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    4.9 (火)12:00

 プラスティック製のトレーを両手にもち、重い扉を軽く蹴飛ばし、そして肩でそれを押し開ける。

「どっかいいとこは、っと」

 真央はきょろきょろと周囲を見回す。


 レンガ造りの小路の脇には、青々とした芝生が生い茂り、木立の影には白のスチール作りのベンチ。

 そしてそこには、たくさんの女子生徒が、おもちゃ箱のように華奢なかわいらしいお弁当箱を広げている。


「……んー、何だかな……」

 明るい表情で、何事かはわからぬ事を話し合い、楽しそうな女子生徒、そして時折そこに混じる男子生徒の姿。

 その楽しげな雰囲気の中、真央の心の中によぎる違和感と疎外感。

「……別のところ探すか……」

 トレーを持ったまま、真央はぶらぶらと当てもなく歩みを進める。




「……ここでいーか……」

 カフェテリアの裏、業者の荷物搬入口の近くに、コンクリート作りのなだらかな坂。

 カフェテリアにさえぎられ、陽光もそれほど当たらないが、当然誰一人としてそこで食事を採る生徒はいなかった。

 しかし、それが真央にとってはむしろ好都合だ。


「よっこらしょ、っと」

 コンクリートの坂を上ったところ、搬入口の横のコンクリートの壁にもたれかかる。

「いただきます」

 誰に言うでもなく、真央は両手をあわせ声を上げる。

 その声が意外なほど大きく響いたため、真央は何故だか少々恥ずかしくなった。


 気を取り直し箸を取り、そして茶碗を片手に食事に取り掛かる。

 付け合せのキャベツの千切りとポテトサラダを一気にほおばる。

 普段口にする、桃や奈緒の食事とは比較にならないが、悪くない味だ。

 350円で元が取れない、と先ほど吐いたものの、この味ならばこの値段でも十分に納得できる、真央は心の底からそう思った。

 そして、タルタルソースのかかったチキン南蛮の一切れを、白米とともに押し込む。

 これも悪くない。


「ん、んめぇ」

 思わず簡単がこぼれる。


 真央がイメージする学食の定食とは全く違うものだ。

 良質の油でからっと揚げたためか、衣は意外なほどにさっぱりとしている。

 肉質も柔らかく、一本の筋も感じられない。

 火の加減は早すぎずも長すぎずもなく、真央の口中一杯に香り豊かな肉汁が広がる。

 これもまたあっという間に平らげ、最後の味噌汁を飲み干すまでにものの5分もかからなかった。 


「ふいーっ」

 満足の吐息が漏れる。

 うまかった、真央は一切のまじりっけもない感想を胸に抱いた。  

 バチィン、勢いよく両手を合わせると

「ごちそうさんっした!」

 深々と頭を下げ、声を上げた。


 そしてそのままカフェテリアの壁にもたれかかると、そのまま手を頭の後ろで組み、なすところなく空を眺める。


 美しい空だ。


 頬をなでる春の風もまた心地よい。

 そう言えば、このような形で、一人で昼食を取ったのはどれくらいぶりであろうか、真央は記憶を探る。

 考えてみれば、一か月もたっていないのだ。

 その事実に、真央は軽いショックを覚えた。

 釘宮家に、ある意味では押し掛けるように居候するまで、ほとんど食事を他人と取った記憶がない。

 確かに祖父と同居をしてはいたが、ほとんど家によりつくことがなかった。


 いや、違う。


 真央は、思い出したくない記憶を思い出す。

 なんで思い出したくないのか、ふいに心に湧き上がった記憶に、自分自身が困惑する。

 ただ自分は過去から逃げているだけではないのか、何もかもを故郷の広島においてきて、そして二度と戻らないことによって、その過去から逃げているだけではないのか、心の中に何か澱のようなものがどろどろと凝り固まって居ることに気が付く。


 ボクサーになるといって故郷を飛び出した。

 しかし、それはただ自分が直面したくなかったことから逃げだし、未来という名の避難口を見つけただけにすぎないのではないか。

 ふと、フリオ・ハグラーの防衛戦の光景が脳裏をよぎる。


 勝てるのか、あの男に。


 常に虚勢を張っていた真央だが、自分自身が目指すべき頂の急峻さに身震いする思いがした。

 バチィン、真央は自分の頬を両手で張る。

 弱気になるんじゃねえ、自分自身を奮い立たせるように。

 あの男を倒すことだけが、自分の生きる目標だったはずだ、自分自身に言い聞かせる。


 なぜだろう、釘宮家に居候するようになり、ふと気弱な自分が顔を出す瞬間が増えているような気がする、真央は首を傾げた。


「なんじゃろ、俺ぁぶち遠いところまで来てしまったんかもしれんのぉ」

 一人ごちる言葉には、お国訛りの色は隠せなかった。


 遠いところ、それは東京から広島という物理的な距離だけを意味するのではない。

 広島に住んでいた時とは、全く違った環境で生きている、今まで当たり前だと思った環境とは、あまりにもかけ離れた空間に自分自身が存在しているのだということに、真央は改めて気が付かされた。


 客観的に見ても、美しい釘宮姉妹と当たり前のように同居している。

 そして、まるで兄弟のように親密に接している。

 今までの自分自身の人生と照らし合わせてみれば、まるで及びもつかなかったことだ。


“好きだったことかは、いないの?”


 丈一郎の言葉が、胸によぎる。

 その問いかけを耳にした時、真央は何一つ言葉を返すことができなかった。


“好きな方とかいらっしゃいますか?”


 月光の下、美しい面立ちの葵からの言葉。

 その言葉にも


“たぶん、さ、そう言うのは……向こうにおいてきたよ。広島に。全部”


 とはぐらかすしかなかった。


 いやちがう。


 はぐらかしたのではない。

 これもまた逃げでしかないのだ、真央は確信した。


 間違いない。


 自分には、心の底から好きだと思った女がいたのだ、遠く離れてしまった今、真央は初めて自分自身の心に気が付いた。

 しかし、もはやそれは自分の力ではどうしようもないところへと消え去ってしまった存在だった。

 これほど大勢の人間に囲まれて暮らす中で、どういうわけか自分自身の心の中にぽっかりと空いた穴の存在に、真央は気が付かされた。


 そして、その不在の空間を埋めていたのは、まぎれもないその女性だった。

 急に真央は、何とも言えない心細さを感じた。

 なぜだろう、釘宮家に居候して以来、自分の中で当たり前だったものが当たり前でなくなっていき、急に自分自身が弱く、ちっぽけな存在になったような心地がする。


 たとえば、この昼食。

 ほとんど毎日、一人で昼食を取ることが当たり前だったはずなのに、なぜだか急に一人でいることの寂しさを感じる。


「くだらねー」

 そう言って頭を掻き毟った。

 考えてみろ、いつもお前は一人だったじゃないか、真央は自分自身に問いかけた。

 いいも悪いもない、それが自分にとっての現実だったはずだ、ただ急に環境が変わって、恵まれた悩みに心をかき乱されているだけだ、真央はそう言って自分自身を納得させた。

 再び空を見上げる。

 そしてそのままごろりとコンクリートの上に横になる。

 東京の空、改めて真央はじっくりと見渡す。

 もし今広島に自分自身がいるとして、同じように寝転がったとしたら、その見える空は同じものなのだろうか、ナンセンスな問いかけを真央は自分自身にする。

 この空を、もし一緒に眺めるとするとすれば、それはいったい誰なのだろうか。

 真央の心に最初に浮かんだのは――


 真央の顔に、不意に光を遮る影が。

 そしてその影は、覗きこむように真央の顔に近づく。

「おーい、こんなところで君はいったい何をしているんだ?」


「?」

 がばっ、真央は反射的に上体を起こす。

 そしてその視線の先には

「よぉ、桃ちゃんじゃねーか」

 その影の正体は、真央の同居人、釘宮桃だった。

「いやな、ほんとは学食の中で飯くおーと思ったんだけどよ、場所があいてねーから、ここで飯食ってたんだよ。桃ちゃんこそこんなところで何やってんだよ」


「あたしは午後からの部活動紹介の打ち合わせで、部室にいてきた帰りだ。」

 腕組みをする桃。

「相変わらず変な奴だな、君は。大体、君は川西君と一緒にいたんじゃなかったのか? 川西君はどこに行ったんだ?」


「あのなあ」

 不服そうに声をあげる真央。

「俺とあいつをいつもワンセットみたいに言うんじゃねーよ。気持ちわりいじゃねーか」


「だって事実じゃないか」

 きっぱりと告げる桃。

「君は友達をたくさん作れるタイプじゃないからな。君が一緒にご飯を食べるといったら、川西君位しかいないじゃないか」


 ぐさり、その言葉が胸に突き刺さる。

「……まあ、反論はできねーわな……」

 わしわしと頭をかいた。


 さらにたたみかけるような桃の言葉。

「どうせ君のことだ。大勢で食事をとることに気おくれして、一人でカフェテリアを抜けだして、ここで昼食を取っていたってところじゃないか? 違う?」


「……もう、何も言えねーよ……」

 すべてが見透かされたことに対して、真央は俯くしかなかった。

「なんか、みんなお見通しってかんじだわ」


 すると桃は、ゴソゴソとバッグをまさぐる。

 そして

「はい」

 キッチンペーパーでくるまれた包み紙を真央に差し出す。


「んあ? なんだこれ?」

 気の抜けたような声を発する真央。


 顔は朝手の方向を向きながらも、ピンと傍手のひらのその包みを真央の面前に差し出す。

「どうせ大食らいの君のことだ。うちの学食のメニューだけじゃ足りないだろ?」


「お、おお」

 困惑しながらもその包みを受け取り、がさごそとそれを開く。

 するとそこには

「おお! 握り飯じゃねーか! しかも三つも!」


「勘違いしないでね。別に君のために作ったわけじゃないんだからな」

 美しい髪を風に舞わせながら、あくまでも顔はそっぽを向いたままクールに答える。

「今日はたまたま、ご飯多く炊きすぎちゃって。炊き立てのご飯だから、もったいないからおにぎりにして持ってきたってだけ。食べきれないから、結局残っちゃったけど。残飯処理だと思ってくれればそれでいいから」

 

「へっ」

 真央は小さく笑うと、夢中でその握り飯にかぶりつく。

「うめえ! うめえよ桃ちゃん! ここの学食の定食もうめえけどさ、桃ちゃんの作った握り飯の方が何倍もうめえよ!」

 

「お、大げさなんだよ! 君は!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ桃。

「た、ただ、ご飯を、そ、その、に、握って具を入れただけじゃないか! だ、だれが作ったって、か、変わんないだろ!」

 そしてまたそっぽを向く桃。

「さ、あたしはもう行くからな。君だってこれから部活動紹介だろ? 早く川西君とか奈緒と合流しなよ」

 そして小さく手を振り

「じゃあね」


「ああ」

 夢中で握り飯にかぶりつく真央。

 そしてその後姿に向かい、大きな声を張り上げる。

「あんがとなー! 桃ちゃん! めちゃめちゃうめーよ! サンキューな!」


「ば、ばか、そんな大きな声を出すな!」

 真っ赤な顔をさらに真っ赤にして、桃は後ろを振り返る。

「は、は、恥ずかしいじゃないか!」

 

 その顔を見ると、真央は無性にうれしくなった。

「ぎゃはははは」

 

 桃の視線の先にはその真央の大きな笑顔と、不敵にアップされた親指が見えた。

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