再会・・・5
ワカバが唇を噛んであの鞄をぎゅっと抱きしめていた。薄情な話だが、キラはどこかでワカバがこのままずっとこの場所に突っ立ったまま付いて来ないことを願っている。
魔女は人間の欲しがる本当の物を与える代わりに、その者に絶望を与えかねないものだ。シガラスではないが、キラも魔女など欲しくもない。
キラは砂漠の道をワカバなんて気にかけずに歩き始めた。そして、ワカバは言われた通り、あの大判のハンカチを頭に巻いて、キラを追いかけ始める。過去に何度も歩いた道と言えど、この時期の太陽の角度、それに映し出される影の方向を間違えば、永遠に出ることの出来ない迷路になる場所だ。そんな砂漠の中をワカバを連れて歩けば歩くほど、嫌に胃の上の辺りが重たく、その重みが増していく。何なのだろう。キラの中に生まれた不安によく似た感情は夜の闇のように静かに広がっていった。
しかし、この魔女と別れれば、全部元通りになる、そんな気がしていた。何もない砂漠は、全てを呑み込んでしまう要素を秘めている。この魔女を撒くのは簡単だ。撒いてしまえば二度と出会わない。
線路から離れれば離れるほど、生きていく条件は悪くなる。しかし、その悪条件を乗り越えて生きている奴もいる。生き物を丸呑みにしてしまうガマの仲間や、そのガマを狙う色彩豊かな大蛇。そして、人をも喰らうようになった砂漠に生きる夜盗達。キラが一番遭遇したくないのが、その夜盗だ。奴らは人をかどわかすプロでもある。魔女とはいえ、飴玉一つでもついて行きそうなワカバは、恰好の獲物だろう。
砂漠に吹く熱風を小さな体に受けたワカバが、キラを見て慌てたように足を速める。鞄を抱きかかえているから、転びそうになって、持ち堪える。歩くのも苦手らしいワカバにとって、この砂漠を歩こうというのはかなり大変なことなのかもしれない。しかし、表情は案外平気そうだった。不思議な感覚だった。キラは開きかけた口を閉じて、ワカバを待った。ドクロに支払った大金はすっかり意味をなくしてしまった。
キラの顔を見たワカバは重大発表でもするかのように、大きく息を吸い、咳き込んだ。黄色い靄を胸いっぱい吸い込んだ結果だ。しかし、その様子はキラよりも遥かに元気そうだった。感じ方も人より疎いのかもしれない。
「……」
キラは黙ってワカバの咳が治まるのを待っていた。怪訝そうに。「いったいお前は何なんだ?」それを聞いてワカバはどう答えるのだろう。答えないワカバの代わりに、キラは自分で答えを探した。咳が一段落したワカバは、涙目で「あの、」の続きの言葉を話し始めた。いったい何時間前の続きなんだか……。そう思いながら、キラはワカバに水筒を突き出した。「あの、」の続きよりも熱中症にでもなって、倒れてしまったワカバを負ぶって砂漠を歩かねばならない状況は避けたい、という最低限の願いすらワカバはなかなか叶えてくれない。
ワカバ→魔女→悪魔? そして、キラは首を捻る。「魔女は悪魔だ?」悪魔というか、貧乏神、疫病神の類ではないのだろうか。キラが突き出した水筒を受け取るべきかどうかをどういう意味で躊躇っているのかすら理解し難い。ワカバが水筒を確実に受け取るまでの時間は、それを考えるために十分な時間があった。
ワカバをキング邸から逃がしてからというもの余計な仕事は増えるし、出費は嵩むし、余計な心配が増えた。全くどうしたらこの貧乏神は離れて行ってくれるのだろう。ワカバがいる限り、本業に戻るわけにもいかず、かといってジャックでなくなるわけでもない。その上シガラスにまで目を付けられているかもしれない。ものすごく不安定で、ものすごく危険な状態だった。
「あの、」
キラは黙っていた。別にワカバが話し出すのを奇特に待っていた訳ではない。ただ、何かにつけてうまくいっていない現状を鑑みていたのだ。
最初は次の駅にある小さなローリエの村へと足を向けていた。何があろうとも、そこでワカバをおいていくのが予定だった。しかし、村の入り口に立つあまりお目にかかったことのない猛々しい衛兵の姿を見て、足の向きを変えたのだ。遠くの方に動く、いつもとは全く違う黒い点だ。ワカバに説明した通り、ロゼの町へと行けばよかった、と後悔した。きっと結果は同じだっただろうが……。そして、魔女狩りの熱が冷めるまでどこへ行こうかを考えていた。
何も知らないワカバは「えっと……」と呟いて、反応のないキラを心配そうに眺めた。
「あの……ラルーを知っていますか?」
キラはやはり黙り続ける。それでもワカバは下手くそな説明で話し始めた。のろのろ、とろとろ単語を並べるといった感じで。キラはただ溜め息を吐きながら、太陽の陰りを心配していた。キラは一生懸命、腹を立てないよう、怒鳴らないように努めた。理性を失うということは、考えが甘くなる。それは命取りになるのだ。ガーシュに叩き込まれた言葉である。冷静でいなければならない。
「それで?」
やっとワカバの話が終わり、ようやく本題に入った気分だった。ワカバの喋る内容は、今さら聞かなくてもよい内容だった。加筆修正するのなら、ラルーはワカバにとっては優しくて、不安になると傍にいてくれた人であるということくらい。そこでワカバの言葉は止まり、不安そうにキラを見た。
「……」
話し終わったワカバは、首を傾げ、また言葉を自分の中に溜めないと喋れないようだった。もしかすると、ワカバのお喋りはとても貴重なものかもしれない。
「心配するな、こんな所に放っては行かないから」
キラはこれ以上ワカバが話し出さないように、半分以上諦めながら話した。ワカバを逃がすことが一筋縄ではいかないことは分かっていた。もしかしたら、ここで放っておくことが一番安全な選択かもしれないことも。
「だけど、お前の歩調に合わせて歩くのは、オリーブまでだからな。あそこなら、息を潜めていれば安全かもしれないし、町にも入りやすいし」
ワカバがまた猫のように目を丸くして、不思議がる。そして、キラは列車の中で言ったこととの矛盾にぶつかった。そして、信用するな、といった言葉が一番正しいことに気付かされる。ワカバは何もないのに色々なことを変化させる。何もないのに研究所から脱走し、何もないのにキラの傷を治した。だから、キラの傷はもう痛まない。だから、あの老婆は磔になって死んでしまった。ワカバが何かを考えていたのなら、全く逆の結果があったかもしれない。だから今も何もないのにキラについて来る。ワカバの理由のない行動が、また何かを変える。ありえない話ではない。しばらく、ワカバは押し黙ったままだった。キラは続ける。
「オリーブには、もっと」
「ときわの森……」
キラの言葉を遮るようにして、ワカバが言葉を放った。キラは息を呑んだ。ワカバのやっと出した言葉がそれだったことに驚きよりも恐怖に似たものを感じた。それだけではない。キラは自分の中に潜む恐怖の元を無理やりに押し込んで、復唱した。
「ときわの森?」
キラが次に続く言葉を否定してくれるように聞き返した言葉に、ワカバの頭は、ストン、そんな感じで頷いた。期待は裏切られた。
「馬鹿言うなよ……あんな所」
その言葉がキラの中に留まって、動かなかった。『……奴らは悪魔だ』
脳裏に走る記憶がキラに二の句を繋げさせなかった。




