スキュラの怪物・・・5
スキュラには魔女に魔法をかけられて醜い水中生物に変えられた少女の伝説がある。それは、魔女の嫉妬から起きた悲劇。彼女は今も魔女を、この結果を招いた人間を、恨み続けている。魔女が近付くと彼女は現れ、河を氾濫させる。元凶となった『魔女』を『人間』たちを河へ引き摺り込もうとする。
スキュラにとって、魔女が現れたということは水害を生むということに等しく解釈される。
そこで関所の兵士は元同僚の女兵士パルシラを見つけた。兵士は懐かしい思いにかられながら、彼女に近付き声をかけた。
「元気にしてたのか?」
その声にパルシラが振り返る。
「クリオじゃないか」
相変わらず自分よりも男前に笑うパルシラを見てクリオは安心した。
「水竜が現れたらしいが、本当に魔女が出たのか?」
水竜が現れたのは事実だが、それはすぐに消え去ってしまっている。町中の人間がここの伝説である少女の幻影でも見せられたかのように跡形もなく。そして、今、世間を騒がせている魔女、すなわちパルシラの仇はキャンプからの通報で、早馬部隊が捕縛に向かっているのだ。
「いや、魔女はキャンプに出たらしい。だから、人手が足りてない状態なんだよな」
クリオの目には肩を落とすパルシラが見えた。おそらく、パルシラにとっては、魔女がここにいて欲しかったのだろう。しかし、パルシラの映した陰は一瞬のことで、すぐに柔らかい微笑みを見せた。
「あぁ、そうだ。連れを探してるんだ。マルゴという男とルリという女の子なんだけど、関所にでも来たらパルシラが探していたって伝えといてくれないか」
「あぁ、他にも力になれることがあるならいつでも声かけて来いよ」
そう言って、パルシラの背を見送った。パルシラとの会話はほんの数分だった。「さてと」と、ごった返す民衆を眺めたクリオはその整備に取り掛かろうとした。ふと記憶に躓きを覚えた。目の前でごった返している民衆が色を失っていく。違う、何かが……。パルシラという人物を辿れば浮かぶ何かが脳裏を掠めるのだ。そして、即座に否定し、さらにその否定を否定する。さっきの娘。
―――魔女だ。
クリオは手配書に書かれていた魔女の顔を思い出した。髪形も変わっていたし、目付きも雰囲気も全く違いすぎる。そして、魔女はキャンプにいるという先入観。クリオは自分の記憶のあいまいさに腹を立てながら、慌てて関所へと走り出した。血を吐くかと思うくらいに息を切らして、力任せに扉を開けた。すると、そこには意外な人物がいた。
一介の兵士が確実に直属の上司でもないのに彼を見て、名前を言い当てられるのは、彼が上流職であるとか、公務に熱心であるなどでは決してない。ランド・マーク・フィールドの格好は一度見ると忘れられないくらいの強烈なものなのだった。馬鹿でかいサングラスに白衣のノッポ。その唯一表情のある唇が苦虫をつぶしたように笑った。
「ご苦労様です。だいぶ落ち着きましたか?」
人伝に聞いているランドの人物像とは程遠い口調だった。もちろん、その外見はその通りだったが、今彼の目の前にいる男は、いい加減で、破天荒な、には程遠い雰囲気だった。
「せっかくなんで数日ここで過ごそうかと思っていたのですが、何か進展はありましたか?」
ランドは何かを知っているような言葉の濁し方をしていた。だから止めを刺そうと、クリオは急いで重大なことを告げた。ランドの隣に座っているその少女。
「違うんです! 魔女なんですっ」
ランドは少しだけ首を右へ傾げた後、あぁ。と続けた。
「スキュラの魔女ですか? すごい騒ぎでしたね」
その呑気さにクリオは苛立ちさえ覚えた。
「その、長官の横に座っている子が魔女なんです」
しかし、クリオとランドはまるで反比例するように、危機意識が違って見える。それどころか、クリオにとってその目の前にいる男こそが鬼なのではないか、と思えるほどに、そのサングラスに隠れた瞳が怖かった。
そう、そこには踏み入れてはいけない闇がある。
ワカバは指を指され、急速に恐怖を増幅させた。その恐怖が得体の知れぬ影となりワカバの心臓を取り巻く。ランドを見上げ、どこかにその答えがないかを探し、目を泳がせた。ランドの表情は硬く、黒い大きなメガネの下にある瞳にワカバの視線は届かなかった。そして、本当にランドを見ているのかどうかさえも分からなくなってきて、どこを見ればいいのかも分からなかった。しかし、ランドはそんなワカバの身の丈に合わせて、研究所でしてくれたように屈んでワカバを見上げてくれた。ランドの口元にはほんの少し笑みが見えた。
「この子がですか?」
ランドの静かな口調に対して、兵士はいきり立って言う。
「はいっ」
ワカバの心臓がトクトクからドクドクへと、急速に高鳴っていく。兵士は「魔女だ」と言った。そして、あの場所へ戻される。あの場所に、もうラルーはいない。何も聞きたくなかった。そして、彼らの言葉が自分の身に降りかかってくるものだとは思いたくなかった。ここにはワカバという女の子がいるだけ。わたしじゃない。
「まさか、違いますよ」
ランドが兵士に向き合ってからから笑っていた。ワカバが見上げた先には、確かにワカバが魔女だと知っているランドがいる。
「私は、あの魔女がいる研究所で魔女に関わっていたんですよ。間違えるわけがないじゃないですか」
「しかし、通行証を持っておらず、名前も名乗れません」
「そうなんですか? 通行証、持っていないんですか」
ランドがワカバに静かに尋ねた。キラは通行証のことを聞かれたら首を振れと言っていた。だから、ワカバは何も言わずに首を横に振った。
「あるみたいですよ」
「あるのなら、見せろ」
兵士の声はワカバの心臓をいちいち鷲掴みにし、握りつぶそうとする。恐ろしいものだった。恐ろしくてワカバの首は、ゆっくりとねじが切れそうな人形のようにしか動かなくなった。キラの言った否定を意味する振り方は、もう出来ない。
「フィールド長官、どうですか。見せられないなんておかしいでしょう」
どんどん熱を帯びてくる兵士の口調とは裏腹に、ランドは常にそれを消火しようとしているようだった。
「この子を追い詰めるよりも先に水竜の現れたことを重大視すべきでしょう? ここはスキュラなんですからね。もしも本当にこの子が魔女なら、水竜はこの子を河に引き摺り込もうと河をもう一度氾濫させかねないでしょう? 例えそれが単なる伝承でもここでそんな魔女騒ぎが起きれば、ここの人達はどうなりますか?」
ワカバにはランドが何を言っているのかがよく分からなかった。ワカバがいると河が溢れるのだろうか? いや、それよりもランドはどうしてラルーのような口調で話しているのだろう。
兵士は「それは」と口籠った。ランドは畳み掛けるように、でも兵士を庇うようにして口調を変えた。私は、あなたの味方ですと言わんばかりの口調だ。ワカバはこんなランドを知らない。
「大丈夫ですよ。もしかしたら本当に魔女なのかもしれないですしね。私が責任を持ってここを預かりましょう。だからあなたは早くこの事態に終息を付けてください。まずは本日の航行は中止がいいでしょう。そうすれば、魔女が逃げだす方法がなくなります」
兵士がランドの表情を窺っている。ランドはそれを知ってか知らぬかにっこりと微笑んだ。ラルーがよくする『大丈夫』の微笑みだ。
「ところであの二人は?」
「あの二人は、フィールド長官が気に掛ける者どもではありません」
さっきまであんなに大きな声で叫んでいたはずのシャナはちらりとランドを見ただけで何も言ってこなかった。何も言わない代わりに、静かな視線をずっとランドに注ぎ込んでいる。猫が対象物を見極めようとするような、そんな視線だ。兵士は不服ながらにもきちんと敬礼をして、その場を去っていった。
「ご無事で何よりです。あなたがいなくなってから、私、偉くなったんですよ。相変わらずマリアさんには叱られてばかりですけどね」
ランドはワカバの隣に座りこんで、静かに喋った。しかし、それはワカバに話しているという感じではなく、一人で思い出に耽るというような感じだった。何も浮かんでいるはずがないところをランドは見つめていた。ワカバもあの研究所でよく同じことをしていた。何もなくても、そこに光を見付けて、想像する。小鳥が飛んできてその想像に付き合う。それを壊したのがランドだ。ご飯を食べろと強要するし、ワカバの分からないことを質問するし、生きろと言うし。でも黄色の背表紙のワカバお気に入りの童話や金魚ちゃんを持ってきてくれた。
ランドとシャナとアブデュルとワカバの四人はそれからしばらく奇妙な沈黙の中にいた。そして、ワカバはそれがとても不思議でたまらなかった。ランドはいつもお喋りで、ワカバが話そうが話すまいが、喋り続ける人間だった。シャナも兵士に威勢よく叫んでいた時に比べると、全く変だった。
先に動いたのはランドだった。ランドはシャナに向かい深いお辞儀をした。
「こんなところでクロード家のご令嬢にお会い出来るとは思いませんでした。あなた方にはリディアス国立研究所、所長としてお詫びをしなければなりません」
ワカバにはよく分からない。しかし、この世にはワカバに分からないことなんて数知れずあり、そのすべてを把握しておかなければならないということも全くないのだ。ワカバは不意にラルーの言っていたことを思い出した。ワカバがしなければならないことは、分からないことを知った時に、ワカバは何を知らなかったのかを知っておけばいいだけなのだ。ランドとシャナは知り合いであるが、シャナが研究所にいたことはない、ということをワカバは頭に入れておく。そして、二人が大きな声で叫ばないことを願う。
「文句でも付けたいわけ?」
シャナはランドとは目を合わさずにぶっきらぼうに言葉を吐いて、黙りこくった。アブデュルが唇を震わせてランドを睨んでいる。それなのにランドはため息のような微笑みを浮かべ、「まさか」と言った。
「ただ、あなたのお父上が発見した魔力を封じる方法は、人類史上、まれに見ない大発見でした。文句などつけようがありません」
「誰のせいで、こんなことになったと思ってるんですか?」
アブデュルが静かに叫んだ。
「我々のせいでしょうね」
アブデュルの波立つ声に対してランドの声は凪そのものだった。これもラルーに似た落ち着きだった。ラルーも最後は自分に非があると言う。シャナとアブデュルは声を出さなかった。ただ、シャナの鬼の形相は消えず、ランドにずっと怒りをぶつけている。きっとランドは痛いに違いない。そう思った。
「ワカバさん」
ランドの声が頭の上からすとんと静かに落ちてきた。シャナとアブデュルもそれにつられ、もそもそと時間を動かし始めた。ワカバもその重い空気を押し退けるようにして、ゆっくりと頭を持ち上げた。ランドがいた。そして、続ける。
「人間は信用するにはあまりにも弱いものかもしれません。でも信じるということは素敵なことなんですよ。それは、ワカバさんを強くするということなんです。私はワカバさんのことを信じています。あなたは決して恐ろしい魔女なんかじゃありません」
優しさを感じさせるその言葉は水鏡のようなワカバの心に静かなさざ波を起こした。ワカバの肩に手を載せたランドが、先に外へ出て行った。そして、代わりにキラが入ってきた。キラの目はいつもよりも優しく、疲れていた。そして、ワカバを見ると穏やかに「ごめんな」と言った。
「一人で大丈夫なわけないよな。連れて行くって約束したもんな」
ワカバはこくりと頷いた。確かにワカバは一人では何も出来ない。だけどキラがそんな風に言う意味はよく分からなかった。そして、キラと入れ替わりに出て行ったきりランドは戻って来なかった。




