スキュラの怪物・・・2
まだ、水竜が現れたことにより作り出された水の粒子がワカバに纏わりついていた。そして、煙る向こう見えるその身体は、生身の物ではなく全てが水で出来ていて、その身体を通して向こう岸の景色がまるで蜃気楼のように揺れていた。身体を構成している水の柱の天辺に、おそらく頭であろうその部分に、緑色の目が宝石のように光っていて、枝状に分かれた角らしきものが生えている。そして、明らかにワカバの方を見ているのだ。おそらく、ワカバはこの竜の主人にあたるのだろう。
ほんの少しだけ次に起こることを予測出来るようになったワカバは、恐る恐るキラの顔を見た。
「お前を見てるんだぞ」
キラは確認するようにワカバに言った。
そうだ、あれはわたしを見ている。
ワカバの視線が自然と遠い町に移った。あそこにはたくさんの『人間』がいる。ここに水竜が現われたことに恐怖することよりも、もっと大変なことが起きるのだ。
来るかどうかも分からない明日の存在を確かに感じて、希望を感じ、絶望に腐る人間たちが今この一瞬に、有無を言わさず否定されてしまう。
全ては、何もなかったことになる。
ラルーの言った通りだ。人間は虫けら程の力もない。信じるに値しない生き物なのだ。ラルーは何も間違っていない。ワカバは自分自身が水竜に呑まれる前に、主人として命令を下す。
しかし、キラとの約束を破ってしまったワカバは、どうなるのだろう。「魔法は使うな」あれ以来キラは、ワカバの顔を見ると疲れた顔で大きな息を吐く。ワカバがキラを苦しめる。とても辛かった。だから、ほんの小さく、何も答えない水面に向かって言葉を零した。「どうして?」たったそれだけの言葉だったのに、風の子がその言葉を拾ってしまったのだ。きっと、ワカバの言葉を風の子から受け取った魔女が、虫けら同然の人間に呪文をかけたのだ。きっと……。だけど、水竜はワカバを見つめる。
ワカバはキラの顔を見上げた。キラは険しい表情で水竜を見ている。
キラは何を思っているのだろう。ワカバが人間を殺してしまったら、もう二度と傍にいてくれないのだろうか。ワカバを置いてどこかへ行ってしまうのだろうか。魔女としてしか存在出来なくなったワカバを退治する勇者になってしまうのだろうか。
ワカバは怖くて目を瞑る。弱虫なワカバだ。だって、キラはあの時とても怖い顔をしていたから。水竜を出してしまったワカバを嫌いになったに違いない。
主人として認められなければ水竜はワカバを攻撃する。人間を、キラを……。結局何もかもなくなる。全部一緒に。
結局……?すべての音をかき消すような耳鳴りのその奥に声を聞いた。
そう、人間なんて。
どうして? だって、キラは……
彼は、お前を殺せばこの状態が消えてしまうことを知っている。
……どうして?
ワカバの胸の奥が締め付けられた。水竜はワカバの答えを待っている。ワカバはじっと固まったままだった。ワカバが誰かに殺されれば、竜はいなくなる。今、キラがワカバを殺せば誰一人傷付かない。しかし、ワカバはそれをキラに伝えることが出来ない。
「心配するな。何とかなる」
ワカバの心臓は再び飛び出しそうなくらいの恐怖を感じていた。キラが水竜に対して何とか出来ないことは、ワカバが一番よく知っている。この水竜は魔女のものだ。この竜を完全に閉じ込めるには、魔女の言葉が必要なのだ。ワカバの言葉、……。本当にそうなのだろうか? ワカバが何かを叫んだからと言って、それが水竜を縛る呪文になるのだろうか? 言葉と呪文の違い、それを考えるとどうしても声が出せなかった。それがとても苦しかった。ラルーならなんて答えるのだろうか。魔女のラルーなら、そう、ラルーくらい偉大な魔女なら、ちっぽけなワカバの魔法くらい吹き飛ばせるだろうに。……いや、ラルーなら迷わずにこう言う。「そうね、まず、あそこにいる人間たちにご挨拶してきましょうか?」
嫌な予感がした。背中に寒気を感じたのだ。遠く小さく見える水竜の目の色が金色の飾りそのものの目に変わっていた。恐ろしいことが起こる。上流には町が栄えている。キラに腕を掴まれたままのワカバは引き摺られるように走り、水竜はゆっくりと河から首を伸ばし、近付いて来ていた。
「一人でも大丈夫だよな」
ワカバにはキラの言葉のその意味がよく分からなかった。
「通行証のことを聞かれたら、首を振るだけでいい」
ワカバは頭を大きく横に振った。よく分からない、と思いたかった。
「そう、それでいい」
キラはワカバに微笑みかけた。ラルーがいなくなった時と同じ、寂しい微笑だった。ワカバはそうなるのが嫌で、必死になって頭を振っていた。キラは動かない。キラの顔が歪んできた。キラがいなくなる。どうしてこんな竜呼び出してしまったのだろう……。どうしてワカバはこんなにも何も出来ないのだろう。
「それから、影がお前の背よりも長くなり始めたら、これで、船に乗って河を渡るんだぞ。この河を渡った国にときわの森はある」
ワカバの影はまだワカバよりも小さい。来なかったら、キラはワカバの傍には戻ってこないということなのだ。何も出来ないワカバのせいだ。残るものは、薄っぺらい紙の切符のみ。ワカバはキラから離れたくなかった。
「昔、聞いたことがあるんだ。魔法使いが未熟であればあるほどその効果範囲は狭いって。お前がどれくらいの魔女なのかは分からないけどさ、とにかくおれが足止めしてる間にこいつから出来るだけ遠くに離れてくれないか?」
キラの声は単調にワカバの耳に入ってきた。ワカバはここにいない方がいい、という言葉だけが胸に突き刺さる。キラがワカバの背中を押した時、ワカバは倒れるようにしてキラから一歩離れた。絶望とはこういう感じなのだろう。
「早く。お前がいると邪魔なんだ」
キラを振り返ることすらワカバには許されなかった。ワカバには何も出来ない……。ワカバの足がまた一歩キラから離れる。そして、走り出す。
ワカバは走った。それしか出来ない。目から火が出てしまうのではないだろうか、というくらいに目が熱かった。それなのにずっと水が流れてくる。後ろを振り返るとキラが死んでしまいそうな気がして、振り返ることすら出来なかった。全部夢でありますように。そう思っているとラルーの言葉が蘇る。
「手品みたいなものですわ。ワカバにもすぐに使えるようになりますわよ」
ワカバがラルーの魔法に感心した時の言葉だった。ラルーは優しく微笑んでこう続けた。
「魔法なんて蜃気楼のようなもの。怖がることなんてありませんわよ。とても頼りないものですもの」
だから、ラルーは魔法をあまり使わなかった。ラルーは魔法を使うのを嫌っていた。しかし、ワカバはその言葉が全く信じられなかった。今だってそうだ。あの竜は確かに存在していて、キラを呑み込んでしまうかもしれない。蜃気楼なんかじゃない。
「心配いりませんわ。あなたの望まないことは何も起こりませんもの」
きっとラルーの言葉は全部嘘で出来ていたのだ。だから、今こんな状況にワカバは追い込まれている。だけど、ワカバの信用している者の言葉は信じてもいいはずだ。だって、ラルーはワカバにとても優しかったから。
じゃあ、キラの言葉も信じていいのだろうか? 本当に何とかなるのだろうか。信じられなかった。キラはいつもワカバに怖い。キラはキラを信用するなとワカバに言った。また声が聞こえた。
「人間なんて信用するものじゃありませんわ」
ワカバは耳を塞ぎたくなった。でも、キラは他の人間とは少し違うような気がする。でも、ラルーはいなくなった。キラはいつもワカバの元に戻ってきてくれる。でも、二人ともワカバの心配をしてくれる。不安に溺れそうな時にワカバを助け出してくれる。
ラルーの言葉が、歪んで響く。「あなたの力はどんな魔女にも劣らない。望むことはすべて叶えられる」
ワカバは本当に耳を塞いだ。
ワカバが関所に入るのと同時に赤い髪の女と、大きなリュックを背負った黒い髪の男が国の兵士四名と一緒に関所の外へ出て行った。町に住む人間たちは関所にせめぎ合う。騒ぎ声はうるさいはずなのに、ワカバには何も聞こえてこなかった。一人になった。
「急ぐわよ、あれを封じ込めたら、たんまりお金がもらえるかもしれないわ。もう、何やってるのよ、アブ!」
ワカバの足はもう動かなかった。ワカバは声を出さないように気を付けながら、必死にキラが戻って来るのを願っていた。目の前にワカバの嫌いな人間が現われて、声を掛けた。大きな剣と少し短い剣二本を腰に携えて、革の兜を目深に被った蛇の印の大男だった。ワカバの周りにいつもいた変り映えのしない国の兵士。いつも見るだけで恐ろしく感じていた格好だった。ワカバは頭を小さく振っていた。まだ目は熱い。最初からなかったことにしてしまいたかった。ラルーがいなくなったあの日から。ワカバがキラに出会ったあの日から。もっと昔から。
「もう大丈夫だよ」
人間はそう言った。しかし大丈夫ではなかった。この人間は何も知らないのだ。ワカバがどれくらい不安なのかも、どれくらい悲しんでいるのかも、どんなに後悔しているのかも。
「落ち着くまでここにいなさい」
人間は関所の中にある長椅子にワカバを座らせ、そのままどこかへ行ってしまった。




