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望み願うものは悪魔となり


 それは昔。まだ、リディアスもワインスレーも存在しない時の中。一人の女が走っていた。女の腹は少し膨れはじめていた。それを追う袈裟を纏った(まじな)い師たち。


 領主替えの儀式を行うのだ。それなのに、女が逃げた。呪い師たちは必死になって女を追いかける。彼女がいなければ、この儀式は完了を迎えない。木の根に足を取られた女が抑え込まれた。そして、その背に短剣が突き立てられる。痛みに叫ぶ女は、それでも逃げようともがき、躓いた木の根の持ち主の幹まで手を伸ばした。


 子など身籠ってなければよかった。


 涙が流れる。そんなことを思っているわけではない。領主替えの儀式は今始まった儀式ではない。自分の夫である男の、その曾祖父の時代にだってあった。その男も同じ儀式を行って、領主になったのだ。領主の血のすべてを喰らう儀式。


 誰が考え出したのだろう。今私を襲っている呪い師たちの祖先だろうか。


 腹を庇い蹲ろうとする女の背にもう一度短剣が刺される。


「あうっ」


 激痛が走る。力ずくで仰向けにされ、腹が顕わになる。まだ握り拳ほどの小さな小さな者。あなたが来てくれて、本当に嬉しかったのに。どうしてこんなに呪わしいの。呪い師が銀色に光る儀式用の長剣を振り上げた。流れる血が大地を黒く染めていく。背中がやたらと冷えて、生暖かい。


 子など身籠ってなければよかった。殺される。こんな儀式、こんな世界いらない。違う。私は、そんなことを望んでいない。だけど、呪わしい。


 太陽に剣が反射する。意識が遠のいていく。


 こんな世界いらない。誰か、悪魔でも天使でも構わない。この子を助けて。生きられないなんて……こんな悲しい世界、いらない。


 消えてなくなればいい。


 暗雲が立ち込めた。女の意識はもうなかった。しかし、剣が下りて来なかったことくらいは分かった。女の耳に声が聞こえた。そして、光を見た。いいえ、それは、光ではなく、闇に出来た隙間だったのかもしれない。


「本当にそれでいいの? あなたの願いは、それじゃあないでしょう?」


 だけど、どうしようもないじゃない。だって、…。生きられないんだもの。この子が。もう死んでしまったんだもの。そうよ。この子が生きることのない、この世界。こんな世界いらないの。この子に生まれてきて欲しかった。お母さんって呼んで欲しかった。


「嘘の願いはいけないわね」


その声は、女の中に溢れた邪気を鎮めるように、清らかに響き、流れて行く。健やかな感情が戻ってきた。


 あなたはそれを叶えてくれるの? この子が生きる世界を創ってくれるの? 


 白い顔、赤い唇がゆっくりと微笑んだ。


 女の体が割れて、大きな木が根を張った。


 世界が壊れる。



 身籠った女の体を憑代にトーラを呑み込もうとしたリディアが、胎児を憑代に変えたトーラに心臓を掴まれた瞬間だった。トーラがこの女の願いに引き寄せられるということは分かっていた。だから、女から染み出た血液を辿り女の中へと入り込み、世界を滅ぼすようにリディアは女を誘惑したのだ。すでにこの世を呪っている女の意識を変えるのは容易いことだった。まさか、その人間を最後に誘導するとは思わなかった。


「残念だったわね」


 白い顔、赤い唇、長い漆黒の髪を風にも靡かせない女が足先に伸びてきた根に言った。その根は大地に草木を芽吹かせ、人類すべてを呑み込もうとして失敗したリディアのものだ。本当にあと少し……。あと少しだったのに。


 歯嚙みをするリディアにトーラは挑発とも取れる言葉を掛けた。


「少しでも動いてごらんなさい。あなたの心臓を握り潰すから」


「お前こそ、私から逃れられない。絞め殺されるのはお前の方だ、トーラ」


立場は同じはずなのに、トーラはリディアを嘲った。普段表情のあまり動かない彼女にしては珍しく、その唇に笑みさえ浮かべ、更に続けた。


「私の拳を潰すということはあなたの心臓を潰すということでしょう?」


どうしてそんなに可笑しい? どうして、死を恐れない? どうして、私がお前を恐れなければならないのだ。こんな愚かな者たちに加担するお前にどうして負けなければならないのか。リディアは悔しくて仕方がなかった。


「自由になりたいのなら、この子を吐き出すしかないわね」


 トーラの声はとても非情だった。



 ★ 



 それはちょうど、ラルーがフーの最期を看取った時だった。今までに感じたことのない眩暈と吐き気を感じたのだ。フーが変えた過去のせいなんかじゃないことはすぐに分かった。世界の根幹が揺るがされる歪みだ。


 世界を埋め尽くそうとしていた木々が(しぼ)み、元あった場所へと戻る。そこは時輪の森と呼ばれ、魔女の棲む場所とされていた。新たなトーラも封印されたリディアもここにいる。そして、それを守る家系があった。クロノプス家。その国の名はディアトーラ。


 トーラに捧げられる国。妹のルカはこの土地に輿入れしていた。そして、ルカはそこで時の遺児と呼ばれる盤外の駒を集める儀式を作り出した。時の遺児がトーラを持つことが世界の崩壊へとつながるからだと認識してはいたが、ラルーにはどうしてそんなことをするのかが全く分からなかった。単なる時の遺児くらいなら、ラルーが看視出来る。しかし、もし、この事態を見越しての事だったとしたら……。


 やっと眩暈が治まり、ラルーは考えを巡らせた。


 駒を回収するということは、全てをトーラの手駒にするということなのだろうか。トーラは一体何を考えているのだろう。ラルーには分からなかった。それまでして護らなければならない『トーラ』とはいったい何者なのだろう。誰よりもトーラの近くにいて、誰よりもトーラのことを知っているはずなのに、ラルーはトーラが永久(とわ)の向こうにあるようにしか思えなかった。


 だから、ラルーは嫉妬したのだ。どうして、こんな者に。どうして、私に与えて下さらずに、こんな者に。こんな何も出来ないような者に。


 今まで思ってもみなかった言葉がラルーの脳裏にはっきりと現れた。


 私が必死になって護っていたのは、あなたのためなんかじゃないわ。




 こんな世界、もういらない。




 ★



 同じく歪みによる眩暈を起こしていたマイラは思った。きっと、終焉が近付いてきているのだろうと。トーラが人間だった時の娘であるからといって、いつまでも護られるとは思っていなかった。だから、このディアトーラという場所に輿入れの話が出たのだ。ディアトーラ、親愛なるトーラ様。そんな意味を持つこの国に私は吸収される。ここは、『トーラ』の娘が嫁いだ先。そして、そんな名前を付けた領地。


 覚悟はしていた。それなのに、我が娘の存在が危ぶまれるなんて思いもしなかった。それはイルイダが四つを数えた時だった。マイラは看視者に出会った。彼女は新たな世界に生まれる子の存在をマイラに教えた。そして、新たなトーラの作った時を歪ませると言う。マイラはイルイダを護りたかった。だから、看視者の甘言に乗った。その子はイルイダが生きるための保険なのだ。


 程なくして、森に幼い男の子が現れた。まだ、言葉も覚束ない、小さな子だった。しかし、その子は本当に夫、ビスコッティによく似ていた。 


 トーラは盤外の駒の願いは叶えないが、盤上の駒の願いなら叶える。この子には森に興味を持ってもらおう。魔女なんか恐れない強い子になってもらおう。そして、母思いの姉思いの優しい子に。


 そうしたら、この子がイルイダを守ってくれるかもしれない。


 マイラは小さなもう一人の我が子を胸に抱き、魔女というよりも悪魔になった。胸が締め付けられた。


 イルイダが生きるということは、この子の存在は消えるということだ。


 マイラの胸は暖かい命を抱きながらも、急激な冷え込みを感じ始めていた。







 

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