リディアスの傭兵・・・4
ランドと会話した後もキラは『メイ・k・マイアード』として『暇』な夜回りを続けていた。要するにキラを疑った結果、もしくは、試した結果ランドがあのような質問をしてきたわけではなかったのだろう。しかし、キラはもう一度彼に出会った。「試作品ですが……」と『鉄の棒になる布』たる胡散臭い代物を渡してきたのだ。どうやら、以前の質問の答えの感謝の意、らしかった。そして、もうランドとは関わりたくないという思いをキラはさらに深く深く深め、雇われ兵であることを喜んだ。傭兵と研究所副所長なら、何をどう間違っても同じ職場にはならないはずだ。
キラは、だから今も同じく城壁周りを歩いている。何も変わらない日々。いや、少し変わった。
一応衛兵犬候補として認められた茶色の犬がキラとともに歩いている。候補と言わず、認めてやればいいのに。その真面目な姿を見ていると、そんな気にすらなってしまう。
衛兵が「お前の見回りはつまらん」と雑音混じりの無線で喋りかけてくるので、キラは「すみません」とだけ謝って、次の灯りまで犬の足下に懐中電灯を合わせながら、静かに歩いていた。常夜灯の間隔は歩いて五分間隔。今のところ何の異常もない。十五分間隔に見張りの兵がいる。その間は本当に単なる犬の散歩なのだ。穏やかな時間だけが過ぎていくだけ。しかし、単なる散歩が緊張の色に変わってしまった。
「おいっ」
突然、無線の甲高い機械音と共に緊張が走った。それでも、キラはいつも通り「はぁ」と返事をした。
「大事にはしたくない」
主任衛兵はそう告げると自分自身を落ちつける様にして続けた。
「魔女が逃げたらしい」
そして、大雑把な魔女の特徴を述べた。髪は茶、目は緑。そして、小柄な娘。犬は賢く壁に沿ってキラのペースに合わせて歩いていた。夜空にあった下弦の月が、急に慌て出す衛兵達を滑稽に思い、うすら笑っているようだ。
「株をあげるチャンスだな」
キラの声はその言葉とは裏腹に絶望に満ちていた。キラの持つ懐中電灯が暗闇をわずかに照らし足元を映し出す。そして、一つ、もしもの希望を描いてみた。このごたごたに紛れ込んで、リディアス城へと忍び込む。慌ただしく駆け巡る衛兵達が、その服にある印章を確実に見落とさないという可能性は、とても低い。そして、キラは馬鹿らしくなって首を振った。キラの仕事はリディアス城へ忍び込むことではない。ただ、現実から目を背けたくなっていただけなのだ。
メイ・K・マイアードはそんなことをするような男ではない。まさかあの腰抜けができるわけないだろう? と陰口をたたかれるような奴であればいいのだ。
全てはいつも通り、何も映し出したりしない月明かり、何も語ることのない灰色の壁、おとなしくキラの横に従う賢い犬。それでいいのだ。
静かな見回りが続いていた。「魔女が逃げた」その言葉がキラの耳に甦る。キラは聳え立つ壁を見上げ、魔女を逃がしてしまった研究所の奴らを恨めしいとも思った。犬もキラに見習い視線を遠くに向け、空を嗅ぐ。そう、空気が変わる。これは、第六感とかそういうキラの経験則でしかないのだが、ここに漂う空気には、嫌な予感しかなかった。犬の表情が変わる。彼の力の入った口吻は白い牙を覗かせる。その隙間から漏れる唸り声が闇に遠く響く。深い闇の向こうからやってくる者を迎えるように、その犬の響かせる低音がキラの意識を負の方向へと寄せていくのは簡単だった。重い足を進める。
嫌な予感しかなかった。何かが変わる、そんな嫌な空気がキラにまとわりついて離れない。
今キラも犬と同じ物を見ているのだ。次の常夜灯の辺りに人影があるのだ。そして、その唸り声が破裂音に変わると同時に、杭を打ち込まれたような衝撃を感じた。キラの右上腕が、まるで初めて傷を受けたあの時のような痛みに襲われ、思わずリードを落としてしまう。自由になった犬が走り出した。キラは咄嗟に長くなったリードを足で踏みつけ、リードの自由を制限するが、痛みはまだ残っていた。しかし、それよりも心臓が破裂しそうなくらいに鼓動している。
キラは犬にというよりも自分自身に言い聞かせるために、「待て」と命じた。夜の中にキラの声が響き消えていく。「お前が人間だったらよかったのにな」キラは犬にそんな期待を抱き、何の感情も込めない言葉を不審人物に投げつけた。全てはマニュアル通りに、あの衛兵の口調に似せて。
「何をしているんだ?」
常夜灯の下で小柄な女の子が膝を抱えて座っていた。魔女には似つかわしくない少女。キラを見上げた彼女の綺麗な黄緑色の瞳が大きく見開かれる。それは暖かくなった光を受けて、初めて生まれた葉のように輝いている。しかし、それ以外はまるで幽霊のように生気がない。白い光を放つ常夜灯に照らされた肌は血の気を感じられないくらいに青白く、死人のようだった。
「お前が逃げた魔女か?」
その言葉の下から恐怖の限界に達していた犬が魔女に吠え掛かった。剥き出された恐怖は誰にも止められず、闇に響く破裂音がその異常さを訴える。キラはそのリードを力いっぱい引き寄せる。魔女はその犬の狂気に怯え、抱えている膝をさらに強く抱きしめ、顔を埋める。魔女のくせに、こんな犬一匹に何を怯えることがあるのだろう。
お前はあの魔女狩りで捕まった、凶悪な魔女なんだろう? 悪魔に魂を売った者なんだろう?
悪魔は悪魔らしくなくてはいけない。これでは見かけ倒しもいいところだ。一体リディアスは何に怯えているというのだろう。こんな魔女ならキラにでも始末出来る。そう思いながらもキラは自分の中におかしな感覚が蠢いていることに気が付いた。おかしい、というよりもそうだ、磁石のN極とN極を無理やりにくっつけようとする時に感じる、あのもどかしさだ。その感覚を処理出来ぬまま、キラはその魔女の骨のように細い腕を掴んだ。抵抗すらしない。抵抗くらいすれば、逃がしてやることだって出来たのに……。
犬の騒ぎに気付いた衛兵達が鳴らす警笛でキラの意識が現実に戻った。魔女は塀の中に戻る。それだけのこと。キラには何の関係もない。
彼女が逃げないことだけに気を止めて、キラは蹲ったまま動かない魔女の細い腕を掴んだまま、彼女から視線を外した。
「よくやった」
キラの頭に手を置いた主任衛兵が静かにその功績を認めたが、キラは「いえ、こいつが気付いたんです」とだけ彼に伝え、沈黙した。
しばらくの間、魔女がリディアス城の中にいたということが話題に上りっぱなしだった。全てを犬の手柄ということで報告したのにキラは表彰され、どこのどいつかも分からない『メイ・k・マイアード』という名前が白々しく記されている欲しくもない表彰状を得ることになった。しかし、あの犬は衛兵犬として詰め所で働くことになり、それをキラは素直に喜んでいた。そして、当たり前のように魔女の脱獄は秘匿とされるはずだった。
しかし、逃げた魔女を庇い匿った老婆が存在したがために、魔女隠匿の事実をひた隠すことができなくなったのだ。
彼女を知る者たちが口々に語り出す。
魔女なら火炙り。魔女と偽り人を騙したら唇を縫う。魔女を助けたなら鞭打ち、手先なら磔。それが正義だ。
シルク婆さんはいい人だった。魔女に誑かされただけ。それを見破ることができないなんて、とんだ正義だ。
魔女を匿うのであれば、あのババァは魔女の遣い。
どうして、彼女が磔になんてなるのだろう。
『魔女に関わる、それだけが悪。それをゆめゆめ忘れるな』
もし、魔女がキラに会う前に街を徘徊していなければ、この悲劇はなかったはずだ。魔女はいったい何をしに街を徘徊したのだろう。キラの疑問に対する答えはないまま、世間に流れる時はただ無情に進み続けた。
それなのに、キラへの風当たりはどこか和らいだ。
説教好きの愚痴衛兵もキラの行動一つ一つにケチをつけなくなっているし、主任衛兵はキラへ仕事を回すことが多くなった。あの傭兵すらキラを見る目を変えている。
こちらは、以前よりも違和感を感じる視線だ。まるでキラの犯した失態を知っているかのような、さらに言えば「お前、同業じゃないのか?」という異質物を見る目。
キラはその視線に、そうだよ、失態を犯したんだよ、と答えてやりたいくらいだった。要するに目を掛けられるということは、動きにくいのだ。予定通り進まない今回の場合は。
ただ、犬にとっては良かったのだろう。恐る恐る犬の頭に手を伸ばす愚痴衛兵の姿を見れば、誰でも思うだろう。
「だから、顎の下から撫でてやれって何度も言っているだろ?」
主任すら犬の存在を認めている。
本当に、あいつが人間だったら良かったのに。だから、まぁ、良かったのだろう。
キラは今後どう進めるか、別の方向を考えて過ごすことにした。中途半端に信頼を得てしまったことをどう使えば上手く立ち回れるのか。
性格の軌道修正もしなければならないだろう。
さて、どうするか……。
そう考えて、見遣った視線の先には犬がいた。その視線で犬が立ち上がり、キラに見回りの時間を伝えに足元までやってきた。
本当に賢い犬だ。
この調子だと確実に衛兵犬としてここで生きていけるだろう。その犬にリードを繋いだキラが表情を緩めたが、キラ自身それに気付かずに城壁周りへ向かった。
しかし、残念なことにメイ・k・マイアードの性格修正は必要なくなった。どうも今回の魔女騒ぎの押しつけ所として、どこの馬の骨だとも知れない、金だけが繋がりの傭兵が魔女を手引きしたのではないか、という所に落ち着いたようなのだ。その証拠に、傭兵達はかなり手厳しい身辺調査をされており、何人かは取り調べが未だ終わらない。そんな中にあってもキラはあの功績が認められ、簡単な調査で終わることが出来た。
それなのに、やっとあの表彰状の重みを感じられた時に解雇通知が全傭兵に送り付けられたのだ。
内を固める。アイルゴットはそんな思いに駆られたらしい。理不尽な解雇に反乱を起こしかねない他の傭兵はいざ知らず、その感覚自体は間違っていないのかもしれないとキラは思っていた。そして、自分自身を顧みつつ、キラはその解雇通知を受け取った。
しかし、事はうまく運ばなかった。アイルゴットの安直な政策が固まらないのを見計らったかのように、あの魔女が再び逃げたのだ。二度目の逃走は国立研究所長官代理のラルーがあの魔女とともに姿を眩ませたのだから、以前の逃亡劇など比にならないくらいの規模で、町中に衛兵がばらまかれることになった。夜道を歩いていたキラに衝突した衛兵がキラを罵倒し、蹴り飛ばすという事態まであった。もう、それは容赦なく腹立たしさをぶつけられた感じだった。