三月山・・・5
「あなた、そうやって歩いてると行者みたいよね。杖ついてるし。いつも険しい顔してるし」
「本当ですね、キラさん、修行しながら山の中を歩いている方みたいですね」
キラが反応しないと、アブデュルの援護する声が背後から聞こえてきていた。
「あの二人の関係って親鳥と雛みたいだと思わない?」
「さすがお嬢さま」
「ほら、すりこみって奴」
「その通りですね」
何がその通りなんだよ……と言う言葉は空を割る稲妻が消し去ってしまった。
二人が短い悲鳴を上げる中、ワカバは光が通った筋を見つめたまま音と同時に肩を竦ませ、一時、時間を止めた。それから雲は光を完全に失い本格的な大雨になった。もちろんシャナの機嫌は悪くなり、歩く気力すらなくなってしまう。シャナがキラの後ろから大声で叫んでいるのは知っていたが、滝のような雨音に託けて聞こえない振りをしていた。「ちょっと雨宿りしない?」とか、「もう、これ見てよ」とか、文句ばっかりだった。キラも「これ見ろよ」と叫び返してやりたかった。足下に倒れもせず道を埋め尽くす雑草を一番に踏み付けて歩きやすくしてやってるんだぞ。少しはワカバを見習えよ、全く文句ばっかり言いやがって。
しかし、ワカバにはもう少しあの二人を見習って、何か文句でも言ってくれればと思ってしまう。ワカバは相変わらず何も喋らず、踏み固められた足下を必死に見つめて、ただキラについてくる。絶対にラルーの言葉は間違っている。ワカバの傍にいるのがキラでいいはずがない。
まだまだ辿り着かない。溜め息ばかりがキラの口から吐き出され、それにすらうんざりし始めていた時、シャナの短い叫び声が聞こえた。振り返るとワカバがしゃがみこんで耳を塞いでいた。
「どうしたっ」
やっと声が聞こえる雨の中、キラは靄に隠れるシャナとアブデュルに向かって叫んだ。靄が模る影が道の脇を指差した。木立に隠れて大きな影があった。しかし動かない。キラは鉄の棒を構えた。見逃していたと思えるほど小さいものでもない。大きさからすればバグベアだろう。しかし、それが立っているとは思えなくて、突然現れたはずなのに、それ以上動く気配もない。
「静かに、そっと。そのまま静かに離れろ」
キラはもう一度二つの影に向かって叫び、いつでも攻撃出来るように杖と呼ばれたものを構え、それに対面した。それは雨と泥で汚れ果てた大きなモップのように、寝そべったまま頭だけを微かに持ち上げ、弱々しくキラを睨みあげた。
針のように太く強い毛とルビーを思わせる赤い瞳、そして、人間を丸呑みにする大きく裂けた口。どんな物音も聞き逃さないように作られた大きな三角の耳は雨の重さにすら耐えられず、べったりと頭部に押し付けられていた。警戒して光る赤い瞳に活力もなく、自慢の牙も剥き出すことが出来ずに、大きな口からは雨が吹き飛ばされるだけだった。人を呑む気力もないし、襲いかかる気風もない。そして、予想だにせず、自分の傍に近付いて来るワカバの気配をキラは感じた。雨に濡れるバグベアに怯えが現れたように感じるのは、キラの気のせいだろうか。まるで、その動けない体を無理矢理にでも動かし、逃げ出そうとするように、赦しを乞うように赤い目を森の奥へと向けたバグベアは、そのまま最期の息を全て吐き出してしまった。ワカバはその全てをただじっと見つめ続け、動かなかった。
「大丈夫? ……アブ、歩きにくいから離れなさい」
シャナがアブデュルを背中にくっつけてワカバとは反対のキラの隣に立った。小雨になってきて、視界が晴れると、その風体がはっきり見えてきた。外傷はなく、ただぐんにゃりと寝そべっているだけ。魔獣が雨に当たったくらいで死んでしまうなんて聞いたこともない。
「あぁ。死んでるから……」
しかし、キラはそれしか答えられなかった。今、息を引き取ったということを伝えられなかった。その死がワカバの接近と同時だったとも。ワカバがぎゅっと拳を握るのが見えた。表情はフードに隠れて全く分からない。
「死んでたの?」
一瞬シャナは黙り、それから、全てを納得させるための言葉を吐いた。
「さっきの雷よ」
そして、シャナはアブデュルをくっつけたままキラを追い抜いて行ったかと思うと振り返ってキラに叫んだ。
「このまま真っ直ぐに、でいいのよね」
キラもシャナの言葉を信じたいと思った。信じればそれが真実になる。しかし、ごく簡単なそんなことがなかなか出来ないのも事実だった。
「あぁ」
キラの答えを聞くとすぐに、シャナは腕を振り大股で歩きだした。そして、とうとうアブデュルに対して黙っていられなくなったシャナは、シャナの背後に隠れている情けないアブデュルを諫めた。
「いい加減にしなさい! 少しはワカバを見習ったらどう?」
確かにワカバは震えもせずに一人で立っている。しかし、アブデュルに対して、それを見習えとは言えなかった。そして、見下ろす先にあるフードに隠れたワカバの表情が無性に気になる。ワカバは一体……どんな表情で、バグベアを見ていたのだろう。
キラ達一行はきこりの小屋で雨宿りをしながら一夜を越し、その後二日かけて麓に広がるシラクという湯治で有名なワインスレーの町に入った。大きなことは特になかった。何度か魔獣に出遭い、何度か通り雨に出遭い、シャナの機嫌がコロコロ変わり、逃げ損ねたアブデュルを庇ったキラが擦り傷を負ったくらい。特に大きなことは起こらなかった。ワカバは変わらず静かだった。
ワカバの周りが特に静かだった。
そして、嫌な感じで付けられていると感じ始めたのは、ちょうどアブデュルがキラに責任を感じて胃の調子を悪くした辺りからだった。湯浴みの客としてはちょうどいい加減に顔色が悪く、ワカバがちょうどいい感じでそれを心配していた。シャナの機嫌はずっと悪い。
ちょうどいい。キラは湯治客が一日に三百人を超えるこの町の一番大きな宿泊施設に泊まることを提案した。シャナの表情が一瞬驚きに満ちた。
「当たり前でしょうっ」
思った通りの返事を叫んだシャナは真っ直ぐに『旅籠』へと向かった。キラはそれを追いかけるように走った。この際、傍から見たペアが変わった方がいい。




