澱み・・・2
ルオディックが書斎の仕事を終え、伸びをするとちょうどダルウェンがその扉を叩いた。窓の外を見ると日が傾いてきている。遅い朝を終え、四時間くらい経ったようだ。
「なんだ?」
ルオディックはぐるりと肩を回して、体をほぐしながら、扉の向こうからやって来たダルウェンを見遣った。ダルウェンには珍しく「えぇ、あの」と口籠った。
「何かあったのか?」
ルオディックに尋ねられたダルウェンは曖昧な笑みを浮かべ、奥歯に何か挟まったように「教会の鍵を貸して頂きたく」と続けた。
「こんな時間に必要なのか?」
ルオディックの問いかけに対して、ルオディックを見ずに「えぇ」と答える。通常、鍵は常に領主の持ち物であり、いくらルオディックが領主としての権限を持たなくても、ダルウェンに貸す理由にはならなかった。まぁ、鍵を開けた覚えも、掛けた覚えもルオディックにはないのだが、それは黙っていた。開けていなかったにしろ、鍵を掛ける時間だったにしろ、それが理由なら非はルオディックが受けるべきだ。
「教会を閉める時間にございますので」
「それならおれが行く」
「いえ、坊ちゃまはお疲れですから……」
ダルウェンもルオディックの知らないことを知っているようだ。ただ、今はそれ以外にも言いたくないことがあるのだろう。ダルウェンは領主付きの執事だから、ルオディックよりも領主の仕事をよく知っている。立場としてはルオディックよりも上になる。しかし、だからといって権限が多い訳ではない。
「仕事を放棄しなければならないくらい疲れてないさ」
鍵は父の文机の左引き出しに入ってある。
「どうしてもお前が行かなければならない正当な理由があるのなら、説明しろ」
いくらダルウェンでもルオディックが正論である限り、領主代理として扱わなければならないだろう。ルオディックはそれを見越して、引き出しを引かなかった。そして、言い出したら聞かないルオディックの頑固さを知っているダルウェンは、口籠りながらも話し出した。
「魔女が……その……教会に閉じこもってしまいまして……」
それが一大事であるということはいくらルオディックでも分かる。聞けば、昼過ぎから魔女と思しき少女はそこにいるらしい。狩人のゴーギャンが獣と間違えて撃ってしまったことで、パニックになった魔女が走り出したのだそうだ。追わなければよかったのに、ゴーギャンは魔女を追い、もう一発撃った。魔女の逃げた方向が悪かったのだ。森の奥へと行けばよかったのに、魔女は人里に向かった。そして、その際に一度転び、足を引き摺り、領主の庭へと飛び出した。気が動転していたのだろう。魔女は目に入った教会へ逃げ込み、立てこもった。
ただ、逃げ込んだ場所が領主の庭だったということで、ゴーギャンの銃はもう火を噴かなかった。それが魔女にとってもディアトーラにとっても唯一の良き点となる。
館を出ると陽はもうほとんど落ちてしまった後だった。ダルウェンを待っていたゴーギャンが手にあるランタンでルオディックを照らし出すと、彼は驚き顔ですぐさま頭を下げた。
「坊ちゃま、やはり危険ですので、私共が……」
「昼過ぎのことだって言ったよな……四時間は経ってる。鍵がなかったと言っても理由にならないくらい放置してるんだよな。報告もなしに」
例えば、本当に魔女なら、呪いの一つでも唱えていよう。魔女は不可侵。ディアトーラの決まりだった。それに、……。ふと頭に靄が懸かかり、思考が止まった。ルオディックはそのおかしな靄を取り払うように頭を振った。
「ゴーギャン、お前に怪我はないな?」
頭を下げていたゴーギャンが「はい」と唸った。
ルオディックはゴーギャンの頭を上げさせ、ずんずんと教会へと進んだ。濃紺の屋根に白い壁。ディアトーラの陽は落ち始めると早い。もうすっかり闇の中だ。荘厳な木戸に手を当てたルオディックにダルウェンがもう一度、声を掛けた。
「坊ちゃま、やはり私が……」
「魔女だって決まった訳じゃない。心配するな」
ルオディックはダルウェンの心配を和らげようとした。腕には自信があった。身の熟しも初老のダルウェンよりもいい。ただ、それらのことが果たして魔女に通じるのかどうかは分からないが、魔獣退治ならルオディックの方が動ける。これはダルウェンも父も認める事実だ。
「ならば、武器となるものを」
「要らない」
即答したルオディックの目に、目を丸くするダルウェンが映った。『武器』どうしてかその言葉に嫌悪感が溢れ出したのだ。武器など要らない。ルオディックは自分でも分からない感情を押さえようと、もう一度表情を柔らかくした。
「心配するな。そう簡単には殺られない……武器ならある」
ルオディックは脇差しに右手を置いた。「そんな脇差し一つで」ダルウェンのその顔はそう伝えていたが、無視して、ルオディックは扉の隙間から体を滑り込ませていた。




