月が静かにほほ笑む夜・・・2
アブデュルが部屋にやってきてシャナがワカバに言った。ワカバはぼんやりとしていて、よく聞き取れなかったが、シャナはもう一度ゆっくりとワカバを見つめた。
「ごめんね。アブデュルと話があるの。少し出て行ってもらえるかしら?」
それなのにシャナはワカバに変なことを言った。
「ワカバ? あたし、あなたのこと結構好きよ」
雨が止んで、外は静かだった。雲間から月の光が漏れ始めていて、風が出てきていることも窓の音から分かった。しかし、ワカバはどう答えればいいのか分からず、首を傾げてシャナを見つめたままだった。「すき」なんて言葉、人間から言われたこともないし、それが魔女にも使われる言葉だということも知らなかった。だけど、何となくくすぐったくて、楽しくて嬉しかった。
「わたしもっ」
気持ちが消えてしまう前に、急いで言っておきたくなったのだ。
「わたしも、シャナが好き」
「馬っ鹿じゃないのぉ。そういうことは……」
「……?」
ワカバの顔を見つめたシャナは突然声をあげて笑い出した。
「ごめん……あたしが言えたことじゃないわ」
そして、思い出したように一つ付け足した。
「ねぇ、あの時、ほら、ソラのキャンプであいつのこと必死になって探してたでしょ? あれ、どうして?」
どうして今さらそんなことをシャナが尋ねるのか不思議に思いながら、ワカバはやはり周りを気にしながら、言葉を選んでいった。
「あれは、お向かいに住む人間の赤ちゃんの熱が下がったことを伝えたくて。ちゃんといたことを伝えたくて……いなかったんじゃなくて、静かに寝てただけで、わたしの薬を飲んでくれたことを伝えたかったから」
それから、仲直りもしたくて……。謝りたくて……。病気が治ったことを知ったら、褒めてくれるかもしれないと思って。怒らないかどうかも聞きたくて。
「それで、それは伝えたの?」
まだだった。ワカバは口をつぐんでシャナから目を逸らした。それなのに、シャナは全く怒っていなくて、「教えてくれてありがとう」と微笑んだ。ワカバは、ありがとう、と小さく繰り返した。素敵な響きが残った。
外は雨上がりの静けさに包まれて、上空で吹く風が空を覆っていた厚い雲を動かし続けている。その雲の隙間からたまに姿のない月の光が見え隠れしてした。明日は晴れるのだろう。ワカバは漠然とそう思った。
再び声を出すようになって、まるで言葉がパズルのピースを埋めるかのように、ワカバの忘れていたことが記憶としてはっきりと蘇ってきていた。ときわの森に行きたかったのはラルーがいるからではなく、ワカバの『お母さん』のお墓がそこにあったからなのだと思うようになった。ただ、お墓と言っても、それは大きな木に過ぎない。ワカバの母親はその木に呑み込まれたのだそうだ。そして、ワカバはその木に吐き出された。ワカバと一緒に住んでいたラシンお婆ちゃんが言っていた。多分、キラの言う母親と同じ存在だと思えるものだ。
村の魔女たちは薬草を育て刈り取り、薬にする。それらを森の外へ売って、鍋や糸車、桶、荷車に変えて帰ってくる。井戸の水を汲み、遅い朝食を摂る。毎日同じ作業を繰り返していた。ワカバはその全てに参加しているようで、参加していなかった。そんなつまらない村を抜け出して、ワカバはこっそりとその木の麓に立っていた。そこで、ただぼんやりと、その木から零れてくる太陽の光を体に映して遊んでいた。大丈夫。光はそう言っているようで、ワカバは安心してまどろむことが出来た。同じ時間が保障されている、大切な場所だった。
それなのに目が覚めると知らない場所にいて、ラルーが現れた。全ての景色が白一色になっていた。白い壁に囲まれたどんな暖かさも感じられない場所。何故だか分からないが、生きていることがとても怖くて、そこに来る人間を見ると震えが止まらなくなっていた。ラルーにはその壁の中で出会った。ラルーは一人ぼっちになったワカバをぎゅっと抱き締めて、「あなたは悪くない」と教えてくれた。
「だから、心配なさらないで」と。
人間はいつもワカバに恐怖を与え、ラルーはいつも助けてくれた。ラルーのくれる丸くて甘い薬が、ワカバを恐怖から救ってくれる。だから、全部人間のせい。「人間なんて信用するものじゃありませんわ」というラルーの口癖も確かな真実だった。
しかし、本当に人間を恐ろしいと思うようになったのは、ラルーがいなくなってからだった。キラがワカバを助けてくれた、あの場所で。その場所にいたランネルは、白い上着ではなくて、黒いマントを好み、誰に話しかけるでもなく喋り出した。ランネルは遠い目をして壁を見つめていたが、ワカバを見ていたわけではなかった。
人間は魔女を恐れ嫌う。そして、その存在を煩わしくさえ思う。しかし、出来るのなら、いつしかその力を自分の物にしたいと願う。
「まぁ、お前には分からんのだろうがな」
そう言って、ランネルは顔を抑えて大声で笑い始めた。何がおかしかったのか全く分からなかった。息を吸うのも忘れたように笑っていたランネルは、笑い続けた後、あらゆるものを吐き出してしまったように、静かになってしまった。中身がどこへ消えたのかは分からない。
そして、キラに出会い、声を掛けた。どうして声を掛けたのだろう。
ワカバは、もう一度厚い雲の掛かる空を見上げ、しばらくぼんやりとしていた。月が隙間から顔を出したり、隠れたりするようになっていた。
「雨、上がったな」
キラだということは声で分かったのだが、ワカバは飛び出しそうになった心臓を押さえ、振り返った。
「……。……」
あちらこちらを眺め回したワカバはキラの顔をやっと見た。キラに何も断らずに出てきてしまったワカバはきっと怒られるのだと思ったのだが、キラは怒っていないようだった。だから、ワカバの気持ちが少し軽くなった。
「薬、ありがとうな。よく効いたよ」
ワカバは次にどうしたらいいのか分からなくなった。キラがどうしてそんなことを言うのかも分からなかった。そして、喋らないワカバにキラは続けた。
「あいつ……シャナは何か言ってたか?」
シャナと話す時は大丈夫だ。だから、きっと大丈夫。今はきっと大丈夫になっているのだ。そういえば不思議なものでシャナがいる時はあまり怖くなくなってきていた。魔法よりも、どちらかと言えば、シャナに答えなさい、と強要される方が怖い。それなのに、ワカバは何も言葉を紡ぎだせない。あの夜の出来事にしても、あの河での出来事にしても一体何が起きたのか、それすら分かっていないのだ。ワカバの目の前にいるキラはとても静かにワカバを見下ろしている。そして、キラが静かに笑った。キラが笑うのは珍しい。だから、不安になってキラを見つめた。まさか、ランネルのように全てを吐き出してしまってはいないだろうか?
「あいつな、あの教会にお前独りになんてかわいそうだって言ってたんだ。変わってるよな。誰が魔女と一緒に好き好んでいると思うんだ? お前は魔女なんかじゃない、ってあの押しかけてきた奴らに怒鳴りつけてた。すごいよな、あいつ」
ワカバは咄嗟に頭を振っていた。シャナが言った言葉、キラの言った言葉。全部、間違っていた。全部ワカバが、間違っていた。胸がずきんと音を立てた。キラがワカバを覗き込んでいた。
「どうした?」
一生懸命頭を振っていたワカバはキラをしっかりと観察した。でも、覗き込まれたキラの瞳は空っぽではなく、ちゃんとワカバを映している。
「ごめんな……。ワカバは何も悪くないのにな」
そして突然「戻ろう」と言って歩き出した。ワカバは何だか奇妙な感覚だった。まるで、入り口だ、と思って飛び込んだところが出口だったような。ワカバはそんな奇妙なことを言うキラの背中を見て、何か言わなければならないと思った。
「あの……」
キラが立ち止りゆっくりと振り返った。ワカバは不安になって口をつぐんだ。ときわの森に行けばキラと一緒にいることは出来なくなるだろう。おそらくラルーはそれを許さない。キラは黙って真っ直ぐワカバを見ていた。
「あの……」
どうもうまく続かない。頭と口が全くうまく共動してくれないのだ。そして、何が言いたかったのか、分からなくなってしまった。不安だった。ワカバは不安を掻き消す魔法を一つ思い出した。
「わたし、キラのことも好き。……」
それなのに、どうしてだろう。どうして高鳴る心臓は深く沈んだように疼くのだろう。シャナが言った時はあんなに素敵だったのに。不安は増す一方だった。
「……大丈夫。キラは、悪くない。だから」
キラがラルーの様に笑っていた。お腹の上辺りがとくとくと動いていた。
「……ありがとう」
シャナがくれた言葉はどれも素敵だった。それなのに、どうしてすっきりしないのだろう。俯いてしまって、見たいのに見れないキラの顔はどんな表情を浮かべているのだろう。
「こちらこそ、ありがとう」
キラの声は、静かで優しかった。俯いたままほんの少し歩き出すことをしなかったワカバは、その背中を見つめた。キラの背中は遠い。手を伸ばしても届かない。
雨雲はもうほとんどが風に流されて、満月が顔を覗かせていた。ねぇ、ラルー。わたし、キラ達とずっと一緒にいたいんだ。それは、許してもらえること?
ワカバの頬に涙が一筋流れた。ワカバにはその涙の意味が分からなかった。




