに気がついて愕然とした。慎也とともに行動するとしばしば起こりうる事態ではあるものの、理香は未だにそれに慣れることができないでいる。怖いものは怖い。何が怖いって、「何が起こっているのか全くわからない」のが怖いのだ。
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「ま、真船君……」
理香が泣きそうな声をあげて慎也の上着を握り締めたのは、「何か」がぶつかる音が唐突に止み、刹那大音量の赤ん坊の泣き声が本殿の中から響き、雨音を切り裂いたためである。
泣き声というより、まるで赤ん坊の断末魔の絶叫である。それが100人分くらい、絶え間なく聞こえてくる。理香は怖くて一度も振り返っていないが、慎也は衝突音が始まってから一分おきくらいに後ろを振り返っては、満足げに微笑んでいた。
「何? 理香ちゃん」
「もう、いいよ……。ここ、怖い。もう、家に帰ろうよ…」
赤ん坊の絶叫の中、理香の声を聞き取ろうと上体をかがめた慎也の耳元で、ほとんど泣き声で理香は言った。
「でも、まだ雨降ってるよ?」
「濡れてもいいから、帰ろうよ……」
困ったように言う慎也に、完全に涙腺が崩壊した理香は、えぐえぐ言いながら主張した。「もうやだ、帰る」と。
「仕方ないなぁ……。じゃ、行こうか」
そう言うと、慎也は左手で理香の右手をとって、雨の中へと走り出した。
雨で滑りそうになりながら、走って、走って、鳥居を抜ける。赤ん坊の叫び声はまるで小さくなることなく辺りに響いている。鳥居を抜けたのに、そのすぐ先にあったはずの石段がなくて、理香は顔を歪めた。本当に、ここは何処なんだ。
「ねぇ、理香ちゃん」
眼鏡についた水滴のせいで見え辛くなっている視界の中で、必死に足を動かしている理香の手を引きながら、慎也がどこか楽しそうに言った。
ザーザーという雨音と、空間にビリビリと響き渡る赤ん坊の叫び声の中でも、さして大きくもない普段どおりの慎也の声は、何故だか理香の耳にきちんと届いた。
「100段以上ある石段の上から落ちたら、今度は理香ちゃん、死んじゃうのかな」
慎也が掴んでいた理香の右手を離し、突然立ち止まった。リーチの差と運動能力の差から慎也に引っ張られる形となっていた理香は、物理法則に則ってそのまま前のめりになって――宙に放り出された。
驚いて振り返ろうとするのに、不自然な浮遊感と風を切る感覚がそれを許さず、目はつい先ほど4回くらい脳内で慎也が叩きつけられた荒い削り目の石段を捉えて動かない。ただ、雨音と赤ん坊の絶叫の中で、「まぁ、無理だろうけどねぇ」という慎也の笑い混じりの声だけが、理香の耳に届いた。そして、理香の視界には荒い削り目の石段がいっぱいに広がって――――
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「じゃあ、今日は付き合ってくれてありがとう。またね、理香ちゃん」
気がついたとき、理香は自分に向かって軽く手をふり、そして明るい夕日の方向に去って行った慎也を見送っていた。
呆然としたまま、顔を横に向ける。見慣れた自分の家が視界に入り、慎也がいつものように自分を送り届けてくれたことを理解する。一拍遅れて、体の感覚がざっと戻ってきた。服はどこも濡れておらず、眼鏡も壊れていない。いつの間にか手に提げていた鞄を漁って携帯電話を手に取り、開く。現在午後4時33分。ついでに本日の天気予報を確認すると、午前も午後も降水確率は0%、絶好のお出かけ日和となるでしょう。
「また……が、あるのか……」
慎也と共に行動していると、こういうことがよく起こる。いつの間にか全然知らない場所にいたり、正体のわからない「何か」がいたり。そしてその内10回に1回くらいは、理香が本気で「死ぬ!! というか殺される!!」と思う羽目になる状態が訪れる。それも大体が「何か」ではなく慎也に殺されそうになっているのだから、理香としては遣り切れない。経験上、いつかまた同じことが起こるとわかっていても、理香にはそれを避ける術がないのだ。
そもそも慎也と初めて出会った小学校4年生の夏休みも、理香は初対面の慎也に病院の非常階段のてっぺんから突き落とされたのだ。互いに言葉を交わしたわけでもない、ただ単に本当に出会った瞬間に、である。そこに悪意などが読み取れれば理香としてもどうにか対応できるのだが、慎也は当たり前のように、呼吸をするように、理香からしてみれば相当残酷なことをしてくる。むしろ最近ではそこに慎也の優しさや好意のようなものを見つけてしまい、理香としては非常に対応に困っているのだ。
一緒にいるとしばしば理香にとって怖かったり辛かったりすることがあったとしても、慎也に勉強を教えてもらったり、普通に買い物や食事を一緒にするのは楽しい。何しろ7年間も交流があるのだ。慎也の性格も大体把握しているから、今更理香が慎也と距離を置けば彼が確実に傷つくであろうことは理香にもわかっている。
しかし。
「真性の……サディストなのかな……。先週も、先々週もなんか殺されかけた気が……。でもなんか、真船君嬉しそうだし……。どうしよう……」
先ほど理香に手を振った慎也の顔は、とても優しく、そして嬉しそうな笑顔だった。そして、またねと言った声には隠れようのない好意が滲んでいたし、視線も柔らかな熱をもっていた。
実際のところ、慎也はさらさらとした漆黒の髪と髪と同色の涼しげな瞳、そして病的ではないほど白く、男にしてはもったいないほどきめ細かな肌をしており、体つきも見た目ほど細いだけではなく――理香の好みのストライクゾーンど真ん中で、外見的に嫌がる要素は全くない。
ただ、彼の体質というか性質というか、とにかく何か不可思議なものを理香にも無理矢理一緒に経験させることだけをやめてくれれば、理香は素直に慎也に対して恋愛感情を持てそうな気がしている。
「……まぁ、なるようになるか……」
とりあえず、理香は慎也のことをあれこれ考えるのはやめにした。あれはほとんど天災のようなものだ、なんの特殊能力も持っていない平凡な一般人である理香にどうこうできる存在ではあるまい。2人の関係に変化が訪れるとしたら、それは確実に慎也の行動がきっかけとなるはずだ。
そう自分を納得させ、理香は明日からの新学期に備えるために、自宅の玄関を開けた。「ただいまー」という理香の声に、「おかえりー」という祖母の元気な声が返ってくる。
日常は問題なく進み、かくて世界は回り続ける。
非日常とは日常の中のほんの小さな隙間に落ちた一粒の雫のようなもので、あったらあったで困るが、それも馴染めばいつかは隙間をふさぎ、日常の一部となるのだろう。
少なくとも浅宮理香は、真船慎也と過ごす非日常がそうなることを、心の奥でひっそりと望んでいるのだ。
だらだらと長い作品を読んでいただき、ありがとうございます。ラブコメ目指してがんばります。