澱み・・・5
ターシャが魔女のために用意した部屋は母が若い頃に使っていた部屋だった。そこには姉のために用意されたドレスや調度品も詰め込まれている。何よりも嫌なのが、片開きの扉右手すぐに金縁の大きな父の若き肖像画があることだ。今もそれがルオディックを見下ろしていた。ターシャはダルウェンに医者を呼んでくるように説得し、氷水を用意してきますと出て行った。いや、ダルウェンにしたあれは、説得とは言わない。押し付けた、が正しい。
その部屋で魔女は静かにソファの上で膝を抱えていた。ルオディックはその魔女とローテーブルを挟んで座っており、岩のように動かない魔女をどうしようか悩み、ターシャが帰って来ることを心待ちにしていた。魔女は何を訊いても黙ったままなのだ。さっき会話したことも忘れて、もしかしたら言葉が通じていないのかもしれない、という一種の逃避すらしかけた頃、扉が軽く叩かれた。ある意味長い拷問を受けているような感覚に陥ってたルオディックには、その音が救いの音に思えた。しかし、魔女にとってその音は全く違った音だったらしい。
「きっとターシャだ……さっきいた者だから、心配するな」
飛び上がり、ソファの上に立ち上がった魔女にルオディックは静かに伝えた。その右足は痛むのだろう。やはり力が入っていない。
ルオディックが扉を引き開けると険しい顔のままターシャが入ってきた。もちろん氷水が入った洗面器を抱えている。本当は怖くて仕方がないのだろう。ターシャの表情は魔女の表情となんら変わらなかった。なんだかんだ言っても、彼女もディアトーラの人間なのだ。幼い頃から聞かされてきた魔女の恐ろしさはよく知っている。
「ありがとう」
恐怖を押し殺して魔女の世話をしようとしてくれるターシャにルオディックは心から感謝していた。
「とにかくあの足を冷やしてしまいましょう。お医者様が来られるまでにはまだ少しかかるでしょうし」
いくら信頼厚いダルウェンでも魔女の治療を頼むのだから、取って帰っては来れまい。ターシャの行動は理に適っている。しかし、ターシャの権幕のまま魔女に近付いて大丈夫だろうかという不安がルオディックの中から消えない。実際に魔女は先程からずっとターシャを見て、時が止まったように固まってしまっているのだ。
「ターシャ、無理しなくても……」
ルオディックはターシャを引き留めようと声を掛けたが、一度決めたことをターシャは譲らなかった。
「無理なんてしていませんわ。だから坊ちゃまは魔女を押さえておいてください」
押さえなくても魔女は静かに座っていたし、ターシャの気迫さえなければ、きっと騒ぐこともなかっただろうとルオディックは信じて疑わない。
ターシャがずんずん魔女に近付いていくのと同時に、魔女はぐんぐんソファの背にもたれるようにして立ち上がり、恐怖のために表情を動かさなくなったターシャは、そのまま魔女との距離を詰めていく。結果ソファから倒れた魔女が転び、「森へ帰るー」と叫んだ魔女を、取り乱したターシャが悲鳴を上げる始末。果ては這いつくばって逃げ回る魔女に触れたターシャが悲鳴を上げ、魔女の悲鳴にターシャがまた悲鳴を上げる。てんやわんやだった。さらに火の粉はルオディックにも降りかかる。
呆れ果てるというか、どう手を出せばいいのか分からずに傍観者を決め込んでいたルオディックにターシャが叫んだのだ。
「坊ちゃまっ! 早くそれを取り押さえて下さい。さっさと治ってもらって、さっさと出て行って頂かないと」
最早『魔女』とも呼ばれない追い詰められた『それ』は壁を背にゆっくり立ち上がり、ルオディックとターシャを交互に見遣り、片足跳びで走り出したのだ。そのお陰で部屋にあった数少ない置物が床に落ちて、散らばり始める。
足が悪いのに、魔女も暴れるものだから、ルオディックはその暴れる魔女をターシャの要求通り取り押さえなければならなくなり、恐怖のため『冷やす』そして、『出て行ってもらう』ことにしか頭が回らず、使命感まで生まれたターシャは耳を貸そうとしない。捕らえられた魔女は魔女で必死だから、ルオディックも手を緩められず、ターシャを押さえる手はルオディックになかった。だから、ターシャが鬼の形相のまま魔女の足を氷水につけたその瞬間、息を呑んだ魔女が糸の切れるた人形のようにしてルオディックに全体重を預け気を失ってしまったのだ。
一体どっちが魔女なのだか……。
この状況においては、と自然とターシャに目を向ける。今も肩を怒らせ、息を荒げるターシャに呪いをかけられ、その従者に捕縛された少女の図。明らかに悪役である。
しかし、不思議なことは、ターシャの望みと魔女の望みが一致していることで、ルオディックの配慮だけがちぐはぐなことだ。
そこへ医者がダルウェンと共にやってきた。
「何をされていたのですか?」
呆れ声を出したのはダルウェンだった。
「いや、足を冷やして」
ルオディックの流していた汗が冷や汗に変わった。
「もう充分冷やされましたか?」
初老の医者が黒い鞄から包帯やら湿布やらを出しながら静かな対応をした。
「いや、……」
「それではそのまま彼女をベッドへと寝かせて、足はタオルで冷やすことにしましょう」
ディアトーラ唯一の医者は魔女を彼女と呼び、丁寧に足にタオルを巻き、その上に氷嚢を包むようにして乗せた。そして、その間に頬の傷をきれいに洗い、軟膏を塗りガーゼを当てた。それは何も臆せず進められる。この治療に関して医者は魔女を確実に人間として扱っていた。それがルオディックの緊張を幾分か解いたのも確かだった。
「頬の方はすぐに良くなるでしょうが、足は…多少後遺症は残るかもしれません。腱も痛めているようですし、長時間放置したことと無理をして使っていたせいでしょうな」
白髪の多くなった髪をすき上げた医者は、そう言いながら、丁寧に冷やした足に添え木を当てて、包帯を巻き始める。その様子を見てルオディックは少なくとも医者を呼んでよかったと、安堵していた。それなのに、医者はルオディックの目の奥を見つめて最後に嫌なことを言った。
「若いようなので完治と言う可能性もありますが、魔女の薬は人間のそれよりも優れていますことは事実です。私の力ではここまでの治療しか出来ません。森へ返した方が良いのではないでしょうか」
それに対して、ルオディックは彼の目を見なかった。その言葉がルオディックの抱いた安心という幻想を崩壊へと導いた。いや、信頼を裏切られたのだろうか。ルオディックは目くじらを立てていた。
「でも、まだ魔女だって決まった訳じゃない。それに、魔女だとしても人を食らう魔獣が徘徊する夜に、こんな状態の者を森へ突っ返すなんて、……おかしいだろ?」
それは男女問わず。たとえ、ルオディックだって動けなければ喰われてしまう。気を失っている魔女に視線を移すとやはりそれは間違っていると思える。魔女だろうとも、怪我をしている女の子だ。
「ルオディック様がそうお思いになるなら何も申しません。ご心配なさらずとも今晩のことは他言致しません故」
医者はやはり静かに黒鞄を片付けた。
「死んだりしないよな」
静かに眠ったままの魔女を見て、ルオディックは心配になった。
「捻挫で死んだ者などは存じません」
ルオディックと視線を合わせなかった医者は静かに呟いた。ダルウェンは黙ってその医者を送って行き、ターシャは部屋を片付け始めた。魔女は胸を上下させながら眠っている。生きているのだ。そして、「坊ちゃまも早くお休みください」と頭を下げたターシャが部屋から出て行くと、ルオディックも糸が切れたように魔女の眠るベッドの脇の椅子に座り込んだ。
魔女は昏々と眠っていた。そして、出て行く際のターシャの肩が震えていたことを思い出しながら、ルオディックもそのまま睡魔に負けてしまった。




