女神のおはすところにて・・・3
一歩踏み出すと、ワカバの背中が凍えた。この建物に宿る時間を支配するような魔力。そして、背中の後ろから聞き慣れた、透き通るような声がワカバの耳に届いた。
「振り返らなくて結構ですわよ」
ラルーがいる。懐かしい、大好きだったラルーだ。それなのに、ワカバはラルーが振り返らなくてもいいと言ったことに怯えている。ワカバはどうしてラルーを恐れているのだろう。どうして、あんなに会いたかったラルーを歓迎出来ないのだろう。ワカバは自分の胸に氷を抱いたような、内部からの寒気で胸を押さえた。
「心配なさらないで。あなたの望まないことは致しません。いずれその時がやってきますもの」
ラルーはいつも『その時』を待つ。そして、その時になるとまるで川が何ものにも堰き止められないで海へと流れていくように強行するのだ。
ワカバはそれをいつも安心して見ていたし、それが正しいと思っていた。恐れる必要なんて全くなかった。しかし、今はラルーが何をするのかが分からない。キラ達を殺しに来ているのだろうか。ワカバを迎えに来てくれているのだろうか。どちらにしてもラルーがキラ達に関わりを持つということが恐ろしいものにしか思えなかった。
「ラルー……」
まだいるはずのラルーにワカバの声はおそらく届いている。何しに来たの?ではなくて、……。ラルーの笑い声が聞こえた。
「安心なさい。あなたをあの人間たちから迎えに来たわけでもありませんし、彼らを殺そうとも思っていませんわ」
背中の向こうでラルーはどんな表情を浮かべているのだろう。意地悪なものだろうか。それとも鬼の形相だろうか。優しい微笑みだろうか。ラルーの声の調子からは何も分からない。ラルーの声はいつも通りに穏やかで、夜空の月のように優しい口調だ。
「でも」
「お望みとあらば連れ帰りますわ。それとも、まさか本気でわたくしがあなたに敵わないとでも思ってまして?」
ラルーの声は少しおどけた感じになった。それなのに、ワカバの心臓は余計に凍りついてしまいそうになっていた。まさか、ラルーに勝てるなんて全く思ってもない。その時が来れば、ワカバはみんなを守れない。
「でも」
ラルーがふふふと笑っている。
「見くびられては困りますわ。たとえ、あなたが魔力を暴走させたとしても、止めて差し上げますわ。だから、」
堪らなくなったワカバが振り返ると、ラルーはいなかった。凍りついた時は溶けてしまい、建物の中には時が流れ始めていた。ステンドグラスから優しい太陽の光が色取り取りに染められて、ワカバに降り注いでいる。ワカバはそれを掌に受け止めながら、振り返ればいなくなるということくらい分かっていたのに、と後悔した。ラルーの言葉は絶対なのだ。ラルーはその時が来ると、必ず何かをする。
「ねぇ、何してるの?」
シャナがワカバに叫んでいる。きっとみんなラルーがいたことなんて全く気付いていないのだろう。それからワカバは自分自身に言葉を落としてみた。「ねぇ、ワカバ? 本当にラルーのいるときわの森へ行くつもり?」しかし、それに逆らえば速水に足をすくわれて、川底へと引き摺り込まれてしまうような気がした。ワカバは急いでみんなの許へ足を進めた。
明日は三月山という大きな山を登るらしい。そして、ときわの森のある国へとたどり着く。山を越えてしまうには五日程かかるということだ。キラはワカバに五日分のパンと水の入った水筒、毛布を入れたリュックサックを渡してから、シャナ達にも同じものを渡した。そして、今夜は唯一屋根があり、ベッドで休むことが出来る最後の一日なのだ。キラはワカバに早く寝るように告げて、隣の部屋へと姿を消した。
ここは神父という人の家の『離れ』で、この離れには三つ部屋があり、キラとシャナがさんざん言い合った後に部屋割りが決まった。ワカバはキラと離れてシャナと一緒に眠ることになった。シャナは部屋に荷物を入れた後、ワカバをじっと見つめて「やっぱり納得いかないわ」と呟いた。そしてすぐさま部屋を出て行ってしまった。ワカバはキラに言われた通り早く寝なければならないので木のベッドに潜り込んだ。ベッドは寝返りを打つ度にぎしぎしと辛そうな音を出し、ワカバはその度に得も言われぬ不安に襲われた。シャナは一向に戻ってくる気配がなく、部屋にある薄っぺらい窓ガラスが時々思い出したように風に打たれ、叫び出す。眠れるはずがなかった。ワカバは僅かな音でさえもラルーを感じ、怯え、眠り込んでしまうことでみんながいなくなるということをひどく恐れているのだ。シャナは戻ってこない。




