小さな脅迫
何度思い返しても、どうしてあんな行動をしたのか自分でもよく分からない。
目を丸くしている彼に向かって僕はこう叫んだ。
「家の鍵がない!」
嘘だった。
ポケットの中の鍵は確かに服の上からその硬さを知らせていたし、ポケットにはチャックまでついていたから落ちようがない。
だけど男は顔色を変え、きっと自分の車とぶつかった拍子に失くしたのかもしれないと、仕事を人に任せて、小一時間ばかり衝突した場所や車の傍、事務所の中まで徹底的に探し回った。
身をかがめ探し回るその背中を見ながら、ポケットの中の鍵がずしりと重たく感じたけれど、僕は黙って服の上から握りしめていた。
「ごめん、見つからないね」
腰を伸ばしてため息をつく彼に、僕はさらに追い打ちをかけた。
「今、家にね、誰も、いないんだ」
男は振り返って目を丸くした。
だから僕は俯いて見せ、出来るだけ声を落として続けた。
「一週間、誰も帰ってこないんだ。皆、遠い所に行っちゃったから。
どうしよう?僕、家に入れない」
言葉を失った男の顔を僕は一生忘れられないだろう。
初めて人を騙したのに、こんなにも胸が躍ったのだから。
男は額に手をやった。
「まずいことになったな」
財布も携帯も持ってないことを知ると、男は僕の代わりに家族と連絡を取ろうとした。
でも心配させたくないからそれだけはやめてくれと言った。
そして真っ直ぐに彼を見て、僕はゆっくりと口を開いてこう言ってやる。
「事故のこと本当に悪いと思うなら僕の家族に余計な心配かけさせるより、一週間、あなたの家に居させてよ」
男は額に手をやったまま、静かに視線を僕に向けた。
「どうせ僕だって春休みだ。一週間ぐらい、旅行でもしたと思えばいいし、家族が帰って来る日にはすぐに出て行くよ。そうしたら家族にも事故のことなんて知られない。
もちろん僕も言わないから」
悪くないだろ?と笑って見せたけど、彼の表情は変わらなかった。
内心僕は駄目かもしれないと思った。これは彼にとって不利益にしかならないことだから。
だけどここで引き下がりたくはない。
じっと男の目を見据えて、その答えを待ち続けた。
暫く押し黙っていた男は、けれど手を下ろしてふっと笑った。
その柔らかい笑顔に、彼が応じてくれるかもしれないという希望が見えて胸が踊った。
だけど、僕は忘れていたんだ。
すべての始まりに続く、避けては通れないこの質問を。
「名前、何ていうんだ?」
僕は思わず背中が強張った。
もう何百回と尋ねられたであろうその質問に答えようとするたび、抵抗感と緊張を覚える。それは慣れてしまったけれど、どうしても好きになれない感覚。
「きょ、恭、子」
まるで罪を告白するかのように声が擦れて上手く出なかった。
ちゃんと聞こえただろうか?届いんたんだろうか?
僕は「僕」じゃない。でも「私」だとも言いたくない。
皆は僕の意志なんて無視して「恭子」と呼び、「恭子」と名乗れば驚きを隠そうともしない。
じゃあ一体僕は何と言えばいい?僕の名前はこれしかなくて、やっぱりこう名乗るしかないんだ。
だけど、すんなりと男はそうかと頷いた。僕が思っていたよりも至極簡単に。
「正直なんだな」
男は笑った。
「適当に答えても私には分からなかったのに」
ああ、そうかと思った。
別に本当の事なんて言わなくてもよかったんだ。言わなくたって分かりはしないのに。
「でも、だって、あなたも隠さなかったから。それが嬉しかったから。
僕も。僕も、そうしたい」
僕は恥ずかしくて顔を上げられないでいるから男がどんな顔してるか分からなけれど、でもほんの少し訪れた沈黙は嫌なものじゃなかった。
「よし。じゃ、恭ちゃん。」
男は明るい声をあげると、その長身を曲げて僕の顔を覗きこむ。
男が笑うと細く垂れた目尻に、くしゃりと現れたシワがやけに目に焼きついて見惚れてしまう。
「『恭ちゃん』はいやか?」
僕は首をふった。
恭子だけど「恭子」と呼ばれたくない僕を、こんなにも簡単に受け入れてける人はそう多くはない。
「でも、ちゃんはいらない。なんか違和感ある」
男はまたそうかと頷いた。
「では恭、お腹減ってるかい?」
「うん、すごく」
彼は笑った。
「じゃあ、まかないが残ってるから、それを食べながら私の仕事が終わるまで待っていてくれるか?」
僕は顔を上げて彼を見上げた。
「いいの?」
「今日はまかない作りすぎたんだ。むしろ食べてくれた方が助かる」
違う。僕が聞きたいのはそのことじゃない。
抗議しようと口を開きかけた時、男の方が先に続けた。
「あと2時間ぐらいすれば仕事がひと段落する。そうしたら私の家に帰ろうか?」
僕は嬉しくなって大きく頷いた。
「ねえ!」
振り返る男に僕は訊く。
「あなたは?」
男はきょとんとして首をひねった。
その仕草が妙にあどけなくて、僕はいつの間にか口元が緩んだ。
「あなたの名前は?何て呼べばいい?」
「ああ、将人だ。花宮将人。普通だろ?」
将人は冗談めかして言ったけれど僕は頷かなかった。
代わりに口の中で何度もその名を反復して舌に馴染ませた。
それから僕は、再び戻ってきた事務所で他の従業員が持ってきたナポリタンを一人で平らげ、誠人の仕事が終わるまでただひたすら待っていた。