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恋愛小説  作者: 鈴村善行
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 便所から女の嗚咽が聞こえてくる。辛気臭い涙やら腐敗した食物やら酒やらを吐き出すために、白く冷たい便器に向って嘔吐いているのだろう。その様子は、まるで自らの悲しみや辛さといったくだらない感情を俺にアピールしたいがための行為であるかのように卑屈なものに感じられた。

 俺はひどく酔っていて、女が部屋にいない間にベッドの上でこのまま寝てしまいたいと思っていた。しばらく寝て起きたときに、部屋に俺以外の人間は誰もいない、便所から女の醜い腐ったような嗚咽が聞こえてこないことを願いながら。

 俺がため息をつくごとに女の嗚咽が加速度を増していく。こんなに悲しいのに、こんなに苦しいのに、と声高に主張する醜態や恥じらいを取り繕う余裕のなさにうんざりさせられる。喘息もちの俺は煙草を吸うこともできず、部屋の壁は白いままだ。

 しかし今の俺に何ができるというのだろう。

 別れたいと言い出したのは、女の方だった。

 学歴も資格も実務経験もツテも何もない俺は、それが何の目的で利用されるのかわからないし考えることすら無駄としか思えない電子機器を組立てる工場の仕事で、ろくな収入も得られず、生活保護基準ギリギリの生活を強いられているせいか、女のことを考える余裕など一切もてなかった。それを俺は、すべて社会のせいにしていた。阿佐ヶ谷で行われたデモにも参加した。そこで顔中青痣だらけの年もよく判別できない女とセックスをし、罪悪感と病気をうつされないだろうかという不安とをごますため朝まで飲んだ。居酒屋、飲食店、不動産屋、消費者金融などの看板と雑居ビルとの隙間から見えた朝陽のまばゆい光が、その場にいた者らの空気の蟠り救いのなさを意図的に強調させているような気がして、一気に酔いが醒めた。

 昨夜女から別れを告げられたとき、俺はすでに酔っていた。ひどく疲れていた。女のことなどどうでもいいとは言わないまでも、女の、つまり恋愛こそが何よりも偉大でなくてはならないといった価値観の正当性を主張する押し付けがましい欲望にげんなりさせられていたし、もはや誠実な対応をとる気力も失せてしまっていたので、女が声を殺して泣いていようがかまうものかと思った。苦痛なだけの時間がただ過ぎていく。すべてが無駄だ。

 俺の無関心が女を傷つけ、女の涙が鋭利な刃物のように俺を傷つける。

 結果的には誰も何ら得をしないはずなのに、鉄にこびりつく錆のような異臭を漂わせた恋愛などに熱をあげる者は後を絶たない。

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