スキュラの怪物・・・1
儚い記憶の物語、後半戦です。ここからキラとワカバの二人に視点があてられます。先ずはキラから。
キラとワカバは、スキュラの関所を前に足を止めていた。物好きな学者連中は残っているかもしれないが、予定通りスキュラの会議は終了しており、警備の手もかなり薄くなっていた。国王に付くべき警備兵とキャンプでの魔女騒ぎに手を取られたのは確実だろう。
あの宿屋の親仁には本当に感謝しなければならないとキラは思い、視線を前方へと向けた。目の前にはリディアスとワインスレーを分かつマナ河がある。この大河があるから、リディアスは水を引き、干乾びを知らない。しかし、この大河があるがために、四季折々に咲き乱れる花や実る稲穂、木の実の恩恵、せせらぎの音を、雪解けの音を知らない。そして、都市国家ワインスレーにあるディアトーラはそれらを全て持っている。その全てに魔女が関わっているとされる。
そして、キラは視線をワカバへと向けた。
急に立ち込める魔獣の気配や豪雨、雷鳴、竜巻。この二日で起こった不運とも言える出来事だ。そして、襲い掛かってくる魔獣はワカバへ向けてではなくて、間違いなくキラを狙っていた。ワカバはその様子を黙って見ている。『悪魔』という言葉がみるみるうちにキラの中で真実味を帯びてくる。しかし、慌ててキラはそれを否定していた。それがワカバをときわの森へと連れて行くという仕事にどういう関係があるというのだろう。まずその不運とも思われる事項がワカバから発しているという根拠がない。今もワカバは大人しく川面を眺めているだけで、特にどうということもない。キラは大河マナの対岸を見つめて、何かを振り切ろうとしては振り切れず、目の前に靄がかかってしまったかのようにはっきりとしなくなっていた。
仲間だと思っていた者が魔女であり、魔女ではないと信じ続けた兄をその魔女に殺され、その仇を討ったことに罪の意識を感じ続けているという善人とは全く違うのだ。ドンクとキラは天と地ほどの違いがある。ワカバに仕事という枷を持たせ、枷の鍵をキラ自身が持った。だから、キラの頭は重たく、ため息と共に項垂れていく。
依頼人がジャックを恨むことだってあるし、依頼を請けた別のジャックに殺されることもある。キラは気まぐれに魔女を逃がし、何も考えずにその依頼を請けただけ。ただ逃げ道を作りたかっただけ。それを認めたくなかっただけ。
太陽は容赦なく照り付けていた。あれ以来ワカバは一言も喋らない。麻のマントを頭から被り、紺のワンピースを着たワカバはどんよりとしていて、確かに悪魔のようにも見える。マーサがわざわざ明るい色を着せていた理由が今ならよく分かった。以前からワカバはあまり喋らない。そして、ワカバに気配という物はない。ワカバはキラを見ていても、キラを見ていなかった。そして、砂漠には初めから魔獣が潜んでいる。
元々、支払能力のない者の依頼なんて、成立しない。そんな依頼人を護る義務もないし、捜す義務もない。逃げる機会は今だけではなかった。それなのにやはりスキュラの会議が終わったことを確かめた後、ここに戻ってきてしまっていた。
もし、このままキラがいなくなって、ワカバがここに取り残されたら、……。もし、ワカバを仇にする者が現れて、賞金稼ぎが現れて、リディアスの兵が現れて、キングが、シガラスが……。
突然、ワカバがすくっと立ち上がった。そして、動かない。
「どうした?」
キラは落ち着いて、ワカバに尋ねた。キラは最近神父か牧師になれるくらい気が長くなった気がしていた。もしかしたらあの衛兵の言う通り本当に職業を変えた方がいいのかもしれない。
ワカバは相変わらず、言葉に詰まる。ワカバの目がどんどん潤んでくる。ワカバの目は必死で言葉を言っているのに、キラには分からない。声が出なくても、せめて、口を動かしてくれるだけでも分かるのに。キラの持っている技術なんて何の役にも立たない。
水面に静かな弧が描かれた。それが何を意味するのかは分からなかったが、良いことが起こるとは到底思えない。ワカバは俯いたまま首を横に大きく振った。「言えよ、何が起こるのか」キラは焦る気持ちを抑えようと、必死だった。
ワカバはワカバに触れようとしたキラの手を払い、その手で頭を抱え、しゃがみ込み、そのまま固まってしまった。もうキラの顔を見ようともしない。その目は二度と開かれないように固く閉じられたままだった。そしてワカバの背後から不穏な空気が流れたかと思うと、間髪入れずに水の山が二人に襲い掛かった。キラは動かないワカバを無理矢理に抱えて、その場を避けた。大量の水しぶきが地面に叩き付けられ、その残りのしぶきがシャワーのように二人に降りかかった。
「嘘だろ?」
キラは思わず零していた。いくらかの覚悟はあった。しかし、あのキャンプで放った火の次の段階としてはスケールが大き過ぎる気がした。ワカバはいったい、水面に向かって何を思い、何を考えていたのだろう。いや、ワカバは国も恐れをなす魔女だ。こんなことは容易いことでしかないのかもしれない。キラがワカバを安く見積もり過ぎているのだ。キラの目の前に現われたのは、
「スイリュウダ! スイリュウ…水竜……」
頭上高くでキーキーと叫ぶ声がした。いつ現われたのか、赤いインコが円を描いて飛んでいた。キラの視線はそのインコ、ワカバの視線はたった今現われた水の造形物にあった。そして水竜の緑色の目が真っ直ぐにワカバに注がれて、ワカバもその竜をすくっと見つめていた。
キラも水竜に視線を移した。




