4.9 (火)13:40
カフェテリアから、真央たち2年A組の教室のある1号館へ向かって歩をすすめる。
その前を通り過ぎると、キャンパス入り口の礼拝堂が見える。
礼拝堂へ向かう道の傍らに、聖エウセビオ学園の講堂は存在する。
白いアーチ状の、高い柱をくぐると、その講堂の入り口が見える。
講堂をくぐり、木製のがっしりとした扉を開ければ、目の前には同じく木製のステージがそびえ立つ。
そしてそのステージの上には、巨大な十字架とパイプオルガンが荘重にもすえつけられている。
天井には星の徽章、ステージ右側の壁には、神学者アタナシウスらとともに異端に反対し、パレスチナに追放されながらも正統信仰を擁護したイタリアの聖エウセビオの肖像。
また左手には幼子イエスを擁く聖母マリアの肖像がかけられている。
入学式をはじめ卒業式、クリスマス礼拝など、さまざまな学校行事が行われる、1000名以上を収容できる講堂には、たくさんの新入生の姿があふれかえっている。
「……以上で、水泳部の紹介を終わります」
礼儀正しく、凛々しく頭を下げるその少女、礼家葵の美しきその姿。
男子生徒のみならず、女子生徒までもがうっとりと見とれ、ふう、とやるせないため息、その後気づいたように大きな拍手が会場にが響く。
まるで舞台女優のように悠然と、ふわりと踵を返すと、ステージ右手のカーテンにその姿は消えていった。
「お疲れ、葵」
陸上部の発表を控えた、桃が葵に、クールに声をかける。
「お疲れ様ー、葵ちゃん」
対照的に、いつものあの人懐っこい笑顔をたたえた奈緒の表情。
「やっぱり、葵ちゃんってこういうの本当に上手だよね。それに、やっぱり美人って得だよねー。みんな葵ちゃんに見とれてたんだよー」
甘えるような声で言った。
「いえいえ、そんな」
顔を少々赤らめながら、謙遜したような葵の言葉。
「それよりも、もうじきボクシング同好会の発表の順番じゃないですか? 頑張ってくださいね」
「うん、僕たちもしっかり発表するよ」
「まあ、俺らの場合、論より証拠、っつうか、実践がメインだけどな」
そこには、タンクトップにトランクス、バンデージを撒いた両手にグラブとミットを携えた真央と丈一郎の姿。
「まあ、ボクシング同好会はステージで実演をされるのですね」
葵のその視線は、一直線に真央の姿に突き刺さる。
ブレザーの上から出もわかる真央のその屈強な肉体が、タンクトップ姿では嫌が応にも強調される。
改めて目にする真央のその均整の取れた、無駄な脂肪一つない肉体に、葵の目は釘づけになる。
葵は、自分自身の顔が赤く火照っているのがわかった。
それをごまかすかのように
「きっと、たくさんの会員が増えますよ。私、そう信じていますから」
とにっこり笑った。
「そうだね。何とかして会員増やして、部に昇格できるといいな」
腕組みをしながら。
「そうすれば、きちんと部費もでるからね。三人とも頑張るんだぞ」
と桃は発破をかける。
「うん! 頑張る!」
と奈緒は両の拳を固く握りしめた。
すると、さらに奥の方から
「ボクシング同好会の方々、準備お願いしまーす」
と、主催の生徒会から声がかかる。
「あ、はーい!」
屈託のない、元気な奈緒の声が響く。
「じゃあ行ってくるね!」
小さく手を振る奈緒。
「うっしゃ、行くか」
「頑張ってくるね」
タンクトップ姿の二人のボクサーの後姿がそれに続く。
「ああ。頑張ってね」
「緊張しないでくださいね」
その後姿を、二人の美しい女子生徒は見送った。
その三人の姿が暗幕に消えたのを確認すると、葵は桃に声をかける。
「そう言えば、桃さんたち陸上部は、どんな発表をされるのですか?」
「あたしたち? あたしたちは普通に、大会の時の映像流して活動内容発表するだけだよ」
小さく微笑む桃。
「あたしたちは奈緒たちと違って何としても集めなきゃ! って感じじゃないから、毎年恒例の発表するだけだよ」
「そうですね。それは水泳部も同じですね」
と同じく微笑みを返す葵。
「どんな支度をされたのですか?」
「いつもどおりだよ。昼休みに部室で集まって」
小首をかしげながら指を折る。
「うーん、簡単な打ち合わせと動画の確認やったくらいかなぁ」
「そう、そうでしたか」
きらり、葵の目の奥が輝く。
「そこで部室からの帰り、真央君とお昼ご飯をご一緒した、というわけですね」
がたん、座っていたパイプ椅子から、転げ落ちそうになりながら立ち上がる桃。
「な、な、なにいってるんだ? そ、そんなことあるわけないだろ!?」
その様子を見ても動じることなく、葵は口元に手をやりくすくすと笑う。
「まあ。そんなに隠さなければならないことなのですか?」
「ち、ち、ちがうって! 誤解だって!」
こぶしを握りしめ、必死でその誤解を解こうとする桃。
「打ち合わせ終わって、部室でお弁当食べた帰りにあいつに会っただけなんだって! そ、そう! 偶然! 偶然会っただけだし! 一緒にお昼ご飯食べたとか、ありえないから!」
「ええ。そうかもしれませんね」
あくまでも言葉を選び、じわじわと追い込むように葵は畳み掛ける。
「今朝偶然ご飯を炊きすぎて、偶然おにぎりを作りすぎてしまって、偶然食べきれないほどのお弁当にな手しまって、偶然真央君にお会いしたんですものね」
その冷静な指摘に
「い、いや、その……」
と言葉を詰まらせてしまう桃。
「別にいいじゃありませんか。一つ屋根の下に暮らしていらっしゃるのですから。どうせだったら一緒にお弁当を作って差し上げればよろしいのに」
と葵が言葉を続けると
「いやっ……そもそもあいつが、“そこまでは迷惑かけられない”っていって、昼食だけは自分でまかなうっていったから……なんだけど……」
少しずつ桃の声は尻すぼみになって行った。
「そうなのですね。でも、なんとなくわかります」
葵は、黒く美しい髪をかき上げる。
「真央君って、義理とかそういうものを大切にされる方ですから。これ以上は迷惑をかけられない、って言う線引きがあるのでしょうね」
その言葉に、桃は腕組みをして
「そうだね。たぶんあたし達がお弁当を作る、って言っても、きっと受け入れないと思う」
「あ! 私、いいことを思いつきました!」
ぽん、と口元で小さく手を叩く葵。
「私が、真央さんのお弁当、毎日お作りいたしますね! それがいいと思います!」
「えええええええええ!?」
素っ頓狂な声を上げる桃。
「ちょ、ちょっと! 何言ってるんだよ、葵! 葵が何でマー坊のお弁当なんか作るんだよ!? それこそ関係ないじゃないか!」
「あら? そもそも真央君と桃さんや奈緒さんだって、もともとは他人じゃないですか? その他人のお二人が、朝ごはんと夕ご飯をおつくりになられているのですから。私にもお手伝いさせてください」
とにこにこ笑って話す。
「……いや、でも、あいつがなんていうか……」
しどろもどろになりながら言う桃だったが
「大丈夫ですよ。桃さんや奈緒さんの負担の軽減にもなるって言えば、きっと受け入れますよ」
と、葵はしてやったりのいい笑顔を見せる。
「これで決まりですね。明日から、私、真央君のお弁当作ってきますから。それと、もしよろしかったら、皆さんでご一緒にお昼ご飯をしませんか?」
「え? え? え? ちょっと勝手にそんなこと……」
その申し出に、桃は言葉を返そうとしたが
「あら。ご遠慮なさるようでしたら、私は真央君と二人で昼食にいたします」
ペースは完全に葵のものだった。
「……うっ……」
もはや返す言葉もなく、立ちすくむしかない桃だった。
我が意を達したその達成感に、葵の表情はいかにも満足げだ。
すると
――パチパチパチパチ――
「あら、これからボクシング同好会の部活動紹介が始まるみたいですよ」
その拍手の音がそれを知らせていた。
「よろしければ、舞台袖で一緒に紹介を見ませんか? 真央君たちのボクシングを間近で見るのも久しぶりですし。ね? 一緒にいきましょう」
と桃のその手を引っ張る。
「え? あ、ちょっと!」
先ほどより、完全に葵に主導権を握られっぱなしの桃は、いやおうなしにそのなすがままになる。
「……まったく、いったいなんだっていうんだよ……」
やや不服そうな面持ちで呟いた。
舞台上では、真新しい高校生の制服に身を包んだ奈緒が、ちょこんとかわいらしくお辞儀をする。
「んしょ、んしょっと」
お辞儀を終えると、マイクスタンドの高さを調節し、こんこんとヘッドをノックする。
そして、ふう、と小さく息をつき
「新入生の皆さん、始めまして。これからボクシング同好会の紹介を始めます」
そして舞台袖を振り返り、合図を送る。
すると、ウェルター級とフライ級、タンクトップにしなやかな肉体を包んだ二人のボクサーが登場する。
おおっ、会場に一瞬のどよめきが走る。
二人は奈緒の両脇に立つと、これも小さく礼をする。
「やはり、なかなかインパクトがありますね」
「そうだね。ボクシングというスポーツは有名でも、目の前でホンモノのボクサーを見ることは少ないからね」
桃と葵は期待を込めた視線を送る。
会場の雰囲気をつかんだことを実感した奈緒は、緊張もどこへやら、生き生きと紹介を続ける。
「ボクシングというスポーツは、あまり親しみがないかもしれませんが、古代ギリシアから存在する、最も古いスポーツの一つです――」
滔々と、立て板に水でボクシングの話を始めた。
「やっぱりすごいですね、奈緒さんのボクシングの知識は」
感心したように呟く葵。
しかし、桃の表情はかげり、そして小さく爪を噛む。
「……まずいな……」
その意外な言葉に、葵は訊ねる。
「どういうことですか?」
そして真剣な面持ちで答える桃。
「……このままだと、すっごくまずいことになる……」




