澱み・・・3
教会の中は闇に包まれ、寂然としていた。
本来、教会の中は青いステンドグラスから差し込む月の光で奥に祀られる女神像を照らし出し、闇に包まれることはない。どういう作りなのかは知らないが、教会内には闇がなく、僅かな光でも取り込むようになっている。その様子を『海』に似ていると母が言ったことがある。海を知っている母が語ったせいでもあろう。ルオディックはその光景を目蓋の奥に再現させ、海であると理解できるのだ。
海は深く青い色をしており、全ての生命を奪い育むものであり、とてつもなく広い。そして、この教会に揺らめく青に似ている、と。
それが今はない。ルオディックの視界の先にあるのは、弱々しい夜空の光を窓に反射させる程度の景色だ。
正面にはもう使われない艶のある木の司祭台があり、奥には白磁の女神が何かを掬い上げるようにして手を合わせている。元は偶像崇拝のないディアトーラだったが、リディアスの白磁の女神に似せて、それを置くようになった。確か、リディアスの物は両手を開き、全ての者を受け止める意味があったが、それはディトーラの物と意味合いが全く違う。
ディアトーラの白磁の女神の掌には日中なら陽の光を集め、夜なら月の光を集めるように青い硝子窓が設計されており、彼女が希望の光を掬い上げているのだとされている。
今はその頭上の青い窓にカーテンが掛かっており、月の光も受けていない。
「おい、いるんだろ?」
整然と並べられている二列の楡の長椅子の間を歩きながら、ルオディックは静かな声を響かせた。反応はない。椅子の陰を慎重に覗きながら、司祭台まで辿り着きもう一度、影なき侵入者に声を掛けた。
「返事くらいしろよ」
そう言いながら、女神像の後ろに回る。窓拭き用の梯子が倒れてある。あっておかしくないのだが、もちろん使い終われば倒しておくのだが、窓拭きの男はこんなにずさんだっただろうか。ルオディックはその梯子を静かに出窓へ立て掛けた。カーテンを閉めたはずの何かがいるとすれば、この上か……。
「なぁ、ここおれの家なんだ。出てこいよ」
家、というのにも語弊があるが、伝わればいいだろうとルオディックは思った。そして、ちょうど司祭台に戻った時に、もう一度声を掛けた。
「黙っているつもりか?」
わずかな沈黙の後、細い声がやはり頭上から落ちてきた。
「……ごめん、なさい」
するとカーテンの隙間からその顔が一瞬垣間見えた。しかし、それは一瞬にして隠れてしまった。しかし、それでも、何がいるのかくらい分かった。年の頃はルオディックとそれほど変わらないか、少し幼いか、くらい。ルオディックは溜め息を尽いた。いったいここの領民は何に怯え、何を失おうとしていたのだろう。
いくら、リディアスを恐れていると言っても、ここはディアトーラだ。彼は、リディアスを恐れて魔女を撃ったのではない。魔女を恐れ、魔女を撃ったのだ。それこそ、何を要求されるか分からない。そんなことをルオディックは幼い頃から聞かされてきた。
足を引き摺っていたらしいが、大したことなかったのかもしれない。一先ず安堵というところだ。しかし、梯子を倒して、魔女はいったいどうやって逃げるつもりだったのだろう。ルオディックはその答えを一人で考え、一人で出した。
あぁ、魔女は空を飛んで降りるつもりだったのかもしれない。
「咎めないから、早く下りてこい」
そう言って、脇差しから手を離して両手を広げてみたが、不十分かもしれない。もしルオディックなら、梯子で下りている間にその背後から切りつけられることを想像する。おそらく丸腰でも大丈夫な相手だ。それに加え、殺気もない。何とかなるだろう。そう思いながら、ルオディックは脇差しを自分の背後に投げ捨て、その行方を確認した。ちょうど後ろ一歩半の場所だ。しかし、この魔女がそんなに考えた末に下りてこないことを選択しているとも思えなかった。だいたい、その窓に上った時点で袋の鼠である。もし何か意図があってそこに居座っているのならば、魔女が怯える必要はない。伝承通りならば、呪いでも魔法でも使っていつでも邪魔者であるルオディックを殺せるのだから。だから、ルオディックは極力優しく声を出す。
「本当に危害は加えない。だから、下りてきてくれないか。そこにいても何にもならないだろ? みんなも怖がってるんだ」
「でも……」
ルオディックはかなり譲歩しているつもりだった。いくら危険がないだろうと思っていても、自分自身を窮地に追い込むわけにもいかない。魔女が町に出てはいけないのだから、勝手に出て行くのを待つ、なんて不確かなことも選択できない。
「でも、なんだよ」
少し不機嫌な声がルオディックから漏れた。そして、ルオディックを見下ろした魔女が叫んだ。
「……足が痛くて下りられないのっ」
その声ははっきりとルオディックの耳に届いた。しかし、思わず尋ね直したくなる。拍子抜けもいいところだ。ルオディックは「えっ?」という言葉をやっと呑み込んで、姿のない魔女を見上げた。魔女にも火事場の馬鹿力が働いたのだろうか。
「……分かった。下ろしてやるから大人しく待ってろ。いいな?」
魔女は答えなかったが、返事がないということは大人しく待っているということだろう。
梯子の状態を再確認し、二人分の不安定さを補うために引き摺ってきた長椅子に梯子を突っ張り、もう一度「動くなよ」と念を押してから梯子に上り始めた。上ってみればよく分かるが、足を引き摺りながら上れるものではなかった。大勢で押しかけて驚かせてもいけない。一人でよかったと思った。魔女は大人しくルオディックが上りきるのを待っていた。そして、ルオディックから距離を取るようにして身を窓に寄り添わせた魔女を見て、本気でダルウェンを呼ばなくてよかったと思ってしまった。あの厳めしい顔で覗かれたらルオディックでも退くのだから、この魔女にとっては、ずっと恐ろしいものになっただろう。魔女は膝を抱え、その膝に顔を埋めたままルオディックを見遣った。
頬の傷からはまだ火薬の臭いがしていた。下りられないと言った足の傷は、さらに悲壮だった。右足首は左足首の二倍は腫れており、月明かりでも分かるくらい赤蒼く染まっている。そして、その表情は『怯え』と簡単に言えるようなものではなかった。
この魔女は痛みを堪え、太陽が闇に呑まれる中、寂しさを一人で抱え、いつ来るか分からない人間を恐れていた。森で出会った人間は魔獣なんかよりもずっと恐ろしく思えただろう。目が合った瞬間に撃たれ、追いかけられる。ルオディックの中に初めてこの魔女を馬鹿にしていた罪悪感が生まれた。
「……おれはここの領主の息子だ。不在の領主に代わり謝罪する。本当に申し訳なかった。どうか許してくれないか。あの者も気が動転していたんだ」
魔女は答えず、ルオディックに視線を移すとそのままルオディックを凝視した。その瞳は、そう、人間にはない、新緑色の鮮やかな緑の瞳。
胸が押し付けられたように苦しい。だから、もう口を閉ざしたりしないで欲しい。何故かルオディックはそんな理由なき許しを乞うていた。
「悪かった。怖かったよな……ごめんな。だから、傷の手当てをさせてはくれないか?」
差し出した手に魔女が恐る恐るその手を乗せると同時に、その瞳から涙が零れはじめた。ルオディックは彼女の背に手を回し、母親がするように魔女の背をゆっくりと擦ることしか出来ず、これからのことを考えながら、魔女の気持ちが落ち着くのを待った。




