その正体
真っ暗な闇の中だった。
不思議と怖くはなくて、闇の中から波の音が聞こえた。
近くから、遠くから、寄せては返し、またすぐ傍から響き渡る。
光の気配がした。
僕は自分が目を閉じているんだと気づいて、目を開けた。
夜を走る車の中にいた。
前部座席で親父と母さんが何かを話しているけれど、波の音だけが響いている。
車が停まる。
また、光の気配がした。
視界の端で仄かに揺れる光。
振り向くと「Runa Warld」が明るく輝いていた。
滑り台のような屋根の二階建て。
大きな窓から洩れるオレンジ色の灯り。
吹き抜けの店内。
光に浮かぶ黒い影。
誰かが2階にいる。
まぶしくて顔が見えない。
だけど僕を見てる。
胸が高鳴る。
強くなる波音。
オレンジ色の灯り。
黒い人影。
走りだす車。
遠ざかる 月の世界。
それは幼い頃どこかで見た、いつかの光景。
ずっと頭から離れなかったのに。
ずっと覚えていようと思っていたのに。
どうして忘れていたんだろう。
目を開けると、見覚えのない天井が広がっていた。
辺りを見ても見覚えのない部屋だった。
どうしてこんなにいるのだろう。
不思議に思いながら体を起こすと、頭からぽろりと小さな保冷剤が落ちた。
少し首が痛い。
硬い長椅子の上に寝かされていたようだ。
ふいに後頭部に鈍い痛みと重い違和感がじわりと広がった。
「イテテ、テ」
恐る恐る触ってみるとポコリといつもの頭の形より膨らんでいる。
指でなぞればじんじんとするような、ピリピリとするような痛みが後を追う。
保冷剤が乗せられていた理由は分かったが、いったい誰が乗せてくれたのか。
辺りを見回すと、部屋には窓がなく、壁はコンクリートで固められており、冷たくもじっとりとした暗さが隅の方で蹲っていた。
鉄製の棚が並び、段ボールが幾つも積み重ねられている。
閉鎖的で薄暗く、まるで物置小屋のようだった。
それでも目の前にある長方形のガラステーブルの上には、開いたままのノートパソコンや飲みかけのコーヒーや食べかけのスナック菓子がそのままになっている。ついさっきまで人がいたんだろうことが分かった。
もしかしたら、さっきまでここにいた人が直ぐに戻ってくるかもしれない。
そう思って、体の上にかけられていたタオルケットを丁寧に畳むことにした。
勝手にカビ臭そうだなんて思っていたけれど、生地の端と端を合わせタオルケットをバサバサと動かすと洗剤の匂いがした。
ちゃんと洗濯されてるらしい。
畳んだタオルケットを長椅子の端に置き、僕は座り直して改めて考える。
一応、名前も住所も思い出せる。大丈夫だ、記憶喪失にはなっていない。
怪我も頭のタンコブと手の平のカスリ傷程度だ。
このままじっとしているのも落ち着かない。というより自分の意識がない時によく分からない場所に連れて来られたという状況から早く脱したかった。
ここがどこで誰が連れてきたのか。情報を知りたい。
立ち上がって段ボールの山の向こう側に見えている扉へ向かった。
ひんやりとしたドアノブを回そうとすると、どうだ。ノブが動かない。
左右に激しく動かしても全く動かない。
どうやら扉には鍵がかけられているようだ。だが、こちら側には鍵穴しかない。
閉じ込められたのか?
浮かんだ言葉に背筋がぞわりとした。
必死に扉を押したり引いたり、力任せに開けようと体当たりした。
だが激しい音をたてるばかりでビクリとも動かない。
誘拐か?あるいは事故を隠蔽するための監禁か?
今までに見聞きした映画やニュースが頭の中で駆け巡る。
慌ててポケットをまさぐるも手の平が何にかに触れることはなかった。
そうだ、全部置いてきてしまったんだ。
携帯を持って来なかったことに酷く後悔する。
どうしようか?どうしたらいい?
動けずにいる体の中で、落ち着かせようと自分に問いかける。
だが慌て始めた頭では何も考えることは出来ず、鼓動は早くなる。
訳も分からずただ立ち尽くした。
と、後ろで物音がした。
はっとして振り返ると、段ボールの影から人影が姿を現した。
「ひっ!」
瞬間、僕の心臓はぎゅっと縮んだ。
思わず目を瞑る。
「どうしたんだ?」
聞こえたのは拍子抜けするほど穏やかな声だった。
恐る恐る顔をあげると、人影は段ボールの影に佇んでいた。
「あ・・・」
僕はあまりの驚きに声が擦れて出ない。
口をあんぐり開けたまま固まっていると、再び影から声が響いた。
「監禁でもされたと思った?」
どこか茶化すような声音にムカつき思わず睨む。
ふっと笑った気配がしたかと思うと、影は段ボールの山陰から一歩進み出た。
白色の電光の下、その長身が姿を現して僕は少し頭を上げなければいけなかった。
「悪い。そりゃ驚くよな。すみませんでした」
男が軽く頭を下げるものだから、僕の苛立ちはすぐに冷めていく。
「ここは『Runa Warld』というバーキッチンだ。知ってるかな?」
よく分からない。知っている気もするけれど思い出せない。
僕は首を傾げた。
「そこのドアは従業員用の出入り口でね。営業中は鍵を閉めてるんだ。」
男が指差したのは僕が格闘した扉。
よく見るとドアの横に機械がついていて、たぶんそこで暗証番号かチップの入った何かでピッてかざせば開くんだと思う。
ということは、僕のいるここはどこかの店の事務所のようなところなのだろうか。
なんだ、監禁じゃなかったんだ。
思い込みでパニックになり掛けていた自分が恥ずかしくなってくる。
「家はこの辺か?」
また傾げてみる。
だって、僕がいるここはどこの街なのかもよく分からないでいるんだ。
だけどそんなこと、よく知りもしないこの人に言う義理なんてない。
「本当に悪かったね。誰かここに置いておけばよかったんだろうけど、ちょうどランチタイムでどうしても手が離せなくて」
よくよく落ち着いて見ると、僕の寝ていたソファの向こう側に半開きになっている扉があった。
「頭のコブ、大きいよな。痛むか?」
僕は首を振った。
「他に痛い所や怪我はないか?」
頷く。
「本当に?」
また頷く。
「そうか。でも今は大したことないかもしれないけど、後から痛むところが出てくるかもしれない。それにきちんと謝罪もしたいから、親御さんの連絡先、教えてくれないか?」
僕は答える代わりに尋ねた。
「あなたの車に、僕はぶつかったの?」
今度は男が頷く番だった。
「君が来ていることに気づかないままバックしてしまったんだ。私の不注意でとんだ目に合わせてしまい、本当に申し訳ない。なんて謝ればいいか・・・」
男は誠実な声音で頭を垂れた。
だが大の大人に深々と謝罪されたことのない僕は、余りの居心地の悪さにうろたえてしまい何も言葉が出てこない。
「一応、自転車も確認したんだ。目立った損傷も壊れたような箇所もなかったけど、ちゃんと君の目で確認してくれ。もし傷でもあったら教えて欲しい」
彼の謝罪が真心からのものだということは、世間知らずの僕でも分かった。
だけど僕自身もぼんやりしていたのだし、車の後ろに飛び出したのも僕だ。
「ぶつかったのが、あなたみたいなちゃんとした大人でよかった。悪い人だったら、今頃僕あのまま放置されてたよね」
男は少し苦笑いした。
「君の言う『ちゃんとした大人』なら普通、警察と救急車呼んでるだろ?私はそんな人間じゃない」
「なんで?僕の頭、手当てしてくれたよ?」
「まあ、ね」
言葉を濁して、ふいに男は自嘲気味に笑った。
「この店の、ね」
男は右手の人差し指で頭上を指差した。
「色んな都合考えて、仕出かしたことを隠そうとした弱い大人だよ」
「ふうん。正直なんだね、言わなきゃ分からなかったのに」
男はまた苦笑した。
「せめて親御さんには言わせてくれ」
それから連絡先や住所を教えて欲しいと何度も言われた。
だけど僕は、そんなことしなくていいと教えなかった。
直ぐには戻ってくることのできない親に、無駄な心配などかけたくはない。
本当は教えた方がいいことも、彼の連絡先も聞いておいた方がいいことも分かっていた。
けれど、何故か出会って数分しか接していないはずの彼を信頼していた。その誠実な対応に感謝さえ述べている自分がいったい何を持って確信しているのかさえよくは分からない。
なのに僕は、自分のこの確信が間違ってはいないという事もまた信じていた。
自分が見知らぬ人間にこうまで心許せたのは小さな頃以来かもしれない。
押し問答がしばし続いた。結局何かあれば僕がこの店に来るということでお互い同意し、その場は治まった。
もうとっくに日は沈んだからと、僕は帰ることにした。
すると男は黒いズボンのポケットから細くて長い鍵を取り出し、僕がいくら頑張っても開けることの出来なかった目の前の扉を、いとも簡単に開けてくれた。
その仕草がとても優雅で、僕の目に沁みた。
外はもう暗く、風も冷たくなっていた。
扉から一歩出ると、そこは確かに彼の言った通り「Runa Warld」の駐車場だった。
「気をつけて帰るんだよ?」
笑みを浮かべる彼に一礼し、無事に健康体を保っている自転車に向かう。
店内から声がして、誰かから呼ばれた男は、済まなそうに僕に手を振り奥へと戻ってしまった。
閉まる扉の小さな音が、風の中でもはっきりと耳に届いて長身の姿を隠した。
皮膚の下、何かが這いずり回り、足先から背中を伝い頭の上にまで這い上る感覚が襲う。
まただ。時折、体の奥の手の届かないどこかが何の前触れもなくむず痒くなる。
だけど、今度のそれはいつものとは少し違った。
いつもよりはっきりと、そして這う「もの」が大きかった。
掻きむしっても這いずり続け、行き場のない僕を急き立てる。
すぐに治まったけれど、僕には自分が何かを思い出そうとしてるのだと分かった。
そう、思い出さなければいけないんだ。
頭の中のこの異物感の正体を。
店に横づけされていた自転車は、少し前かごが変形しているほかはどこにも異常はみられない。
自転車を押して敷地を出、店の正面へと出た。
「Runa Warld」と洒落た字体で浮き彫りにされた看板が、よく人目を引いている。
どんな店なのかと出入り口の真ん前で立ち止まる。
2階建ての吹き抜け調の店内は、店の正面全体がガラス張りでよく見渡せた。
その2階部分に、彼は立っていた。
手すりに両手を置き、体重をかけて車道を眺めているその姿に、僕は釘付けになった。
ああ、この姿だ。
白いシャツと黒いベスト。そして手足の長さ、寄り掛かっている角度。どれもずっと前から知っている。
ふいに「何か」がまた背中をナメクジのように這いずりだす。
湧水のように増殖し、分裂し、波紋しながら体中に広がっていく。
悪寒がして気持ち悪い。頭の中の異物はどんどんと大きくなっていく。
“思い出せ”
“思い出せ”
肋骨の上で蠢き、次第に心臓が覆われていく。
圧迫されて苦しい。
胸を押えても、「何か」は心臓を食い破っていく。
侵入されていく痛みに、虚しく服を握りしめた。
僕はこの姿を……知っている。
“思い出せ”
「何か」の動きが激しくなった。
心臓が動きに合わせて大きくうねる。
中で「何か」が飛び跳ねている。
“思い出せ”
破裂しそうだ。
男は腕を交差させながら、手すりに乗せ換えるとゆっくりと視線を落とした。
僕を見つけた彼の、驚きを滲ませた瞳が僕の目と絡み合う。
瞬間。
頭の中で脳みそより大きくなっていた異物が、ぱちんと大きな音を立てて弾けた。
彼は夢の中のあの影。
僕は自転車を放り出し、そのまま店の中へと走った。
体中のナメクジをあちこちに飛び散らしながら、階段を駆け上がる。
明るい店内に居る人皆が、僕を見ているだろう。
だけど構わなかった。
息を切らして男の前に立った時、波の音が聞こえたような気がした。