それは恋に似て異なるもの・・・5
昨日から彼が言ったように魔女は朝食を人間と共に摂ることになった。ターシャと彼がいて、魔女は車椅子に乗ってその朝食というものを口にした。魔女の前には昨日と同じくお粥があり、トマトのスープがあった。彼はその後魔女の元にはやって来なかったが、ターシャがあのお庭へ連れて行ってくれた。
彼の言うその『母の庭』は魔女の知っているハーブもたくさん植えてあり、きちんと手入れされていて、緑が深く、ちょうどラベンダーが見頃になっていた。魔女はその小さな紫色の花を眺めながら、胸の苦しくなる気持ちを抱えた。取り立ててその花が嫌いというわけでもなく、匂いだけだと懐かしいとさえ思った花なのに。
食事を終えた彼は魔女たちと一緒に庭には来なかった。きっと、人間には人間で忙しいことがたくさんあるのだろう、とそんなことを考えながら、魔女は膝に乗せられている籐のカゴに視線を戻した。
籠の中にはローズマリーに、レモンバーム、タイムにミント、月桂樹の葉が入れられている。ターシャは忙しそうにハーブを摘み取り、魔女の元に運んできていた。そして、別に魔女が聞きもしないのに、ターシャは彼のことを『坊ちゃま』と呼び、嬉しそうに話をするのだ。
「坊ちゃまは優しい方なのよ」「坊ちゃまはきっと立派な領主になられます」「坊ちゃまはお強い方なのですよ」
お強いかどうかは分からなかったが、優しい人間であることと、立派な領主になられるということには賛成だった。魔女はそのターシャの話を真面目に聞いており、その度にターシャの満足そうな表情が魔女に向けられた。そのターシャについて、魔女は幸せそうだ、と感じていた。これは、魔女が感じたことのない感情の一つかもしれない。
ハーブ摘みが終わると、魔女はあの絵のある部屋で、『刺繍』という物をさせられることになった。
針を布から出して引っ張る度に糸が抜けてしまうので、魔女は目を凝らして針に糸を通すという作業を何度も繰り返していた。しかも、布の裏から通した針は魔女の思う場所になかなか顔を出してくれない。ターシャも同じことをしているが、ターシャはバラの花を刺し終えて、絵の周りを飾り始めていた。やっと青い糸を通す針が花の部分に出てきた。
魔女はローズマリーだった。ターシャは線を作るだけだから簡単な花だと言っていたが、魔女にはどうしても簡単には思えなかった。顔を上げるとそんな魔女を、なんとも言えない表情で見守っているターシャと目があった。
「ところで、何て呼べばいいのかしら?」
魔女は首をわずかに捻った。当たり前のようにターシャは呼び名を訊いてきたが、魔女の村にいた者達は、当たり前のように魔女を呼ぼうとはしなかった。
村の魔女たちはおしゃべりであったが、そもそも、魔女のことを話し相手にしようとも思っていなかったのだ。だから、魔女たちにとって魔女は呼ぶ必要のない者だった。だから、呼び名はなくて当たり前なのだ。魔女は考えた末に答えを出した。
「魔女でいい」
「それは名前じゃないでしょう?」
考えた末の答えだったのに、ターシャは納得してくれなかった。だから、魔女は呼ばれたことはないが、自分に気付かれないように『トーラ』と呼ばれていた、と答えた。
ターシャの表情が曇るのが目に見えて分かった。そして、だから、魔女でいいと言ったのに、と魔女は口を噤んだ。しばしの沈黙の後ターシャは「陰で呼ばれていたのなら、そんな呼び名で呼べないわね」と静かに呟いた。
他におしゃべりすることもなかった魔女は再び青い糸を針に通し、一刺し一刺し、絵を完成させようと奮闘し始めた。そう、魔女は呼び名の心配ではなくて、刺繍の心配をしている。ターシャはその様子を静かに眺めていた。じっと見つめられるということに慣れていない魔女は、居心地が悪くなって呼び名の続きを口にした。
「あの人の名前はなんて言うの?」
不意に尋ねられ、ターシャがきょとんとして魔女を見つめる。
「あら、知らなかったの?」
魔女が頷く。
「坊ちゃまのお名前はルオディック様です」
「ルオディック?」
ターシャが目を細めていた。
「えぇ。私が護るべき大切な方です」
何だか羨ましく、そして、切ない。切なく思う気持ちが生まれるのはどうしてだろう。魔女はまた首を傾げた。なんだか靄がかかったように、思い出せないのだ。
扉が静かに叩かれた。日に焼けた瓦のような顔の人間がその隙間から見え、ターシャと二言三言話をしてまた出て行ってしまった。彼は今朝の朝食時にも同じような顔をしていて、魔女を見ていて、魔女に対して良い感情を抱いていない人間の一人だった。しかし、今はそれ以上に不穏な雰囲気を放っていた。そして、魔女が見つめていることに気付いたターシャが魔女を睨み返して言った。
「さぁ、さっさとその刺繍を完成させましょう。全く、魔女って器用な者だと思っていたけど、そうでもないのね。手を止めている暇なんてないわよ」
魔女の手が動き始めるのを見たターシャが魔女の肩を叩いて、微笑んだ。しかし、魔女の頭に浮かぶ心配事はあの人間の放った不穏さではなく、刺繍は本当に完成するのだろうか?ということだった。そして、それしか考えることがないことを不思議に思った。




