願いはその手に掬われて・・・2
教会の中。ミスティがミラに話しかけている。とても穏やかに、優しく。
「人間はね、神様と悪魔を同時に求めるの。覚えておきなさい」
ミラは頷く。
「ミラはイルイダが好きね?」
ミラは再び頷く。ミスティはミラに視線を合わせて、その頭に手を乗せた。
「いい子ね。じゃあ、新しい神様が困らないようにしましょうね」
ミラは立ち上がったミスティを見上げて、丸こい目をきょろきょろさせた。ミスティが微笑んだ。
「トーラが生まれた世界にはね、ときわの森は存在しなかったのよ。何度も時が重なる間に、トーラと同等の女神さまが生まれたわ。そして、トーラを呑み込もうとしていたの。追い詰められたトーラは、人間を利用したわ。それから、……」
ミスティは空を見ながら、ミラ以外のそこにはいない誰かに寂しそうに語っているようだった。ミラが「お母さま?」と初めて声を出した。その声はとても小さくて、不安に満ちていた。ミスティが人差し指を唇に軽く押し当てた。
「お母様はあなたのことを大切に思っているのよ。だから、声を出さずに待っているのよ。誰にも受け取られなかった言葉は風の子が連れ去って、大きくなってあなたに帰って来るの。大きな不安に飲み込まれたくはないでしょう?」
どんな感情も持たないはずのミラはどうしていいのか分からなくて、やっぱり頷いた。
「ミラはいい子ね」
雨が降っていた。ここは、領主館だ。自分は今どういう状態でここに寝かされているのだろう。あの魔女はワカバだった。しかし、ワカバではなかった。はっきりとした夢を頭の中に押しこめられたようで、キラの記憶は色々な所で、食い違い、抜け落ちている。過去を変える力、とはこれのことなのだろうか。確かにどの記憶にも具体的な痛み、覚えがあり、腹の傷もしくしく痛んでいる。しかし、右上腕の傷はない。だから、余計に不安なのだ。
キラは『ルオディック』として生きているのだろうか。それとも、『キラ』なのだろうか。『ルオディック』だった時には『キラ』の記憶はなかった。しかし、今は違う。そう記憶を回らせたキラは、もう一度窓の外に目を遣った。
灰色の雨が窓を叩いていた。キラの見る景色はどこまでも灰色だった。
カチャ、という音が部屋に小さく響き、扉が開かれた。窓を見ていたキラの目に映った侵入者は二人。一人は驚きの表情を浮かべるイルイダ。そして、もう一人は猫のようにその背に隠れるミラだった。
「もう大丈夫なの?」
「あぁ」
ルオディックであれキラであれ、彼女の弟には変わるまい。キラはそんなことを思いながら返事をした。
「あなた、魔女かなんかになってない? もう起き上れるなんて」
キラは苦笑いした。もしかしたら、本当に魔女になってしまっているのかもしれない。
「魔女って回復が早いのか?」
「さぁ? そうなの?」
尋ねたくせに疑問符の姉は肩を竦め、キラを眺めた。別に何の根拠もなくそんなことを言ったらしい。そして、キラはワカバと出会った時にあったあの頭囲の怪我がどのくらいの期間で、列車で再開した時の状態になったのだろうと、今さらながら考えていた。あの時は、特に何も考えなかった。ただただ無防備極まりないそのワカバの状態にうんざりしていただけだった。ワカバが怪我をしてようがしてまいが関係なかったのだ。
そして、姉の背後のミラを見遣った。ミラは、キラのことを覚えているのだろうか。それとも、ルオディックだったキラのように真っ新な記憶があるのだろうか。
「あっ、ミラっ」
さっきから慎重にキラのことを眺めていたミラが、キラの視線から逃げるように、すっと行ってしまった。大きなため息をついたイルイダは「全く、ちゃんと紹介するって言ったのに……」と残念そうにした。
「ミラって……?」
ミラはキラの妹だ。変わりがなければ、腹違いの妹。キラは一つずつ自分の記憶を現在に準えようとしていた。キラの持っているどの記憶が正しいのか、はたまた、どの記憶も正しくないのか。今のキラには分からない。
「ディックは知らないと思うけど、あの子、ミスティの子どもなの。ミスティは分かる? 父さんの後添えよ。二人とも人見知りが強くて、ほとんど人間と関わろうとしないわ」
キラは少しかまをかけてみようと思った。
「別に構わないんじゃないか?」
「どうして?」
イルイダの表情は一見すると本当に不思議がっているものだった。しかし、その瞳の奥には明らかに探りの光があった。領主として生きてきたのならあっても全く不思議ではないものだ。ということは、キラはルオディックとしてここの領主を過ごしていない。
「魔女だって噂を聞いたことがあるから」
イルイダが怖いくらいの微笑みを浮かべた。再び傷口を抉られて殺されてもおかしくないかもしれない。キラはイルイダの学歴を思い出しながら、冗談にもそんなことを思った。
「昔の噂よ、それ。だって、魔女は死んだんだもの」
固唾を呑んだまま黙っているキラを、イルイダが微笑みを貼りつけたまま真剣に見つめ返した。
「私が殺したの」
いとも簡単に、さらりと言ってのけるイルイダの声は、事実を言っているようには聞こえない。しかし、嘘とも言えない。試されているということなのかもしれない。まさか、イルイダがミスティを殺したというような過去でもあるのだろうか。キラはイルイダの能面のような顔を見つめたまま時間を止めていた。するとイルイダが「嘘よ」と息を吐くようにして、動き出した。
「そういうことにしてあるの。言い訳になるでしょう? だからミラもミスティも使用人扱い。申し訳ないけれど。魔女にいい思い出がない私が魔女狩りに積極的にならなくていい理由になるの。だから、ディックも誰にも言わないでね」
微笑んだイルイダにキラは微笑み返す。しかし、その微笑みは偽りだった。キラは彼女の言う言葉の意味があまり分かっていなかった。分かったことと言えば、イルイダが魔女狩りに積極的ではないこと。それはキラにとっても好ましい状態である。
「それと、婚約したの。リンディ家の三男坊と」
「えっ、それはおめでとう」
悪戯っ子のように笑うイルイダにキラは祝いの言葉を述べた。ただ、姉の会話がいったいどういう流れで成り立っているのか、甚だ疑問だった。
「ありがとう」
そして、どの言葉を選べば、過去に近づけるのかを考えているキラを尻目に、イルイダは満足した笑みの後、踵を返した。キラは慌てて「あのさ」と叫んだ。イルイダの足が止まる。
「どうして、おれ、こんな場所にいるんだ?」
「あら、覚えていないの?」
不思議そうにも思えない声がキラの耳に届いた。
「さっき、魔女かなんかになってない?って尋ねたわよね」
「あぁ」
「その通りの意味だったのよ。ディックって昔からときわの森によく入っては怒られていたでしょう? 私はあなたがいなくなった日を知らない。だから、ずっと、また森に入って出られなくなってしまったんだと思うようになったの。きっと、弟は魔女になってしまったんだ、と。だから、私は母を魔女のせいで失って、父を魔女に殺されて、弟を魔女に盗られたと思っていたわ。でも、一週間前、あなたが出て来たの。それも、普通じゃ助からないだろう傷を負って、森の入り口付近で倒れていたわ。知らせを聞いて、あなたの状態を聞いて、見て、……驚いたわ」
イルイダは一気に話し終え、大きなため息をついた。しかし、キラの脳裏には、あぁ、それで『言い訳』になっているのか、と、さっきの疑問の解答が流れた。魔女に恨みを持つ姉。そして、恨みを晴らした姉。二度と魔女に関わりたくないという理由。女ならではの理由かもしれない。
「ごめん……いや、魔女かどうか分からないけど、ルオディックではない気がする」
少なくとも、キラはルオディックではない。だから、ここに戻ってきてはいけない。過去がどうであれ、イルイダが領主としてここにいるのなら、ルオディックは必要ないのだ。もしかしたら、魔女とまでは言わないが、この世界に存在しない時の遺児くらいになっているのかもしれない。そう思うと、溜め息のような笑みがルオディックの顔にこぼれた。そんなルオディックを一瞬睨め付けたイルイダはすぐに大らかな笑みをキラに向けた。
「ディックはディックよ。だけど、邪魔しないで欲しいの。リディアスにだって呑まれないわ。魔女狩りもさせない」
そう言うイルイダは寂しそうに見えた。その縁談は断れないのだ。キラはそのイルイダの気持ちを察することが出来た。そして、祝福しなければならないものだとも知っていた。
「邪魔なんてしない。むしろ祝福するし、そいつじゃなくて、イルイダがここの領主になるんなら、歓迎する」
「ディックは無欲ね」
しかし、その微笑みは心底の微笑みではないことくらい、キラにも分かった。
「おれはイルイダには敵わないんだから」
リンディと名乗るならば、そいつはリディアス王の遠縁になる。だが、どの学位を取って見てもイルイダはキラに負けていない。そんな彼女なら、いくら遠縁の者でも領主の座を明け渡すことはないだろう。
いや、三男坊とわざわざいったということは、言葉通りの『三男坊』なのかもしれない。きっとイルイダの掌で右往左往させられる。そう思うと、彼が少し不憫だ。
しかし、しばし考えていたイルイダは意外な言葉を繋げた。
「……私はディックに負けていたのよ。でも、そうね、領主の座は私がいるべきよね。ディックに応援してもらえると心強いわ。そうだ、次は重湯でも持ってくるから。動けるからって安静にしておかなくちゃだめだからね。言っておくけど、あなたのお陰でその婚約者を迎える日を遅らせたんだから」
姉貴風を吹かせたイルイダにキラは苦笑いを返した。体術、馬術、剣術、学術だって、イルイダに勝ったことがなかった。当時のキラは負ける度に年齢の差にはしていたが、今でも、何となく勝てない気がするのだ。それに、動ける、と言う程、キラはまだ回復していない。
静かになった部屋には、再び窓を叩く雨の音が響き始めた。それは、再びキラを眠りに誘うにはちょうどいいリズムを刻んでいた。




