ときわの森・・・2
既に夜が明けてもよい時間になっているが、天気のせいか、森のせいか、気持ちが悪いほどずっと暗い。そして、何よりも静寂だった。いくらディアトーラでも朝というものはもう少し騒がしい。鳥の声や、生き物が動き出す気配。鈴の音が聞こえる魔女には感じられないのだろうが、森はずっと恐ろしいほどに沈黙を保っていた。
そして、それは彼女が魔女たる所以を物語っているようでもあった。もし、彼女が魔女でないのなら、いや、特別な魔女トーラでないのであれば、ときわの森がこれほど閑寂としてはいまい。全ては彼女に慄き、鳴りを潜めさせられている。
森はそんな気配を生み出していた。
目の前にあるうっすらと霧の掛かった木々は、白い闇に包まれている。魔女を背負っていなければ、きっと生きているという感覚すら忘れてしまうのだろう。いくら軽いと言っても、それ相当の体重があるものだ。しかも、足下のおぼつかない獣道を歩くのだからかなり疲労も蓄積されてくる。それでも、魔女が足を庇って歩くよりも速度が速いのだから、仕方がない。背負った魔女を背負い直す度に、ルオディックはそう言い聞かせていた。
「大丈夫?」
「あぁ」
鈴を鳴らしているのが、銀鈴と呼ばれる聖鳥なのだそうだ。そして、魔女はその鈴の音に従って、ルオディックを道案内してくれている。もし、魔女を背負っていなければ、とルオディックはもう一度考えた。
おそらく、森に帰りたいという魔女を背負っていなければ、道を迷わされているだけにしか思えないだろう。
ただ、心の弱っている人間やよからぬことを考える人間にも幻聴のようにして聞こえてくる。そんな時は気を付けなければならない、と魔女が教えてくれた。
「銀鈴に嫌われれば、二度と出られなくなってしまう」
森の女神様に仕える銀鈴は基本的に人間を嫌うものだから、ほとんどは迷わされてしまうという。この森に住む魔女だっていつ何時嫌われるか分からない。恐ろしい物だな、と答えると、そう?と軽くあしらわれてしまった。
「だって……銀鈴は妖精みたいなものだから。仕方ないの」
それはディアトーラでこの魔女が撃たれた理由を言っているように聞こえ、ルオディックに心痛を起こした。
「でも、あなたには聞こえないのだから、大丈夫なんだと思う」
それにしても、どうして魔女の言葉はこうも淡々としているのだろう。その声からは自分が狙われているということへの怯えは全く感じられない。いや、考え過ぎなのだろうか。魔女はまだ何も知らずにただ『帰る』という目的が達成されるだけだと思っているのかもしれない。
「それならありがたいけど……」
ふと、もしかしたら魔女がここに来た理由に町で人間と一緒に住めるようになるかもしれない、という淡い期待があったのではないだろうか、と思えてきた。
「訊いてもいいか?」
「あっち」
聞こえてなかったのだろうか。魔女は急に方角を訂正した。どこを見ても、レースのカーテンに覆われたような木々がルオディックの行く手を阻んでいる。ルオディックは素直に魔女の言葉に従った。
「あっちか……」
そう答えた後に雨粒が一つ、ルオディックの頬に落ちてきた。空の雰囲気から見れば、まだ本降りには時間がかかりそうだった。
魔女の案内通りに足を運んでいると、景色が広がった。森の木々がその大地を掴むような巨樹を取り囲むようにして、広場のような空間を作り出していた。まるで今までの雰囲気とは違う。
「すごいな、ここ」
「うん」
魔女の声はここに来て初めて沈んで聞こえてきた。
「どうした?」
「お母さんって、どんな者?」
「おれの?」
そう尋ねてみて、違うなということに気が付いた。
母親なんていう者は何故だか纏わり付いてきて、ふと寂しそうな顔をする者。そして、一体何を願い、何をしたいのかが全く分からない者だ。しかし、この魔女の場合には当てはまらないのかもしれない。
そういえば、魔女の母親は魔女が生まれる前に木に呑み込まれた、と言っていた。ここと関係があるのなら、あの木がそうだということになるのかもしれない。ということは、ルオディックの意見は全く当てはまらないだろう。
「誰よりも子どものことを思っているというのが一般的な母親像じゃないかな」
「そうなんだ……」
元々覇気のない声だったが、さらに覇気のない声だった。魔女から訊いてきたことだったが、ルオディックの方が申し訳ない気分になった。
「まだ遠いのか?」
灰色の空に向かって伸びていく枝葉を見上げるようにしていた魔女が呟いた。
「だいぶ近付いてる」
そう言うと「あっ」と小さな声をあげた。
「どうした?」
森の奥の方に人影があった。それは森の影に隠れていて、魔獣と言われればそうとも見られるような影だった。それが少しずつ近付いてきている。
「知り合いか?」
魔女は沈黙を保ったままだったが、ルオディックの言葉に対して頷いた。肩を掴む魔女の手に力が入った。その人影は、その手を腰に当てているようだった。奥から来たということは、ディアトーラからの使者ではないはずだ。
「……ラシン……」
ラシンと言えば、この魔女の乳母のような存在だったはずだ。魔女の緊張感からすれば、ターシャよりももっと頭の上がらない者なのかもしれない。
「よかったな」
きっとルオディックの言葉はこの魔女の今の気持ちとは裏腹だっただろう。これから叱られるかもしれないのだ。素直に喜べない気持ちはよく分かる。だが、魔女は静かにルオディックの背中から降りて、その腕に掴まり、その迎えが近付くのを待っていた。影はゆっくりと近付いてくる。
「きっとお前を追いかけてリディアスの奴らがやってくる」
頷いた魔女の持つルオディックの腕が少し締め付けられた。そして、まるで、誰にも聞こえてはならない秘密の言葉のように、慎重に、とても小さく魔女が囁いた。
「望みは何?」
「きっと、都合のいいことを望んでいるんだろうな」
リディアスが何を望み、魔女を狙うのかを思い描き、ルオディックは答えた。おそらく、恐ろしい力を手に入れようとしているのか、トーラというものを滅ぼしてしまおうとしているのか、とにかくこの魔女にとって良くないことだろう。
「違う……あなたは何か望むの?」
魔女の声が今度ははっきりとルオディックの耳に届いた。そして、魔女を真っ直ぐに見下ろしたルオディックを真っ直ぐに見つめる魔女がいた。これは、トーラに願いを託すということになるのだろうか。彼女の新緑色の瞳にはルオディックの求める答えは見当たらない。
「…望みか……」
魔女がわずかに頷いた。例えば、世界を滅ぼすかもしれない魔女は、世界を滅ぼす気があるのかどうか。この魔女を見ているとどうでもよくなってきた。裏のない真っ直ぐな者。ルオディックが持つことの出来ない計算のない言葉。
「わたし…あの……助けてくれてありがとう」
そして、続いた魔女の言葉は、ルオディックの中で穏やかに広がった。だから、ルオディックは微笑むことができ、魔女も何だか嬉しそうに微笑み返していた。本当は一個人として誰かと接したことのない魔女にはただそれが嬉しかったのだが、それをルオディックが察することはなかった。ただ、ルオディックが何を望もうとも目の前にいる魔女が今すぐ世界を要求するとはどうしても思えなかったのだ。
「じゃあ、無事に村に着いてくれればいい」
「でも、それはわたしがずっと言ってたことでしょう。それは違う」
しかし、ルオディックの真意はこの魔女に伝わってはいない。本当は、それが必死になってその言葉を否定する魔女には申し訳ない言葉なのだ。ルオディックは、暗にこの魔女が二度と町に現れないことを願っているのだ。だから、平気で次の言葉を紡ぐことが出来るのだ。母をあれだけおかしいと言っていた口が平気で開かれる。
「いや、そうでもないよ。魔女の村にはおれの姉がいるらしいんだ。だから、リディアスの兵に踏み込まれたくない。君が誰にも見つからないように無事に村に帰ってくれれば、それで姉は守られるだろう? そこで、姉を護ってやって欲しいんだ」
その言葉を聞いた魔女は満足したように手を離し、足を庇いながらラシンの許へと駆け寄って行った。駆け寄った魔女がラシンの肩に掴まった。ラシンがルオディックを凝視していた。それは何かを責めるような光を宿している。
「大事な方に怪我をさせてしまいました。申し訳ありませんでした。だけど、早く逃げてください。人間が追ってくるかもしれませんので」
ルオディックは頭を下げてその影に訴えた。そして、影は僅かに頷き、歩き出す。まだ、足が痛むのだろう。魔女はゆっくりと体を揺らしながら歩みを進め、影はその歩調に合わせてゆっくりと森の中へと消えて行った。




