三月山・・・2
なんとか予定通りワインスレー側の第二の頂上で日が暮れて簡単なテントを張り、息を付くことになった。テントと言っても雨避け程度の意味しか持たない。周囲を囲ってしまうには危険すぎる、とキラが判断したからだ。キラは獣避けにもなる焚火の守りをしながら、風の音を聞いていた。不機嫌絶頂のシャナも疲れ果てたアブデュルも無言でパンを齧った後、黙って毛布にくるまって静かになっていた。ワカバはそれを見て、それに倣う。ワカバの場合、キラとシャナが言い合ったことに対しての怯えでもあったのだろう。彼女はいつにもまして挙動不審で、キラが一挙一動するたびにキラに視線を向けては逸らすを繰り返していた。
暗闇の中、時々爆ぜる焚き木だけが、時の経過を思い出させる。ただどこまでも静か。無に近い何か。空にぽっかりと空いた白い月が冷たく眼下に視線を落とす、そんな気味の悪い夜だった。
シャナもワカバも寝付けないらしい。このメンバーで唯一熟睡しているアブデュルを見習わなければならない、とキラは初めて彼を見直していた。だから、ワカバが周りの目を気にしながら立ち上がった時も、特に気にすることもなく歩いて行った方向を確かめる程度に留めておいたのだ。魔獣の臭いもしなければ、どんな人間の気配もなかった。少しの間離れたとしても危険はないだろう。ただ、神経が尖ってしまっているのか、眠気という眠気は全く襲ってこなかった。だから、焚き火の守りをしながらキラは物思いに耽っていたのだ。以前はもっと違っていた。信じたくはないのだが、怨念や悔恨、孤独、恐怖などマイナスの類が全て集まったような、二度と近寄りたくない雰囲気を持った場所だったのを覚えている。
あぁ、それ以上に火の気のない場所で生存できるほど優しくない場所だった。
ワカバの出で立ちを思い出したキラは溜め息を吐いて頭を掻いた。シャナはやっと一時的な睡魔に襲われたようで、動かない。そして、何にも気付かず熟睡しているアブデュルを羨ましく思い、蹴飛ばしたい思いに苛まれた。いくらなんでも安否くらいは確かめないといけない。魔獣に襲われなくても、ワカバなら崖から落ちてしまうか、迷子になっているかくらいは考えられる。ただ、どちらにしても少し以上手遅れかもしれない。キラは焚き木を一つ取り出して、重い腰を上げた。
キラはワカバの姿が消えた泉に向かう谷間へと足を向けた。月明かりに背の低い針葉樹が影を作り、苔が足を滑らせる。過去の噴火の遺産だろう大きな岩が先行く道すら遮る獣道。普通、女の子一人が歩き続けるような道には到底思えないが、相手はワカバだ。キラの持つ灯りに照らされる形跡は、確かに誰かが通り抜けた跡としてそこかしこに残っている。
灯りも持たずによくもまぁ……。
何の溜め息か分からないものが、キラの口から吐き出された。魔女は夜目も利くのだろうか。それとも、ワカバだから、なのだろうか。
そして、泉へ続くその道が拓けてすぐに不用心なワカバを見つけてしまった。木々が途切れて、三月山らしい岩場。儚い光を吸い込むようにして存在を表す白い岩が点在しており、続く砂利道に波音だけが遠く響いていた。まるで波に音が攫われていくようだ。星の瞬きさえもその場所では憚られるほどに、そこは静寂に支配されている。それは神聖と呼ぶべき静寂なのか、世の終わりを告げる静寂なのか、視線をワカバへ向けたキラの脳裏にそんな考えが過ぎった。
深々と冷えた夜の中、膝を抱える少女がいる。
ワカバは泉の畔で空を見上げていた。そして、頂上の方を眺めた後、泉の水面に映る月を見ていた。それを何度かくりかえし、そのまま大人しく膝を抱えて座っている。
天空を飾る月、頂上の白濁の月。そして、見下ろせば澄んだ光を映す流れに揺れる月。雲一つない夜空とは言えないが、風の流れる今晩なら、月が三つ見えていたかもしれない。キラの緊張が一気に緩む。そして、肌を撫でる冷気に僅かな寒さを感じ始め、自分が予想以上に安堵していることに気付いた。
全く、戻ってこいよ、そう思った瞬間だった。背中に嫌な気を感じて、キラの眠気は完全に失われた。それは例えるのなら、刺すような冷気だった。
「今夜は満月。物の風情を語らうのには少し賑やかな夜ですわね」
そして、人を小馬鹿にしたような声が、天上から降ってきた。見上げた先にある岩山に、髪の長い女が座っている。しかし、暗くて表情は見えない。分かることは、敵意はないらしいということ。
「誰だ?」
女の方は程よい緊張感を保ったまま、すとんとキラの前に降り立った。暗闇に顔は消えていたが、誰かは分かっていた。ラルーだ。あれだけ足取りを探っても幽霊のように捕まえられなかった元研究所長官。これは好機だと考えるべきだった。ワカバを引き渡すなら今しかないだろう。それなのに、キラの中には整理の出来ない言葉が混沌として渦巻いた。
今まで放っておいて、……。今までどれだけ……。いきなり現れて……。
「でも、願いを託すにはちょうどいいお月様かもしれませんわ」
その口調はまるで願うなら叶えましょう、とでも言えそうだった。
そして、雲間から完全に姿を現した月は、まるでラルーのためだけに輝いているかのごとく、彼女を美しく照らし出した。
シャナと同じくらいの背丈だが、シャナとは違い、全体的に品あり、癖のある濃い紫色の髪は腰の辺りまで伸びていて、それが表情に影を作っていた。そして、その影の向こうから緑色の瞳がキラを捉えている。その瞳はワカバよりも深みのある緑だ。その容姿はいくら人の容姿に無頓着なキラでも美人だと思えた。
ただし、彼女の周りの空気は全く動かない。気配がないというよりも、きっとこの世の者ではないのだ。実態はあるが、魂を持たぬ者という感じ。しかし、どんな豪傑にもないような威圧感があった。女は片方の人差し指を頬に載せて、その唇には微笑みを湛えた。
「そうですわね、自己紹介くらい致しませんと公平ではありませんわよね。わたくしは、リディアス国立研究所の副長官を務め、あの子を逃がした、世界の破滅を目論む冷血の魔女、ラルー。それとも、死神でしょうか? 不老不死の化け物とも言われたことがありましたわ」
ラルーの声はとても静かで、自分のことを言っているはずなのに、どこか他人事だった。そして、何がおかしいのかクスリと笑った。
「本当によく懐いていますわね」
相変わらず、ラルーの表情は闇夜の中に隠れている。そして、ラルーが使った「なつく」という単語が妙に耳に障る。キラはラルーを睨んだまま、次の言葉を考えて立っていた。
「ところで、キラさんとお呼びした方がよろしいのでしょうね」
ラルーの長い髪が夜風に柔らかく靡いた。キラは固唾を呑んだ。
「どういう意味だよ」
ラルーがにやりと笑う。
「いいえ、特に意味などありませんわ。あなたの自己紹介がまだでしたので聞いてみただけです」
キラの睨んだ先にラルーの高圧的な笑顔が、キラを見据えていた。まったくいけ好かない。そして、油断ならない。直接的には関わっていないが、キラはラルーの部下にあたる場所にいた。その時に名乗っていた名前『メイ・K・マイアード』以外で、別の選択肢をわざと外しているのは明らかだった。そもそも、『キラ』と言っている時点で、それ以上の含みがあるのだ。
「お礼をと思いまして。あの子の傍にいたのがあなたで本当によかったと思っていますの」
ラルーは上位者特有の笑みを絶やさない。おそらく、ワカバの力の被害者になるのが世の中の愛すべき純真な英雄ではなく誰からも憎まれるキラでよかった、とでも言いたいのだろう。確かにキラは人から愛されるような人生を送ってはいないし、誰かがキラの死を望むことはあっても、悼む何てこと、有り得ない。死んで当然のちょうどいい人間だった、とでも言いたいのかもしれない。
「あら。そういう意味じゃありませんわ。あの子箱入り娘ですから、世間をあまり存じませんの。いろいろご苦労をお掛けしたかと思いまして。それにあなたはあの子に何も求めたりなさいませんから、そう思っただけですのよ。でも、ご心配なさらないで。何も求めない者からは何も奪いはしませんわ。だって、そんなことをしても何も面白くありませんでしょ?」
ラルーはさもおかしそうに微笑んだが、キラは次に続く言葉を失った。ラルーはキラの考えを読んでいるのだ。いったいキラの何をどこまで知っていて、何をさせようと現れたのだろうか。ラルーは軽く微笑んでキラを見つめていた。威厳を湛えた瞳だ。しかし、そこには、深さの分からない夜の海の様な恐怖があった。それは無意識に誘われて、沈んでしまう恐怖だ。そんなキラに対し、ワカバを見遣ったラルーが「いい子でしょう?」と呟いた。




