魔女・・・4
「元気そうで何よりね。窓くらい開ければいいじゃない」
キラの耳に届いたマーサの言葉は淡々としていて、非難の色が込められていた。その非難にキラは心当たりがある。いくつも。
キラがジャックになると言った時、真っ先に反対したのがマーサだった。だから、ジャックになって以来ここを頼ったことがなかった。それなのに、一番厄介なことをキラは運び込んでいる。その厄介な物は今ベッドの中で、おそらく息をしているのだろう。だから、マーサはベッドにいる不審者に目を向けて言った。
「カーテンを閉めた時点で同じなんだから」
そして、その言葉の向こうにあるマーサの心情を考えた。もちろん、言葉通り、いつも開いているカーテンが閉められたのだ。誰かがこの部屋に入った、ということが外部にも知られることとなる。しかし、マーサがわざわざそんなことをキラに伝えるとは思えない。
言葉の裏側を疑え。
これは、ジャックの基本だとシガラスがキラに教えたことだ。相手の心情の裏をかけ、しかし、策に溺れるな。そして、マーサが一つ付け足した。
でも、策に溺れるくらいなら相手に流されなさい。そうすれば、どうすれば生きる道があるのかを思い描けるようになる。あんたはいつでも流されないように踏み止まろうとする。
例えば、キラがマーサの策に流されたのならば、おそらくどこかでその流れに逆らわなければならない。
マーサは先の魔女狩りで親友を亡くしている。その結果ガーシュを恨むようになった。ガーシュがその親友に魔女狩りの仕事を用立てたからだ。それはキラがまだガーシュにもマーサにも会っていない時の出来事で、彼らはそれ以来、便利屋としての仕事を全くしていない。しかし、今でもマーサが声をあげれば、何人ものジャックがマーサに付き従うと言う。ガーシュにも同じことが言える。彼らはそれをしようとしない。そして、今、マーサの目の前に直接の仇がいるのだ。しかし、マーサの仇を連れて来たつもりはないし、マーサがそれをしないことも分かっていた。マーサが仇を討つ気なら、こんな時間まで待っていない。
そして、キラ自身が譲れない答えだけを失わないようにする。
「頼みがある」
「請けられない。あんな危険なもの誰に頼めるって言うんだい?」
即座に拒絶したマーサがキラを通り越してワカバの傍に立った。マーサが異様に緊張しているのはキラにもよく分かった。ワカバを見つめたその視線は何かを訴えたいのを我慢しているように見える。キラが載せたタオルを摘み上げたマーサの顔は怖いくらいに無表情だった。それなのに、キラはマーサが断れないようにするための言葉を並べる。
「ワカバって名前らしい。何をしたって助かりそうもない」
「名前なんて聞いてない。放っておけばよかったんじゃないかい?」
しかし、キラにとってその駆け引きは本当に不毛なのだ。言葉を吐くごとに、キラは自分自身に違和感を感じる。
マーサに名前を教えることがとても卑怯なことだということは十分に分かっていた。しかし、ワカバを背負って歩いていると、希望なんて全く見えなかった。そして、林道を抜けてまばらになった町の光を見ていると、ここに足が向いていたのだ。マーサの言うように放って置けばよかった。そうすれば、魔女はあの林道で死んでいたかもしれないし、あの遠くで聞こえた声の持ち主に見付けられていたかもしれない。そうすれば、キラとは絶対に無関係の場所に魔女はいた。
「でも、まだ生きてるんだ」
それがどうしたんだ? キラはその言葉をそっくりそのまま自分に返した。お前はジャックだろ? 人にあるまじき存在だろ? 悪魔に魂を売ったんだ。魔女と変わらない。そうだ、この魔女もキラと同じなのだ。マーサは溜め息交じりにベッド越しのキラに答えた。まるで、キラの中にある違和感に気付いているように。そして、それがとても意味のない駆け引きであることを知っているかのように。
「顔の割れたジャックの末路は分かるだろう? この子がそれと全く変わらないのも分かってるだろう?」
「分かってる」
ぐっと握った手に力が入った。分かっていたが、どうしようも出来なかった。
「今、私が親友の仇をとっても変わらない。そうね。結局助からないんなら、どうやって死んでも同じ」
「そうしたいなら、そうすればいい。おれは何も止めないし、死体になればおれが後を片付ける。ただ、おれはこいつを殺す理由がない」
「理由くらいいくらでも作ってあげるわ。どこにいても同じなんだから。そうよ、今すぐあんたに依頼をしてあげるわ。いくらでも言い値でいいわよ」
言葉とは裏腹にマーサの声には覇気がない。マーサはワカバの手を取って握り締め、その手を自分の額に押し当てた。まるで、マーサ自身がワカバに許しを請うように。
「マーサ……ごめん」
キラはマーサがワカバを殺さないことを知っていた。それはマーサがかつてジャックとして名を馳せていたからという理由に尽きるのだが、キラはずるくもそれを見誤らなかったのだ。
かつてジャックだった者はどこかで誰かに赦しを求めている。マーサの場合、憎むべき相手がそうだった。
「出て行ってちょうだい。着替えさせるわ。いつまでもこんな汚れた服着せてられないし、こんなのじゃ治るものも治らないわ。全く酷い扱われようね、あなた……」
マーサは、ただ言葉を零していく。そして、一度もキラを見ようとはしなかった。
キラはマーサに追い払われたことで自分が安心していることに気が付いた。罪悪感に襲われる。しかし、キラが今できる最良であることに変わらない。
「よろしく頼む」
深くお辞儀をしたキラは静かに扉を閉めていた。そして、キラの中で溜まっている後ろめたさを吐き出すようにして、大きく息を吐き出した。荷が下りたわけではないのだ。しかし、どこか一息つけた。そんなことを思う自分自身に改めて嘆息した。まるで背負っていた重みが腹の中で石に変わってしまったような感覚だった。ただ一時的にマーサにその荷物を託しただけなのだから。
ガーシュにも言っておかなければならない。しかし、階下に下りて行く足は予想以上に重く、ゆっくりとしか動いて行かない。酒場は薄暗く静かだった。窓からはまだ柔らかい光が差し込んできていて、その光を上るようにして埃が光って見えた。そして、その薄暗い光の奥からガーシュに呼び止められた。こっちはあまり老けたとも思えなかった。昔から厳しい表情で、無口だ。
「久し振りだ」
囁くような響きしかないのに、それは彼の過去を語るように空気を震わせた。キラにはまだない深みだ。
「いたのかよ」
「当たり前だろう? ここはおれの店だ」
ガーシュはグラスを丁寧に拭いていた。几帳面なガーシュは新品同様になったグラスを逆さに立てて、並べているところだった。しかし、全くキラを見ようとはしなかった。呼び止めたくせにたいして何も言わないガーシュが気に食わなかった。ガーシュはキラを非難しているのだ。だが、それは仕方のないことかもしれない。
「迷惑かけて悪い」
キラの言葉に、ガーシュは少し頬を緩めたような気がした。
「二人とも元気そうでよかった」
「元気そうか?」
少なくともキラにはそう見えている。二人とも変わらない。
「何かあったのか?」
「何かはお前が連れてきたんだよ」
「ごめん」
謝るキラにガーシュの表情がわずかに緩む。
「素直なことはいいことだ。だが、もし、お前の元に魔女を殺せという依頼が入ったら、お前はどうする?」
しかし、遠い場所を見つめているガーシュはキラが今最も聞きたくない言葉を放った。
クイーンはがめつく、自分が手にする報酬よりもジャックがもらう報酬が多くなることを嫌う。今あの魔女に懸けられている懸賞金以上を払ってまでジャックに依頼する奴なんていないだろう。いや、懸賞金のかかった奴を殺すための二重報酬なんて、人道に反するとでも言うのだろう。色々と面倒なのだ。だから、普通のクイーンなら、今、魔女を殺そうとはしない。だが、シガラスは違う。シガラスなら、例え懸賞金以下の値段であってもジャックを雇い、懸賞金は依頼主に、なんていう馬鹿げたことを平気でしかねない。
「心配ない。そこまであいつに義理堅いジャックはいないから」
自分のためにそうガーシュに伝えているのが、キラにはよく分かった。
「だがな、マーサだって分からない。世の中は理不尽に出来てしまってるもんだ。信用出来ることなんてほとんどありゃしない。あの日、魔女の村に攻め入ったのは人間の部隊だった。そして、全滅したのは両方だった。あの魔女が先に魔女を殺していたと思うか? まあ、気を付けろ、と言うことだ」
ガーシュはいつも最後の言葉を放り投げる。最後まで説明したことがない。だからキラは大声で叫びたくてもその叫びを呑み込まなければならない。胸の奥はずしんと重くなる。
「心配するな。魔女一人くらいなんともないさ」
「……あぁ。ありがとう」
ガーシュがそういうのなら大丈夫だと思うが、キラの心は全く晴れなかった。




