リディアスの傭兵・・・1
見事な月の光をも白けさせる無頓着なブロック塀が何者も逃さないために、また、何者も侵入させないために空へ向かっている。天聳えるその城壁はまるで自ら孤立して、閉じ籠ってしまった現リディアス国王様の象徴のようだ。
ここリディアスは、リディア家の王政で成り立つ国で、その国の文様は蛇。そのヘビは聖獣であり、魔女を狩ることで正義を示す。
そのためにリディアスはどの国よりも優れた知識人をそろえ、医療、化学、はたまた科学と呼ばれるものを発達させてきた。それは、リディアスの祖とされる人物からずっと続けられてきた功績として記されてある。だから、夜道を照らす光がリディアスには存在し、医者に罹ればほとんどの者が回復する。しかし、それでも『魔女』には敵わない。だからリディアスは魔女を狩るのかもしれない。何をそれほど恐れるのか、現実的には分からない。しかし、魔女が死ねば術は消え、リディアスの手に世界が戻るのだ。
そして、その名声を確固にした者、即ち、現国王アイルゴットが祖父、アーシュレイの行った魔女狩りは、まさに伝説通りであり、銀の剣を携えたかの王は西にあるオリーブにおいて『魔女』をその刃にて滅ぼした。
魔女は伝説通り黒い影だけを大地に遺し、消滅した。
そんなリディアスの首都、ゴルザムで雇われ兵であるキラは茶色の中型犬を引き連れ城壁回りをしていた。
犬を連れてから城壁三分の一の距離をキラは歩いていた。鼠落とし有刺鉄線付きの反り立つ壁の上から見下ろす物見矢倉の兵と挨拶を交わすのは異常なしを知らせる業務の一つだ。会話はないが、懐中電灯を頭上まで軽く振り上げれば、相手もそれに倣い懐中電灯を左右に振って合図する。城内には腕に覚えありの兵どもが警備を固めている。脱獄者、侵入者を知らせる警鐘は青く錆びたまま高を括っていた。そんな様子を目に浮かべたキラは犬に向かって呟いた。
「お前の主人は何をしたかったんだろうな」
キラの脳裏に残っている酔っ払いは、草臥れたベージュのコートと帽子を被っていて、この中にいるはずの統治者に何かを嘆願したかったのだ。淋しい声を上げた犬が名残惜しそうに背後にある闇を見つめた。
その中にあるのはお世辞にも城だとは言えず、豪奢極めた要塞という方がしっくりくる。部屋の数は大小合わせて百八十五部屋。その内、隠し部屋が十室あり、図書室、音楽室、武器庫、拷問部屋が地下に種類分けされて十三部屋あったはずだ。そして、城の地下にある監獄が二十三で、かつて闇の帝王と恐れられた者もそこに収監されていた。
やたらと広い敷地内には城の他に全てを見て回るのに半日は掛かりそうな庭園、普通に陣取り合戦が出来そうな軍の運動場、見物人が百人集まってもまだ広い処刑場があり、城に隣接するように立つきな臭い国立研究所が存在した。
キラの立つこの場所からでは到底見えないその白い研究所の建物を思い浮かべ、キラはさらに視線を遠くへ投げた。
魔女がいるのだ、そこに。
リディアスの威光のために狩られるだけの魔女。
だが、確かに、とキラは思い直す。
あの中にいる魔女は確かに『魔女』なのかもしれないと。
待ちくたびれた犬のくしゃみでキラは時の刻みを思い出し、再び歩き出した。その城壁を一周して、見回りは終了。詰め所の扉の前でリディアスの文様が刺繍された警備服の埃を落とすと、金糸の蛇がほんの少しだけ輝きを取り戻した。そんなキラを見あげて首を傾げた犬に、キラは苦笑いを返す。もちろん、その犬にその苦笑いの意味が分かるはずもなく、キラは黙って閉ざされた門扉横の詰め所の扉を開いた。
温かい色の灯りの中には三名の衛兵がそれぞれの休息を取っていた。キラの帰りにいち早く気付いたのは、主任と呼ばれる衛兵長。そして、一番に声をかけたのは、先輩面を衛兵長に売っておきたい中年衛兵だった。彼は短く刈った亜麻色の髪を掻きながら、大きく溜息を付いた。
訓練と説教の好きな筋肉質な彼は、若いキラに対して説教をしたくて仕方がないのだ。そして、これ見よがしに組んでいた足を変えると舌を打ちながら説教を始める。キラはそれを説教とは取らずに、愚痴を聞いていると思って、彼の前に素直に立たされることにしている。
「全く……犬には事情が聞けないだろ?」
だから、キラは犬を連れて来たのだ。犬だとその辺につないでおけるが、人間だと介抱しなければならなくなるし、調書も取らなければならなくなる。そんなことはおくびにも出さず、キラはただ大人しくその衛兵の説教を素直に聞いていた。衛兵の説教や昔話にはうんざりしてしまうが、いつも正義の味方でいられる仕事、こんなよい仕事、他にはない。だから、キラは素直に頭を下げる。
「申しわけありません」
自分の前足を枕にしていた栗毛の犬がキラの言葉に反応して首を上げたが、自分に関係がないと察すると再び前足に顎を乗せて目を瞑った。
「全く。酔っ払いが何か起こす前にとっ捕まえるのが仕事なんだからな」
自己陶酔も含めた説教をする衛兵にキラは低頭姿勢で謝った。彼はキラに説教を続ける。反論はしない。ただ、自ずと視線が窓へと向かう。窓にあった月が見えなくなっていた。一時間は経ったのだろう。そして、彼もそろそろ酔いを醒まし、寒気にくしゃみをして千鳥足で去って行ったことだろう。そして、きっと明日からも変わらない日々を送る。キラは勝手にあの酔っ払いを思い浮かべていた。
「犬の面倒も見れないなんて、馬鹿にすんのか、この野郎! 畜っ生! 何が、鉄壁だ。……こんなもん作るんだったら、ちったあ、……俺のことを考えてくれてもいいじゃねぇかよぅ」
彼は壁を力任せに蹴っ飛ばし、その足を庇いながら、ふらりと仰向けに倒れて、そのまま鼾を掻きはじめた。犬はその不意の攻撃に怯み、飛び退くが、すぐに酔っ払いの元へ戻ってきて、心配そうに彼の顔を覗きこんだ。その鼻先の冷たさに、僅かに目を覚ました酔っ払いが囁いた。それが酔っ払いの本来の性格だったのだろうと、キラは思っている。
「ごめんよぅ。お前にやる餌はもうないんだ」
もちろん、あの酔っ払いがあのまま塀を乗り越えて中に入っていたとしても、この国は何一つ変わらない。ただ単に祭り上げられただけの現国王アイルゴットに、もし微塵でも酔っ払いの現状を鑑みる余裕があったのならば、キラが城壁回りなんて出来るはずがないし、酔っ払いが国王に憂さを募らせることもなかったかもしれない。