魔女・・・1
リディアスの首都ゴルザムからイーグル通りをずっと下り、離れた林道の向こうにそれは聳えている。時の勇者はこぞって打倒魔王を叫び、ここを目指したと聞く。もちろん、勇者だけが打倒魔王を叫んだわけではではないが、今もそれを倒すことでこの世の悪が解決されると信じ続けている。
深々とした夜の帳はそれら全てを飲みこみ、闇を深くしていた。しかし、細い月がその闇に亀裂を生じさせている。
そのわずかな亀裂に伸び上がる黒く尖った塔が五つ。その様子は、細い光を掴みたくて掴めなかった者の指にも見える。地獄の炎から逃れようとする手だ。地獄に差し込んできた光に助けを求める哀れなその塔。塔を結ぶ吊り橋を支えている頑丈な鎖が、風に吹かれる度にきゅうきゅうと泣き声をあげる。
その泣き声が静けさを増幅させる。ただ、ただ閑かだった。
キラは石造りの廊下に足音を忍ばせ、月の青白い光にすら影を映さず、冷たい空気よりも冷たい気配を消して、忍び込んでいた。請け負った仕事を遂行するために、歩みを進め、石の壁の向こうにあるはずの気配を警戒し、そして、何度も自分の感覚を疑う。
人の気配がないのだ。
見取り図は頭に叩き込んである。いくらかの隠し通路、隠し部屋の存在もその見取り図から読み取っている。それなのに、どこにも。
そう、奇妙な静けさだけが廊下に住み着いてる。しかし、キラは迷うことなく魔王とも呼ばれるキングの書斎へと歩み続けた。
奇妙であれ、罠であれ、遂行を逃れる道はないのだから。
わずかに差す月明かりに光る金色のノブをそっと回す。鍵は掛かっていないようだ。キングがここにいることは確かなのだ。シガラスの情報は確実にキングをここで仕留めるためのものなのだから。しかし、魔王は不在だった。ただ、魔王にも準ずる者が、そこにいた。
キングよりもずっと忌み嫌われる始末に厄介な生き物。
魔女だ。
キラに気付いた魔女は横になっていた体を気だるそうに持ち上げ、キラを見竦めた。その視線は凶悪な魔獣でさえ射竦める鋭さを持っていた。
しかし、その凶悪極まりない雰囲気を持つその魔女の首には鎖がつけられ、その自由を奪われていた。キラはその自由を完全に奪われた猛獣のその様子に哀れを感じてしまった。
怪我でもしたのか、魔女の頭囲には汚れた包帯がぐるりと巻かれていた。何日変えていないのか、包帯に滲んだ血は変色していて、草臥れていた。殺せない理由があるのなら、もっと丁寧にやってやればいいのに。飼い殺しのような生殺しのような、ジャックにはない狂気に寒気すら感じられる。
さらに両手、両足の枷から伸びる鎖の束は壁に固定された状態での魔女は、か細い月明かりをその身に受けて、じっとキラを睨みあげていた。こいつなら人の一人や二人噛み殺してもおかしくない、あの噂通りの魔女だ。それなのに、やはり、その一瞬の間にどうしてかくだらないことをキラは考えていた。例えば、この魔女がキラに対して、いったいどれくらいの不利益を生むのだろうか、という類のものを。
沈黙を破ったのは魔女の方だった。
「あのっ」
小さな囁きだった。それと同時に魔女から発せられていた殺気が消えていく。キラはただその小さな魔女を見おろすしかできなかった。
基本、お前はジャックに向いてない、気ぃ付けてな。
キラがジャックになった時にシガラスが乳母心的に言った心にもない気を付けろと言う言葉だ。シガラスもキラがジャックになるのには反対だった。優秀なジャックとしての素質は十分にあるが、不向きな気質なのだ。不向きなのは自分でも分かっている。
「あの……」
その声で思い出したようにキラの時間が動き出した。
時の動き出した冷静なジャックの手はその魔女に向かって、迷わず伸ばされていく。魔女は静かだった。硬く閉じられた唇は一つも動かない。唯一あの緑の瞳が曲がることを知らずに真っ直ぐキラを見つめていた。その瞳を見てはいけない、とキラは本能的に悟った。キラの手が魔女の細い首に届く。触れた指が魔女の肩を竦ませた。綺麗な黄緑色の瞳が瞬時に硬く閉じられる。
消し去ること。それがジャックに与えられた唯一の逃げ道だ。
突如として、キラの右上腕が脈打つように疼き始めた。まるで止まっていた時が動くように、嫌な記憶が甦る。記憶が辿るのは、キラの過去。今夜のように暗闇の中にキラはいた。
キラは短刀を、対峙する男は長剣を構え暗闇にいた。そして、男の持つ真っ直ぐに真っ白な刃がキラの腕を切り裂き、キラは相手の頸動脈を斬った。
それがキラの犯した殺しの初め。考えもなしに犯した殺人ではなかった。それなのに、勢いだけで相手を殺めた。血が流れ続ける右腕はとうに冷たくなっていた。それなのに、短刀を握る手から力は抜けず、どうしてもその短刀を捨て去ることができなかった。
脳裏に言葉が繰り返された。
――お前が殺ったんだ
だが、今はその手に力が入らなかった。キラの手は力を失い、そのまま魔女の肩に預けられた。その手に魔女の震えが微かに伝わってくる。
それは、まるで自分自身を恐れていた過去の自分のようだった。
誰がこの魔女に声をかけるだろうか。誰がこの魔女にキラの人相を訊こうとするだろうか。誰が、魔女に知り合いだったか、などと尋ねるだろうか。それよりも、この目の前にいる魔女を消す必要があるのだろうか。
溜め息が出た。確かにジャック失格だ。魔女の目がゆっくりと開かれる。魔女らしい雰囲気はとうになくなっており、誰よりも頼りない女の子がキラの目に映った。
「名前は?」
しかし、名前なんてどうでもいいのに、どうして名前なんて尋ねたのだろう。例えば、どうしてこんな所にいるのか、とか、キングはどうしたんだ? とか。……いや、声なんてかけなくてもよかったはずなのに。
「……ワカバ」
「ワカバか。おれはル…」
キラは慌ててそれに続く言葉を飲み込んだ。どうして今それが出てきたのだろう。
「る?」
首を傾げたワカバの表情が少しあの野良犬に似ていた。考えても何かが分かるということもないのに、その言葉の意味を必死で考えて答えを出そうとしているところが……。別に『ル』でも構わなかったが、キラは改めて、「キラ」と名乗った。
「きら……?」
キラの言葉を澄んだ声で復唱したワカバは、その後少し首を傾げた。キラは静かに頷いた。
「何か用だったんじゃないのか?」
ワカバは目の前にいる人間がいったい何を話しているのかが分からないかのように、首を傾げていた。キラは無駄な時間を費やして、自分でもわけの分からないことをし続けようとしている。動いていく時間に、思うように動かない自分。キラはどんどん焦り、苛立ち始める。何が正義なのか、キラには分からない。
「それ、外して欲しいのか?」
キラはワカバを拘束する鎖を指差した。おそらく、簡単に開く錠だ。ワカバは条件反射的に頷くと同時に、自分の行動に驚いたように頭を振った。